新婚生活
私とジュストはディーン王国を出て、西の自由都市に身を落ち着けた。
自由都市は、身分証がなくとも滞在が許されるのだ。
小さなアパートの一室を借りると、やっと男装をやめてカツラを被り始める。
この頃にはジュストの私に対する敬語も抜け、私達はディーン王国の王都を出てから一ヶ月後に、小さな教会で結婚式を挙げた。
私達は苗字を持たない、自由都市に暮らす一市民のファナとジュストとして、夫婦になった。
そしてジュストは反対したが、私は働き始めた。食堂の調理場で働き始めたのだ。
調理場なら接客をしなくて良いし、不特定多数の人に顔を見られることもない。とはいえ、アリーラの経験がなければ、とても務まらなかっただろう。
ジュストは製粉所で働き始めた。得意な武芸をいかしてしまうと目立ってしまうので、もしここまで私たちを誰かが探しに来た場合、危ないと思ったからだ。
こうして今まで経験したことのない日々を送り始めたのだが、意外にもとても楽しかった。
毎日が新鮮で、日々新しく学ぶことがあり、飽きない。日毎に自分が成長していく思いだった。
私達は時折、ジュストが持ち帰った小麦粉を使って家でパンを焼いた。
二人で焼くパンは、とても美味しかった。
「焼きたてのパンって、なんて美味しいの」
外側はパリッと焼けて香ばしく、中の生地はふわふわと柔らかく、湯気と共に小麦の芳醇な香りが漂う。
「材料を変えると、こんなに味が変わるんだな」
「いつか、パン屋を開きたいわ」
「いいね。二人で、店を持てたら素敵だ」
どう生きるかは自由だった。
やがて私は日記をつけ始めた。
日記は公爵家でもつけていたが、持ち出せなかったので、新しく紺色の表紙の日記帳を購入した。
そこに私は、公爵邸を出てからの日々について、記録をつけ始めた。毎日つけていたわけではない。
一日の終わりに、蝋燭の明かりを頼りに、数日分の出来事を大まかに記していく。
ジュストはそのことを、不思議そうに見ていた。
「まだ寝ないの?」
寝室から出てきて、私の隣にやってくる。
ジュストは日記から顔を上げた私の髪に手を滑らせ、短い髪に唇を押し当てた。
「もう少し待って。日記をつけたらね」
ジュストは私の肩に手を掛けたまま、日記を覗き込んだ。形の良い眉を跳ね上げ、書きかけの私の日記を読み上げる。
「食事にはほとんど困っていません。私達は仕事先の食堂で余ったものを、持ち帰れるからです。――まるで、誰かに書いている手紙みたいだね」
「そうね。私が、後で読むのよ。だから手紙と言っていいかもしれない」
「不思議なことを言うね」
ジュストが優しく笑い、私の肩を撫でる。その大きな手の温もりから、深い愛情が伝わり、思わず私もその手に手を重ねる。
するとジュストは私の指に指を絡ませた。
「ファナ、日記の続きは明日書けばいい」
私は日記をまだ書いている途中だったが、ジュストはもう待つつもりはないようだった。
肩から離れた手が私の顎先にたどり着き、上向かされると熱い口づけが降ってくる。室内が突然暗くなったと思うと、ジュストが片手で蝋燭の火をつまみ、消灯していた。
唇を離して、苦情を言う。
「あと少しで終わるのに」
「だめだ。もう待てない。来るんだ、ファナ」
珍しく命令口調のジュストに、ドキドキしてしまう。
右手に持つペンを、ジュストが取り上げて机の上に転がす。私を見つめるアイスブルーの瞳は暗闇の中で見ると壮絶に色っぽくて、胸が高鳴る。
ジュストは私を強引に椅子から立たせ、抱き上げるとそのまま寝室に向かった。開きっぱなしのまま置き去りにされた日記を無念な気持ちで見ながら、ジュストに言う。
「あの日記は、大事にするのよ。なくしたり、間違っても捨てないようにしなくちゃ」
