ブライアンの行方
どこからか、泣き声が聞こえる。
私よりもはるかに大声で、誰かが泣いていた。
突然視界が蘇り、先ほどまでの暗闇が嘘のような、明るい日差しの下の景色が、眼下に広がる。
目の前には、四肢を振り回して暴れ、口を大きく開けて泣き叫んでいる幼子がいた。
(ここは、どこなの?)
辺りを見渡す。
明け方どころか、見上げれば眩しいほどに明るい青空が広がっていて、とても明るい。屋外で、どこからかチュンチュンと可愛らしい鳥の鳴き声も聞こえてくる。
見覚えのない家の軒先で、幼子を抱き抱えた夫婦と、一人の女性が立ち話をしている。
不思議なことに、私は彼らを上から見下ろしていた。まるで未来へと戻る道の途中で、時空の隙間に顔を出し、ある一場面を覗いているようだった。
私は今、風となり周囲を意識だけで漂っているのだ。
「泣かないで、ブライアン」
泣く幼子は、見知らぬ中年女性の腕の中に、すっぽりと抱かれていた。
(なに、この人たちは誰? ここはどこ?)
暴れた拍子に幼子をくるんでいた布が体から滑り落ち、それを拾った女性が幼子に再び布を掛ける。
私はその女性を見て、ギョッとした。
(ファナ……? これは、わたし?)
幼子に布を掛けているのは、どう見てもファナだった。
だが、私がさっきまで見ていた若く輝くファナではない。
たしかにファナなのだが、肌はややたるみ、明らかに老けている。歳の頃は、三十台半ばほどに見える。
ファナは酷く悲しげだった。
なぜか目に涙を溜め、沈痛な表情で幼子の頬を撫でる。
「ブライアン、ごめんね」
その刹那、幼子――ブライアンがファナに抱きつこうと両腕を差し出すが、彼の腕はまだすごく短くて、役に立たない。
ファナを求めるブライアンの手を優しく握ったのは、中年男性だった。
「約束します、姉上。ブライアンを必ず幸せにする。僕達の子どもとして」
驚いて視線を移すと、小さなブライアンの手を握ってファナに話しかけているのは、歳をとったエルガーだった。
髪の毛が随分と薄くなり、生え際が後退している。
あの無邪気さの残る十三歳の弟が、すっかり年齢を重ねた姿に、唖然としてしまい、束の間私の思考が止まる。
ブライアンを抱く女性が、ファナに遠慮がちに口を開く。
「お義姉様の大切なご長男を、本当にありがとうございます。私とエルガーに、子どもが出来なかったばかりに……。なんとお礼を言うべきか……」
「いいのよ。レシュタット家には、後継が必要だもの。それに、領地をほとんど失ったのは、私のせいだもの」
「姉上。ご自分を責めないでください。何度も手紙でそう伝えたでしょう。僕は、子供の頃から本当は気づいていましたよ。父上と母上にレールを敷かれて、姉上が苦しんでいたことを」
「エルガー……」
「それに、パトリシア王妃とイサーク国王の不仲は、有名ですから。国王の侍女が妊娠を偽装した挙句、王妃の追放を画策して逮捕された事件の時に、僕は確信しました。姉上は王太子妃にならなくて正解だったって」
なんだ、その事件は。
サリアがもしや、パトリシアの座を奪い取ろうとして、無謀な策に出たのだろうか。
隣に立つエルガーに相槌を打ちながら、ブライアンを抱く女性――おそらくはエルガーの妻が、しみじみと話し出す。
「あのサリアとかいう侍女が荷馬車に乗せられて、王宮から牢獄に連れていかれるあいだ、集まった群衆が浴びせていた罵声が、全てを物語っていましたね。国民は皆、誰の味方なのかを」
エルガーは苦笑した。
「王太子が荷馬車を泣きながら追いかけようとして、重臣たちに殴られながら必死に止められている姿を、僕たちも目撃してしまったんですよ。あんなのが僕の義兄にならなくて、本当に良かったと思っています」
思わず想像してしまった。
あの華やかな王太子が、鼻水をたらしながら、罪人となったサリアを追うところを。
パトリシアは、それを冷めた目で見ていたに違いない。
サリアについて事実を洗いざらい伝えた、私のパトリシアへのあの手紙は、もしや彼女の役に立っただろうか。
あの手紙が一つのきっかけとなって、十分警戒してくれたのなら、それ以上望むことはない。
エルガーはファナを慰めるために、更に言った。
「今や王宮では家臣すら、国王よりパトリシア王妃の意見を尊重しているらしいからね。パトリシア王妃は、王宮内外を問わず、絶大な人気を誇っている。……レシュタットに勝ち目はなかったんだよ」
決してファナを責めない優しいエルガーは、あの頃とちっとも変わらない。
ファナをお飾りの王太子妃にして、元侯爵令嬢のサリアとの愛を貫こうとしたイサーク王太子。けれどもサリアは日陰の身分に収まってはいられず、妃を追い落とそうとしたらしい。
(あのパトリシアに、サリアが敵うはずがないわ。サリアと王太子は、返り討ちにあったのね)
