我が家のパーティ
ファナとなってしまってから、しばらくは日々のちょっとした生活様式にも驚き、興奮と困惑の連続だった。
だが半月も経つと、私は公爵令嬢と呼ばれることに慣れてきた。
ファナ本人の記憶はしっかりあったし、たとえるなら、まるでアリーラが二百年前にファナとして生きていて、偶然その記憶が蘇ったような。そんな感覚を覚えた。
ファナ・レシュタットであることに馴染んできた三ヶ月後。
私は、この日朝から少し興奮していた。
今晩の我が家で、夜会が開かれるのだ。
夜会。
貧乏人の私には、全く縁がなかったものだ。
上流階級や小説の中のお話として聞いていた本物の貴族達の舞台に、いま立っているなんて。
少女なら誰もが一度は憧れたことがある、ダンスとお酒と、男女の熱い駆け引きの世界。
そのまっただ中に、今夜飛び込む。
(頑張らなくちゃ……。今夜は大事な夜になるんだから)
今夜の夜会には、王太子が招待されている。
ファナも彼女の父である公爵も、この日を指折り待っていた。
先日の祈祷式にも王太子は参列していたが、王族専用の席にいて遠かったし、彼は多忙ですぐに王宮に戻ってしまい、お喋りをする機会はなかったのだ。
今夜は王太子にファナを印象づける、絶好のチャンスなのだ。
夜会の支度は公爵家の総力を上げて、念入りに行った。
この日のために新調されていた薄紅色のドレスを着て、侍女達に丁寧に髪を結い上げてもらう。
カリエは鏡台の前に座る私を鏡越しに見ながら、大きく頷いた。
「お嬢様、凄く素敵です。これなら今宵の殿方達は、みんなお嬢様に釘付け間違いなしです!」
「言い過ぎでしょ〜、カリエ」
一応の謙遜はしてみたものの、自分で言うのもなんだが、鏡の中の私はなかなか美人に仕立て上がっている。
思わず鏡に見入って、いろんな表情を浮かべてしまう。
「お嬢様、今のお顔、すごくお可愛らしいです。ぜひ殿下の前でなさってください!」
「こ、こう?」
顎を引き、上目遣いに鏡を見上げる。
すると、カリエが手を叩いてピョンピョン跳ねる。
「はい、バッチリです! 殿方の心臓を撃ち抜くこと、間違いなしです」
「今日は、王太子殿下が来たら、頑張って親しくならなくちゃ」
「ええ! 殿下はライバルがたくさんいますものね! 応援してますから、頑張ってください!」
ガッツポーズを作るカリエが可愛くて、こちらも笑顔になった。
屋敷の飾り付けが済み、夜会の時間が近づくと私の心臓は緊張でどくどく鳴りっぱなしだった。
次々とやってくる招待客たちを必死に浮かべる微笑で迎えつつ、掌には大量の汗をかいてしまう。びっしょり、どころかドシャドシャだ。
いよいよ王太子の馬車が我が家の屋敷前にやってくると、私は急いで玄関前の大階段の一番上に陣取った。
屋敷に入ってくる王太子を、ここで迎えるのだ。
玄関ホールの目の前にある青い絨毯を敷き詰めた大階段から、堂々と下りて登場することで、彼に強く私を印象づける作戦だ。
私しか彼の視界に入らないように、一時的に大急ぎで執事以外の使用人達に、周囲からいなくなってもらう。準備は万端だ。
手摺りの陰に身を隠すようにしゃがみこみ、執事が招待客を迎えるために玄関扉を開くのを、待つ。
廊下の死角から、カリエが怪訝な顔で言う。
「お嬢様、何なさってるんです?」
「できるだけ、華々しく登場したいのよ」
執事が両開きの扉を、ガチャリと大きく開ける。
「ようこそ公爵家へ。イサーク王太子殿下」
執事が名を呼び終わるのと同時に、私は大階段の最上段の真ん中にサッと立つ。王太子を素早く目で探し、彼に向かって微笑もうとして――微笑が引き攣る。
(げっ。王太子だけじゃなくて、余計なのがいる……)
屋敷に入ってきた王太子は、一人じゃなかった。大階段の下から私を見上げてそこにいるのは、王太子と彼の同行者だった。同行者には、見覚えがあった。
黒い髪に、印象的なアイスブルーの瞳。レシュタット家には、宿敵もしくは邪魔者として認識されている人物――まさかのジュスト・アーヴィングだった。
彼と会うのは、祈祷式以来だ。
(どうしてよりによって、ジュストが来るの? 練りに練った顔合わせが台無しだし)
直接口を利いたことはないが、ジュストは目立つので私が階段の遥か上にいようが、この距離からでもすぐに彼だと分かる。
ジュストは近衛騎士団の軍服を纏い、呼んでもないのに当然のように我が家の玄関ホールにいた。
美貌が強烈すぎて、もはや嫌味なほど眩しい。
思わぬ伏兵に困惑しながらも、王太子と目を合わせる。ジュストはこの際、空気だと思おう。
執事に話しかけられながら、私を見上げる王太子の青い双眸をひたと見下ろしながら、ゆっくりと階段を降りていく。手摺りに右手をかけて、ドレスの裾を踏まないよう、できる限り優雅に。
階段を下りきり、王太子(とジュスト)の前に進み出ると、私はカリエと何度も練習をした「花咲くような乙女の笑顔」を披露する。
「王太子殿下、お待ちしておりました。レシュタット公爵家のファナと申します」
