新しい生活
ディーン王国の西に位置する自由都市・ランゲは教皇の保護のもと、平和と繁栄を謳歌していた。だが、私たちがここに来てから半年ほど経った頃から、ディーン王国に関して穏やかでない噂が入ってくるようになった。
ある夜、質素だけれど満ち足りた夕食を摂っていると、ジュストが言った。
「スヴェン王国が、ディーン王国に宣戦布告したらしい」
ついに戦争が始まったのだ。
手の中のパンを、無意識に強く握りしめる。
「ノア殿下がいるもの。きっと、負けないわ」
「長い戦争になるかもしれない。北部に領土を持つレシュタット公爵家は、これからますます苦境に立つだろう」
レシュタット公爵家は、私が逃亡したせいで、莫大な慰謝料を王家に支払った。
私の幸福を優先させたせいで、実家を苦しめたと思うと、胸が苦しくなる。
とはいえ、何もかも捨ててきたのは、ジュストも同じだ。
彼は死んだことになっており、アーヴィング家は悲しみに沈んでいるのだという。ロンドのモンラン湖でジュストの遺体は見つからなかったため、アーヴィング家は半年以上捜索を続けていた。だが、ようやく諦めがついたのか、最近ついに捜索が打ち切られていた。
王太子妃選びは一旦頓挫し、再開は難航しているようだった。だがいずれ、パトリシアが王室に入るのだろう。
ジュストが手を伸ばし、私の震える手を包む。その温かさに、次第に震えが収まっていく。
「私と逃げたことを、後悔してる?」
「いいえ。毎日これほどの幸福を感じるのは、生まれて初めてなの。後悔はしてないわ」
本心だった。
わたしはジュストにバレないように、そっと自分のお腹に手を当てた。
(後悔なんて、するはずがない。だって……)
実はここのところ、月のものがきていない。
ぬか喜びさせたくないのでまだジュストには言っていないが、もしかしたら。
新しい命が、私の中に宿っているかもしれなかった。
スヴェン対ディーンの戦争は、ジュストの予想通り、長引いた。
歴史をなぞるように。
私はノアの身が心配でたまらなかった。
(お願いだから、早く王都に帰って!)
そう思うけれど、ノアと教会で交わした約束を守れなくしてしまったのは、私だ。
罪悪感も相まって、とにかくノアが心配だった。
最初こそ互角に戦っていた両国だったが、間もなくディーン王国側の撤退が繰り返されるようになり、勝ち負けに構わずとにかく早く戦争が終わることを祈った。
毎日、仕事先の食堂から用済みになった新聞をもらってきては、ノアの情報を得たくて、彼の名前が載っていないか必死に探す。
仕事から少し遅れて帰宅したジュストは、食事の支度もそっちのけで、台所で新聞を読む私を、心配そうに見つめた。
「レシュタット領の大半が、スヴェンの占領下に置かれたみたいだね」
「ええ。それに、ノアが。彼は今、スヴェンの南西部にいるらしいの。この間までもう少し安全そうな場所にいたのに。ここは、今一番の激戦地だと言われているのに」
力を込めて握り過ぎて、新聞が破れそうなほどシワくちゃになっている。
ジュストは新聞を私から取り上げると、私の腕を両手で捉え、台所に向かっていた私の体を反転させ、私と向かい合った。
「ノア殿下が、そんなにも心配?」
「当たり前でしょう。友達なのよ」
「ファナ。友達の身を案じて、泣き過ぎて体調を崩してはいけない。最近、ほとんど食べていないじゃないか」
「食欲がないの。食べようとすると、吐き気がするし。……ノアがもし、怪我をしたらどうしよう。たとえば、彼が足に大怪我をしたら」
ノアの足の怪我は、私が防いだはずだったのに。
「ファナ」
ジュストが少し強い口調で私の名を呼び、怒ったような鋭い目つきで私を見下ろす。
「あなたは、私のものだ」
「ジュスト?」
ジュストは急に不機嫌そうに顔を歪ませ、目を逸らした。
「……いや、悪かった。馬鹿なことを言った。私はノア殿下に下らない嫉妬をしているだけだな」
「嫉妬?」
「ノア殿下が命懸けで戦っているというのに、子どもじみたことを言った。自分が、自分で恥ずかしい」
恥入るように少し顔を赤らめるジュストが可愛くて、私は彼を安心させるように彼の背に両腕を回した。
優しく抱きつきながら、心からの想いを伝える。
「ファナ・レシュタットは、ジュスト、あなたを選んだのよ。私は、あなたとずっと一緒にいたいの」
「ファナ。それなら、少しは体を労ってくれ。もう少し食べてほしい」
ジュストは私から体を離すと、台所の皿に盛られていたレーズンを指でつまみ、私の口に押し込んだ。
私はもぐもぐと咀嚼しつつ、再び彼に抱きついた。
「あのね。最近体調が優れないのは多分、病気じゃないと思うの。私、だから今度病院に行こうと思っているんだけど」
支離滅裂なことを言っている。
「私、たぶんだけど……、妊娠したんだと思うの」
ジュストは目を見開いて、私から体を離し、そのまま何度も目を瞬きながら見下ろしてくる。
「ファナ。本当に?」
「信じられないわよね。私が、母親になるだなんて」
「私が、父親に」と呟きながら、ジュストが何度も瞬きをする。やがてジュストはゆっくりとその場に膝をついた。そうして私のお腹にそっと片手を当てると、感慨深げに深い溜め息をついた。
「ありがとう、ファナ。――この子を必ず、幸せにしよう」
家から逃げ出した私が、幸せになって良いのだろうか。そんな気持ちがどこかにずっとあった。けれど、私はこれからこの子が幸せになれる場所を作っていかないといけない。
それは大きな責任が伴うけれど、未知の幸せが私を待っているという予感で私をいっぱいにした。




