ファナのタイムリミット
この頃から私の記憶は、なぜか飛び飛びになっていった。
夕方、ジュストの帰りを待ちながら日記を書いていると居眠りしてしまった。目が覚めると既に夜で、隣でジュストが寝ていた。
どういうことなのかと慌てて起きると、お腹がいつの間にか凄く重くて大きくて、目を剥いた。
(ああ、そうか。どうして忘れていたのかしら。今、妊娠七ヶ月なんだった……)
思い出そうとすると全てをちゃんと覚えている。間違いなく私は、病院に行ってきてジュストにはっきりと妊娠を告げ、少しずつ大きくなっていくお腹を二人でさすって喜んできた。仕事は先月、辞めている。
(変なの。さっきまで台所にいた気がしたのに)
首を捻りながら、私は再び体を横たえた。
お腹が重過ぎて、仰向けでは寝られない。横向きになってジュストを見つめ、そっとお腹に手を当てて目を閉じる。
最近、こんなことばかりだ。
記憶が時々、先まで飛んでしまう。けれど思い出そうとすると、ちゃんと細部まで覚えているのだ。
私は徐々に気がついてしまった。自分の、アリーラの意識が保てなくなってきているのだ。
この時が、来ないで欲しかった。
私はここに本来いるべき存在ではないのだ。
祖母の願いごとの、タイムリミットが刻々と近づいてきているのだと、頭の片隅では薄々わかっていた。
たまらず手を伸ばし、隣りで寝ているジュストの黒髪に触れる。
薄目を開けたジュストは、寝返りを打って私に背を向けかける。そこへしがみつくように、両腕で抱きつく。
抱きつかれて起きてしまったジュストは、目を瞬きながら、私を見た。
眠そうに私を見ているジュストに、構わず強く抱きつく。
「ジュスト、私をしっかり抱きしめていて。お願い、私を離さないで!」
「ファナ……?」
「あなたと、離れたくないの」
ジュストは眦を下げて微笑むと、つぶやいた。
「大丈夫だよ、ファナ。ずっと、ここに……そばにいる」
抱きしめ返してくれるその腕の温もりに守られるように、私の気持ちは安堵し、ジュストの胸に顔を埋める。
そして次に目が覚めると、私はぶるりと震え上がった。さっきまで過ごしやすい気候だったのに、妙に寒くなっている。しかも自分がいつの間にか、分厚い寝間着を着ている。一体、いつ、着替えたのか。
分からない。
(どうなってるの? なんでこんなに時間が飛んでるの?)
寝ぼけた頭で冷静な整理ができなくて、薄暗い寝室の中で、寝返りを打つ。
そうして何気なくお腹に手を当て、ギョッとする。
驚くべきことに、お腹が平らになっていた。
(うそ、やだ! どういうこと!?)
パニックになって隣で寝ているジュストを起こそうとした時、小さな泣き声がした。
慌てて飛び起きると、目に飛び込んできたのは、寝台の足元に置かれたベビーベッドだった。
そうだ。
どうして、一瞬忘れていたのか。
私は二ヶ月前に、出産していたじゃないの。
赤ちゃんを産むというのは、本当に大変なことで、これ以上の痛みがこの世にあるだろうか、という猛烈な痛みに半日も耐え、産後のあまりの疲労に息も絶え絶えな私の隣で、ジュストは目を真っ赤にして生まれた我が子を抱いていた。
急いで寝具を飛び出し、赤ちゃんのもとに駆け寄る。
ベビーベッドでは、柔らかな金色の巻き毛の赤ちゃんが、大きく口を開けて泣いていた。慎重に細い首と小さな頭を支えながら、手を伸ばして抱き上げると、赤ちゃんはアイスブルーの目で私をチラリと見ると、口をへの字にしてなんとか泣き止んだ。
私に抱き上げられて安心したのだろう。
(なんて可愛いの)
その柔らかく温かな体に、涙が溢れそうなほどの愛しさを感じる。
私とジュストの、宝物。
(ああ、神様。どうか、もう少しだけここにいさせてください)
