その夜にファナが掴んだ道
裏門には門番がいない。内側からのみ開けられる仕組みのかんぬきを抜こうとガチャガチャといじる中、雨と焦りでなかなか開けられなかった。
どうか、まだ私を待っていてほしい。
ようやく門が開くと、水溜りを蹴散らして敷地から飛び出る。
左右をキョロキョロと確認すると、門から少し歩いた所に、長身の男が立っていた。
傘を差し、長く黒い外套を着ている。すぐに腰の辺りを見るが、いつも必ず携帯する近衛騎士団長の剣は、見当たらない。
ジュストではないのだろうか、と不安になる。
男は私の足音に気付いたのか、ゆっくりと振り返った。
アイスブルーの目が、私を見つめる。
私は目が合うなり、痛むほどに激しく打つ胸の鼓動を意識しながら、彼の前に両手で花冠を突き出した。
雨が茶色い花冠にパタパタと打ちつけ、私の口にも入り込む。
美しいアイスブルーの瞳は、花冠を見つめてゆるゆると見開かれた。
「やっぱり、ウサギは黒ヒョウが大好き過ぎて、この気持ちを諦められなかったの。――私を、連れ出して」
ジュストが驚きと安堵に顔色を輝かせる中、一歩私の方へと足を踏み出す。
その瞬間、私は傘を放り出し、駆け出した。
「ジュスト! 遅くなってごめんなさい!」
ジュストは右手を私の背中に回し、力強く引き寄せて私を抱きしめた。傘を傾け、私が濡れないようにしてくれながら。
「ファナ様。……来てくださると、信じていました」
「昨日あなたに言ったことを、許して。本心じゃないの」
「私のためを思って敢えて突き放したのだと、分かっています」
「私、未来を自分で選べるのなら、あなたと生きたい」
「ファナ様を失えば、後悔してもし足りません。……ここから一緒に、逃げましょう」
「ええ。お願いだから、私を連れて逃げて」
「私は、今朝ロンドに向かったことになっています。明日の朝、アーヴィング家の船を出航させ、船を沈めるよう手を回してあります。私はその船に乗っていることになっています。明日には、この世からジュスト ・アーヴィングはいなくなるのです」
アーヴィング家の船。
かつて、私や王太后をモンラン湖で助けてくれた船だ。あの立派な船を、沈めるというのか。
「ファナ様がいなくなったことに誰かが気づく前に、早く行きましょう。できるだけ遠くへ」
ジュストは体を離すと、私が地面に落とした傘を拾って私に持たせた。
私達はもう一度見つめ合うと、無言で手を繋いだ。そうしてそのまま、私は何もかもを捨てて、ジュストと逃げた。
ジュストの逃亡計画は用意周到だった。
王都を馬で駆けて抜け出すと馬を乗り捨て、そこから駅馬車に乗り、西へ向かう。終点からは買収してあった船乗りに頼み、川を下る。
私は船の上で、船乗りからハサミを借りた。
絶対に見つかるわけにはいかない。私を連れて逃げたことが分かれば、ジュストの身の破滅だからだ。
その一心で、私は一人こっそり夜の甲板に出ると、思い切って髪にハサミを入れた。おかっぱのように中途半端に切ってはだめだ。髪の根本近くに刃を当てると、一気に切り落としていく。
切るごとに、ザクッ、ザクッという重い音がする。月明かりの中で、薄く輝く私の金色の髪が、束になって足元に落ちていく。
「何をなさっているんですか!」
甲板に出てきたジュストが、目を見開いて突進してくる。足元に落ちた私の髪と、私の顔を交互に見ている。
「髪を、切ってしまうなんて……!」
髪は女性の命だと言われる。でも、これでカツラも被りやすくなるし、男のフリもできる。髪を守って見つかるより、ずっといい。
「この方が、逃げやすいでしょう? 髪がないと、私を好きじゃなくなっちゃう?」
「そんなはずがないでしょう」
「なら、いいわ。これで見つかりにくくなるもの。綺麗に切り揃えるのを、手伝ってくれる?」
足元に落ちた髪を拾い上げ、川の中に放り込んでいく。毎日とかして香油を塗り込み、丁寧に手入れしてきた髪は一瞬で水の中へと沈んでいく。
ジュストはフラフラと私の後ろに回り、私の肩を抱いた。そうして後ろから腕を回して私を抱きしめ、震えるような大きな息を吐いた。彼の熱い息が首筋にかかる。
「公爵令嬢のあなたが、ここまで……!」
「髪はじきに伸びてくるわ。でも、今追っ手に連れ戻されたら、あなたとの関係は永遠に閉ざされてしまうもの」
ジュストは私を後ろから抱きしめたまま、しばらく動かなかった。
私は片手を上げて、ジュストの頭を撫でた。
川には霧が漂い、水面は黒いインクが流れているように、どこまでも暗い。逃亡者となった私たちの未来は、とても不安定だ。
けれど、今この時を、ジュストと過ごせることが、何より嬉しかった。
そしてそれは私を抱きしめて泣くジュストも、同じだと信じられた。
私はジュストの服を借り、男性二人組となって船を降りると、ディーン王国第二の大きな街に紛れ込んだ。
既に日付けが変わり、夜明けを迎えていたが、そこで私達は体を休めるためにようやく宿を取った。