夜会で遠巻きに会ったり、父を挟んで挨拶程度の会話をしたことはあった。けれど、自宅でしかも二人きりで(ジュストを視界から締め出せば)話すのは、初めてだ。
王太子はにっこりと笑みを浮かべた。
その顔は整っていて、「超絶不細工」からは程遠い。
これなら、全然婚約が嫌じゃない。それどころか、喜んで婚約したい。絵に描いたような王子様で、この人と結婚することは、まるでおとぎ話のように思える。
「公爵家の夜会に招かれるのは初めてだから、とても楽しみにしていたよ。君は相変わらず綺麗だね、ファナ」
「勿体ないお言葉にございます」
スラスラとお世辞を言われ、一瞬まごつきそうになる。
「こちらは、近衛騎士団長のジュスト・アーヴィングだよ」
王族が出かける時に警備のために近衛騎士がつくのは珍しくないが、よりによって王太子を狙うライバルの兄の、ジュストとは。
頰をピクピクさせながらジュストの前で挨拶がわりに膝を軽く折る。
ジュストは、申し訳程度の笑みを浮かべた。近くで見れば見るほど、綺麗な顔だ。同じ人間だろうか。
ジュストは自分の片手を背中に回し、膝を深く折って私にきっちりと頭を下げた。所作もとても美しい。
意外にも、頭は深く下げられている。公爵家と伯爵家の家格の違いがそうさせているのだろう。
でも丁寧すぎて、ちょっと嫌味ったらしく感じてしまうのは、相手がライバルアーヴィング家のジュストだからかもしれない。
「ファナ、公爵夫妻は大広間に?」
王太子は夜会の主催者である私の父母に、すぐに挨拶に行きたい様子だった。
「ご案内致しますわ」と微笑み、大広間へ進む。
執事から王太子の到着を聞いていたのか、玄関ホールから廊下へ出ると、両親が輝くばかりの笑みを浮かべてこちらへ歩いてくるところだった。普段は屋敷の中で互いに口を利いたりしない公爵夫妻が、人が変わったように二人で微笑みを交わしながら、腕を組んでいる。
オシドリ夫婦の芝居を、徹底しているのだろう。
大きく開けられた大広間の扉からは、すでに集まったたくさんの招待客が談笑をしているのが見える。
王太子は大広間に向かいつつ、青い瞳を私に向けた。
「さすがはレシュタット公爵家の夜会だね。とても賑やかだ」
さすがは王太子。絵に描いたような煌びやかで真摯な微笑みに、感心してしまう。
王子様然とした出立ちに、つい舞い上がってしまう。改めて考えれば、私は今、ホンモノの王子様(しかも歴史上の人物)と話しているのだ。
「殿下がいらしてくだされば、それ以上のことはありません」と答えながら、胸の前で両手を組み、淑やかな令嬢らしく膝を折る。
「あの、殿下。実は、殿下はお花がお好きだと伺いまして。今夜、開花させるのが至難の業だと言われる、春咲きの月光花が庭園で咲いているんです」
今夜の夜会は、我が家で育てていた月光花の開花に合わせていた。花好きの王太子に月光花を披露する予定なのだ。これは、母である公爵夫人の発案だった。
この国で最も開花させるのが難しい、と言われる花を咲かせて、王太子の心をとらえようという作戦だ。
公爵夫人の持論では、男は罠を張って捕獲するものらしい。
だが月光花の話を振ると、王太子よりも早く予想外の人物が食いついてきた。
王太子の少し後ろを歩いていたジュストが、ハッと目を見開き、口を開いたのだ。
「ファナ様、本当に月光花を咲かせたのですか?」
いや、あなたに話を振ったんじゃないんだけど……。
「は、はい。偶然にも、今晩丁度咲いているんです」
偶然も何も、今晩咲きそうだから、母の指導のもと夜会を今日にしてもらったのだ。実は、思ったより蕾の成長がおそくて、二回も日程を変更していた。
王太子は感心したように何度も頷いた。
「春咲きの月光花は、秋咲きのそれと違って、栽培が非常に困難だと言われている。素晴らしいね」
「はい! 皆で頑張りました」
レシュタット家は本当に、頑張った。
月光花は風通しがよくないとカビが生えやすいのに、外に植えておくと茎や葉の発する甘い香りに寄せられて、虫や動物たちが食べてしまう。アリーラの時代も幻の花と言われていたが、二百年前ならなおさらだろう。
中でも、春咲きの月光花はその名の通り、月のように輝く特徴があった。だから春咲きは希少な上に、価値がある花なのだ。
レシュタット家は一日二回の水やりどころか、二十四時間見張り番を立てて、丁寧に育てた。
アブラムシや蟻が寄ってくるたびに、一匹一匹、駆除させた。
そうでもしないと、春咲きの月光花は成長しないのだ。
使用人達にはかなり不評な業務だったので、「臨時手当」を給付して、なんとかやる気を出して粘ってもらった。
そんな難しい月光花が、花開くのは良く晴れた春の日の一夜限り。
「そう言えば、月光花はアーヴィング家の紋章に使われているな」
王太子が何気なくジュストに話を振る。ジュストはそれに対して頷いてから、物言いたげに私をちらりと見た。目が合ってしまったので慌てて視線を逸らす。
(しまったわ。アーヴィング家の紋章に出てくる花だと知っていたら、公爵夫人も月光花を選ばなかっただろうに)
長い廊下を渡り、公爵家自慢の豪奢な大広間に通すと、王太子は更に多くの人々に囲まれた。