王太子は結局、守ろうとしたサリアを失ったのだ。自分の権威と信頼すらも道連れに。
(正直、同情はできないわね)
ファナは辺りに視線を巡らせ、何かを探していた。
ここはどこかの家の玄関先のようだったが、私には見覚えがない。
前庭は小さくて、私が知る王都のレシュタット家の屋敷ではない。
ファナはエルガーにおずおずと聞いた。
「お母様は、家の中にいるの?」
「居間から、出てきてくれませんでした……。今日姉上がブライアンを連れてきてくれると言ってあるんだけど。ディーン王国に入るための通行手形は高くて、姉上がこちらに来られる機会は多くないと、分かっているはずなのですが」
「私を許しては、くれないのね。仕方ないわね。それだけのことを、したんだもの」
ブライアンが、再び泣き始めた。
おそらくファナは、罪滅ぼしのために実子を弟夫婦に養子に出そうとしている。
ファナはブライアンに言った。
「ブライアン……あなたは小さ過ぎて、パンの香りにいつも包まれた、お父様とたくさんのお姉様達に囲まれたあの小さなお家のことは、きっとすぐに忘れてしまうんでしょうね……」
エルガーは、何やら小さな布の巾着をファナに手渡している。
「手紙で約束した例のものです。探し出せて、今渡せて良かった」
ファナは受け取りながら、その感触を確かめるように手の中に握った。
「ありがとう。大切なネックレスなの。これだけは、王都に置いてきてしまったことが心残りで」
「お義姉様、今さらですけれど、ブライアンのお父さんは、本当にこの子を養子に出すことに賛成してくれているんですか?」
「ええ。最初は反対していたけれど、少し前に二人目の男の子がうまれて、考えを変えてくれたの。レシュタットの家系さえ失うことは、私の母には耐えられないと……」
「お義兄様にも、いつか会って、お礼をお伝えしないと」
エルガーがファナにそう言うと、彼女は気まずそうに目を逸らした。
「そうね。いつかね。夫は平民だから、貴族と会うのには抵抗があるみたいで……。夫は私が公爵家を飛び出して、浮浪者のように国境をさまよっているところを、助けてくれたけれど、貴族とはまったく面識のない人だから」
「姉上が夫婦で営むパン屋にも、いつか行きたいです。大きくなったブライアンを連れてね」
ブライアンが叫ぶ。
「ママ、ママ! 抱っこ! ブライアン、抱っこちて!」
ブライアンは腕を伸ばしてファナに必死に訴えるが、よしよし、とエルガーの妻が、彼を宥めながら一層強く抱きしめている。
隣からブライアンを宥めるエルガーも、目を赤くして辛そうだ。
ファナはブライアンと目が合うと、その灰色の目から滝のように涙をこぼした。彼女は嗚咽混じりに、エルガーに言った。
「エルガー。私たち夫婦は、ブライアンとこれ以上一緒にいてあげられないから、せめてこれを託したいの」
ファナはそう言うと、ブライアンに紺色の革表紙の薄い冊子を手渡そうとした。
だがブライアンは握らされた冊子を投げ捨て、ファナの腕を求めて泣く。
落ちた冊子をエルガーが拾い、ファナに尋ねる。
「これは、日記帳?」
「ええ。表紙の裏に、書類がとじ込んであるの。この子が大きくなっても苦労しないように、夫がコツコツ貯めた貯金を預けた銀行の貸金庫の証書よ。これを、大事に持たせてあげて」
「姉上……」
「この子には、これしかしてあげられない……」
ついにエルガーまで目から涙をポロポロとこぼし、口元を押さえた。
ファナは差し出したブライアンの手をそっと押さえると、彼の頬にキスをした。
「元気でね。どうか幸せになって、ブライアン」
「ママ! マーマ!!」
背を向けて駆け去るように離れていくファナは、どんなにブライアンが絶叫しても、止まってはくれない。
幼いブライアンは母を呼び戻そうと必死に叫んだが、わたしも同じく混乱し、叫んでいた。
景色が再び暗転し、軒先でブライアンを抱く夫婦の姿が消え、私はまたしても暗闇の中を押し流されていく。
もう、時の流れに抵抗する気は起きなかった。
私は、分かってしまった。
長い時の流れの中で、歴史の積み重ねに埋もれて忘れ去られた事実を、突き止めてしまった。
私――、アリーラ・レシュタットの先祖は、公爵令嬢ファナの弟のエルガーではなくて、ファナその人だったのだ。私の先祖のブライアンは、ファナとジュストの子供だった。
アリーラは、ファナの直接の子孫だったのだ。
私がファナの中から離れた後、ジュストとファナには男の子が二人生まれ、長男のほうを二人は子のいない本家に養子として差し出したのだ。
「悪いことは、全部ファナのせい」
一族の口癖になっていたファナ。
だが実際には、ファナの決断なしには、私たちは存在すらしなかったのだ。私達は、彼らの命を受け継いでいた。