部屋は決して広くはないが清潔な寝台が二台と、間続きの洗面室があった。少しの間でも、ようやく落ち着ける場所に来られて安堵して、近くにある寝台に崩れるように腰を下ろす。ジュストは近くまで歩いてくると、凄く申し訳なさそうに言った。
「今頃、きっとファナ様の大掛かりな捜索隊が組まれています。高級な宿ですと、かえって見つかりやすいので、今晩はここで我慢なさってください」
「我慢だなんて。十分だわ。私の方こそ、何も持って来られなくてごめんなさい」
今身につけている腕輪と、ネックレスはかなりの価値がある。本当に食うのに困ったら、売るしかない。
外套の下の腕輪に触れて考え込んでいると、ジュストは私の正面に立ち、屈んで私の肩に手を載せた。
「ご心配なく。私個人で所有する財産は、全て銀行の新しい貸金庫に移してあります。バンカ銀行の頭取が、前近衛騎士団長でして、懇意にしているのです」
「バンカ銀行? さすがだわ、ジュスト」
ピムカ銀行を選ばなくて良かった。
この先、ピムカ銀行は経営が悪化の一途を辿るのだから。
「かなりの財産です。私を選び、全てを捨ててくれたあなたに、一生貧しい思いはさせません」
私はハッと顔を上げた。
「どんな貧乏にも耐えられるわ。だからお願い、財産はいざという時のために、大事にとっておきましょう」
縋るように言うと、ジュストは優しく笑った。
「意外と堅実なのですね」
「そうかも」
私達はお互いにくすくすと笑うと、やがて静かに見つめ合った。
私はずっと聞きたかったことを、勇気を出して尋ねることにした。
「本当のことを言うと、あなたは私を王太子妃候補から蹴落とそうとして、私に近づいたのよね?」
ジュストはほんの少しの沈黙の後で、答えた。
「お察しの通りです。新年の祈祷式前日の、犯罪じみた嫌がらせをしたのが、どの家なのか――、レシュタット公爵家だとほとんど確信がありましたが、それを突き止めるために、ファナ様に近づきました」
やっぱり。
ジュストの声は、淡々として静かだった。
「あの時は、レシュタット家があなたに酷いことを、」
謝罪しようとした私を、ジュストが遮る。
「そんなことは今はもう、どうでも良いのです。あなたを憎もうと思っても、懲らしめてやろうと考えても、あの夜の月光花の中で無邪気に笑うファナ様の前に、全て消し飛んでしまうんです」
月光花の夜。
あの花は、公爵夫人である母の提案で育てたのだ。
なんていう皮肉だろう。母は、娘を王太子妃にすることが悲願だったのに、娘が本当の恋を知るきっかけを作ってしまったのだ。
ジュストのアイスブルーの瞳が、真っ直ぐに私に落ちる。
「あの夜から、私にはファナ様しか見えないのです」
「私も、たとえ……何度あの夜に戻れたとしても、私はあなたを月光花の庭園に案内するわ」
「ファナ様。あなたを、愛しています」
「本当に……? いつか、私を捨ててしまわない?」
女々しいようだが、不安は付き纏った。
この先の歴史を、私は何一つ知らないから。婚約発表前夜に失踪したファナのその後は、確信が何もない。
この後について、ファナは二百年後に、何も伝えなかったし伝わらなかった。
ジュストはすぐには答えなかった。彼が無言で何度か瞬きをするその間が、じわじわと私を不安にさせる。
「ファナ様。本心を明かせば、あなたが憎いかもしれない……」
「ジュスト……?」
「私に全てを投げ出させ、私を跪かせ、それでも日ごとに想いを抑えられなくさせる。そんなあなたが、愛しいほどに憎たらしい」
これは愛の告白なんだろうか。それとも?
「ファナ様を伯爵家の迷路に閉じ込めた時、あなたを永遠に出したくない気持ちになりました。これからは、私が常に隣にいる人生の迷路を、どちらかの命が尽きるまで、共にさまようのです」
「それは、なんて素敵な迷路なの」
ジュストの手がそろそろと私の肩から上がり、首筋を滑るように撫で上げていく。喉の横をその長くて優しい指が通る瞬間、私は緊張と期待でごくりと喉を鳴らした。
ジュストは私の頬を指先で撫でると、顔をぐっと寄せ、そっと口づけをしてきた。
柔らかな唇が当たり、その温かさに頭の中がとろけていく。ジュストは何度か角度を変えて唇を私の唇に押しつけ、その生々しい感触に、胸が抑えようもなく高鳴っていく。
私達は正直なところ、もう疲れ切っていた。
夜通し逃亡に費やし、心身共に疲労の頂点にあり、休息が必要だった。
けれども、私達はいつ追っ手に見つかるとも分からない。突然二人が引き離されてしまうことが、ただ恐ろしい。
そしてそうさせないために、ジュストがここで今、何をしようとしているのかを、私は理解していた。
ジュストは少しだけ唇を離すと、私を至近距離から見つめた。
冷たく澄んだアイスブルーの瞳が、この時だけは燃えるように熱い色に見える。
ジュストは、囁くように懇願した。
「ファナ様。今、あなたを私だけのものにしてしまいたい」
心臓が暴れすぎて、呼吸もままならないような中、私は小さく頷いた。
ジュストと私はこうして、結ばれた。
この日、私はレシュタット家の歴史を塗り替えるチャンスを、自ら放棄した。