ジュストが寝室のドアを行儀悪く足で閉める。彼は片手で私を支えたまま、残る手を上げて親指で私の唇をそっとなぞった。ドキン、と心臓が跳ねて反射的に口を固く閉じてしまう。
私の反応が面白かったのか、ジュストはくすりと笑って言った。
「良いことを思いついたよ。そんなに大切な日記なら、バンカ銀行に借りている金庫の証書を、この日記帳に綴じ込んでおこう」
「あなたの財産が入っている、貸金庫のこと?」
「そう。この小さなアパートに泥棒が入っても、まさか誰も日記帳を盗んだりはしないだろう?」
「面白いアイディアね!」
でもそんなところにしまい込んだら、そのうち忘れてしまわないのか。そう言おうとしたが、ジュストが私を寝台に横たえたせいで重力の向きが変わって言葉に詰まる。
ジュストは寝台に肘をつくと、私を見下ろした。
「表紙の革を剥がして、中に隠してしまおう。後で、日記帳を貸してくれ。やっておくよ」
「お願いだから、壊さないように注意してね。最低でも二百年は綺麗な状態で取っておかなくちゃいけないんだから」
そうすれば、アリーラの世代にもファナの歴史が伝わるかもしれない。
するとジュストが体を揺らして笑う。
「二百年? それは随分先だな。その間、ずっと私達の子孫が読むのか?」
本当は一番読んでほしいのは、正確に言うと私の子孫ではない。
これから生まれるであろう、私の弟のエルガーの息子・ブライアンの子孫に読んでほしい。つまり、アリーラに。
でもレシュタット家と今の私たちは、離れてしまった。
説明に困っていると、ジュストは私を悪戯っぽく見下ろした。
「ファナ。子どもが欲しいのか?」
これ以上はないほど、心臓が暴れる。顔が火を噴きそうなほど熱くなるが、同時に途方もない幸せで、胸が溢れる。
「欲しいわ……。あなたは?」
「欲しい。何人いても構わない。本音を言えば、はやく私達の子どもたちの顔が見たくて、たまらない。後継ぎは私達のような、この苗字のない貧乏夫婦にも、必要だ」
「ジュストったら」
私達に子どもがうまれ、二人でここで育てていく。
想像するだけで、こそばゆいような、フワフワした気持ちになる。
でも、そんな未来もあるかもしれないのだ。まるで夢のようで、想像してみようとしても、ちっとも現実味がないのだけれど。
私は希望に胸膨らませて、ドキドキしすぎて消え入りそうな声で、聞いてみた。
「うまれるとしたら……、最初は女の子と男の子、どっちがいい?」
「そうだな。パン屋を開いたら、早く手伝って欲しいからな。――第一子は男の子がいい」
だとすれば、ジュストにそっくりな子がうまれると良いな。彼は、私の夫はとてつもなく美形だから。
「子どもは、ジュストに似ると良いな」
「どうして?」
「だって、あなたは素敵過ぎて、私の自慢の夫なんだもの」
私の正直な気持ちを笑って喜んでくれるかと思いきや、ジュストは意外にも真顔でしばらくの間、口を開かなかった。
何度かゆっくりと瞬きをして、私を静かに見下ろしている。やがて彼は私の上に乗り上げると、額と額をコツンと当てた。
近過ぎて目を閉じると、噛み締めるような声が降ってる。
「あなたは、私のすべてだ」
ジュストが私の頬にキスをする。ついばむような動きに、くすぐったくてつい、笑いが込み上げてしまう。
「ファナ。気が早いようだけれど、少し前から実は名前も考えているんだ。――私たちの子どもに男の子が生まれたら、ブライアンと名付けよう」
息が止まった。
――ブライアン。
それは、弟の子どもに与えられる名のはずだ。どうしてその名を、ジュストが?
ドクドクと、全身の血流が騒ぐ。
(どういうことなの? もしかしてブライアンは、二人いたの?)
混乱する頭でそれ以上先は考えられなかった。ジュストのキスの嵐で、私の頭の中は何も考えられなくなってしまったから。