けれど、私はもう悟ってしまっている。
アリーラがファナの中から、帰る時が近づいている。
そろそろもとの時代に、帰らなければいけないのだ。人生を全うするまでここにいることは、おそらく出来ない。
記憶が飛び始めたのは、私が――アリーラがここにとどまれなくなってきたからだ。
祖母が神様に頼んだ歴史を変えることができる分岐点は、過ぎたのだから。
アリーラが本来ここでやるべきことは、終わったのだ。
いつまでも二百年前にいられるとは、思っていなかった。でも、出来るだけ長くいたかった。
ジュストと、子どもともっと一緒にいたいからだ。
離れるなんて、考えられない。
いつまでも寝顔を見ていたくて、私は赤ちゃんをしばらくの間抱っこしていた。
私とジュストの初めての赤ちゃんは、女の子だった。
「可愛いわね。あなたは、ママの天使よ」
眠る我が子の頬に、起こさないようにそっとキスをする。
いつまでも、見つめていたい。共に過ごしたい。
けれど猛烈な眠気に勝てず、赤ちゃんを落としてしまうといけないのでベビーベッドに戻してから、フラフラと寝台に戻る。
寝具に潜り込むと、ジュストが薄く目を開けた。私は彼に縋るように手を伸ばし、抱きつく。
再び寝ようと閉じられていく彼の目をもっと見ていたくて、思わず声をかける。
「ジュスト。私を見て」
ジュストの目が再び開き、私を捉える。朝の薄暗さの中に溶け込んでしまいそうなアイスブルーの双眸があまりに愛しくて、目尻に唇を寄せてキスをする。
私のキスを受けて、ジュストは穏やかに微笑んだ。
その時。
カーテン越しに差し込む日の出の太陽が、寝室に差しみ始めて、薄ぼんやりと明るくなり始めていたはずなのに、まるで逆行するかのように辺りが暗くなっていった。
照らした蝋燭の明かりが、小さく弱く萎んでいくみたいに。
自然の摂理に反して暗転する状況に、覚えがあった。
(いや。いやよ……。今だなんて。まだ、ここにいたいのに)
震えるほどの恐怖を感じるが、頭の片隅ではもう、覚悟をしている自分もいた。
(分かってる。アリーラは、この時代の人間じゃない。いつかは帰らないといけない。この体はファナのものなんだ)
それでも。
心から、懇願する。
(ああ、だめ。お願い、神様! 私を帰さないで!!)
明かりは完全になくなり、暗闇の中でジュストの顔が見えないが、私の腕はしっかりと彼を抱きしめ、離すまいとしがみつく。
ジュストも片腕で私を抱き返してくれているのを、感じながら。
もう、アリーラの意識は飛び去ってしまう。
――何を言おうか。どうしても伝えるべきことは、なんだろう。
万感の思いが込み上げ、けれど言葉は一つしか出てこなかった。
「あなたに会えて、本当に良かった」
顔を擦り付けるように寄せると、どうにかジュストの顔が見えた。
ジュストのまなじりが優しく下がり、彼は囁いた。
「私もだよ。愛している」
涙が目に溢れ、私が瞬きを一つした瞬間に、涙は頬を伝い、ジュストをかき抱く私の腕は宙を抱いた。
寝台に横たわっていたはずの身体は支えを失って放り出され、下へと無限に落ちていく。風に舞う、木の葉のように。
時空を飛び、否が応でも二百年後に戻されていくのだと、わかる。
(――終わった。ここでの生活が、終わったんだ)
頭の中は凍りつき、何も思考できなかった。
けれど愛しい人々となんとしても離れたくなくて、必死に腕を振り乱して、空間を掻き、どうにかとどまろうともがく。
最後の悪あがきだった。
少し先でも良い。あの可愛い赤ちゃんが、大人になっていてもいい。たとえほんの一瞬でも良いから、その姿を見たい。
いや、ヨボヨボのおばあちゃんになっていても、いい。もう一度だけ、ファナにとどまらせて。




