高貴な脅迫
庭園の中心部の、人が集まるエリアに踏み入れると、母は直ぐに見つかった。
母は私の二の腕を掴むと、引っ張るようにして会場へと連れ戻していく。
剣呑な瞳で私を見つめ、苛立つ声で言う。
「まったく、どこに行っていたの? 公爵家の令嬢としたことが、ウサギを追いかけて王太子殿下をほったらかすなんて」
「――殿下も外されていたでしょう?」
「さっき戻られて、あなたを探していたのよ」
頭の中から、さっき見た光景が離れない。
王太子とサリアが抱き合う姿が。
彼らの甘い声すら、耳の中にこびりついている。
勇気を奮い起こし、母に問いかける。
「お母様。――もしも……。もしも、私が王太子殿下に嫁ぎたくないと言ったら、どうなさる?」
母は一瞬目を見開いた。無言の間が空いた後で、扇子で口もとを隠しながらホホホと高らかに笑う。
「つまらない冗談はおやめなさいな。あなたは王太子妃になる為に、生まれてきたの。あなたに選択肢なんてないでしょう?」
私は震える声で、なおも尋ねた。
「でも、殿下は私を本当に好きではないかもしれないとしたら……」
「家を受け継ぐのに、夫婦の愛など二の次なのよ。貴族なら分かるでしょう? 公爵家の娘として、務めを果たしなさい」
それは母ひとりの言葉ではなかった。
二百年後のアリーラですら、かつてはそう思ってファナを問題児だと思っていた。
私が黙っていると、母は美しい笑顔を浮かべて私の背を撫でた。
「あなたは、我が家の誇りよ」
人々で賑わうパーティ会場を見渡すと、王太子とすぐに目が合った。彼も私を探して視線を漂わせていたのだ。
王太子は私ににっこりと微笑むと、真っ直ぐに歩いてきた。隣にいる母が、途端に笑顔を浮かべて膝を深く深く折る。
「ファナ。探したよ。君に大事な話があるんだ」
「まぁぁ。では邪魔者は退散しなくてはね!」
母が両手を胸の前で合わせ、大仰に私と王太子から離れていく。
王太子は手を伸ばして、そっと私の右手を取った。
どこまでも華やかで綺麗な笑顔を披露しながら。何も知らなければ、「薔薇王子様」にただ憧れていた日に戻れたなら、きっとこの瞬間、夢心地だったに違いない。
なんとか私も微笑みを返す。
王太子は私を連れて、賑わいから少し離れたところに置かれた庭園のベンチに私を誘導した。
ドレスの裾を整えながら座ると、王太子も隣に腰掛ける。
「母上から聞いたよ。贈り物をしたと仰っていた。母上が君のことを、褒めていたよ」
「光栄です」
なんとか答えると、王太子は私の両手を握ってきた。甘く微笑んでくれるが、声に甘さはない。サリアに話しかけていた声を知っている私は、どうしても比べてしまう。
「君は、私の妃に内定したんだよ。喜んでくれるかい?」
「身に余る誉れです。王妃様にはお優しくして頂きましたけれど……、殿下は私を気に入ってくださいましたか?」
肝心なのはそこだ。
「勿論だよ。私の可愛いファナ」
なぜ、こんなにも何の一点の曇りもなく煌めく笑顔を、私に向けられるのだろう。
心の通わない言葉のやりとりが、虚しい。
私はよそゆきの仮面を被り続ける王太子から、人間らしい言葉や反応を引き出したかった。
本当の彼は、どこにいるのだろう。
「殿下の妃になれるとしたら、レシュタット家の末代まで続く誉れです」
「私の妃は君にこそ、ふさわしい。公爵家の一人娘であり、人目を引く美しさがある。互いにとって、良いことづくめだね」
私は記号じゃない。それは、私じゃなくていいと言っているのに等しい。でも、これは私自身に跳ね返ってくる言葉だ。
「王宮に飛び込むのは、勇気がいります。殿下は、私を守って下さいますか?」
「約束するよ。君を妃として、大切にするつもりだよ」
「サリアよりも?」
飛び出した言葉に、王太子の笑顔が消える。
でも何もかもうやむやにしたまま、嫁ぐことはできない。
王太子は私の手を握ったまま、苦笑した。
「……知っていたのか」
「殿下…」
「サリアについては、口を挟むな。私の唯一の癒しなんだ。あの子は、私が守ってやらなければならない」
「ご自身の妃は守らなくて良いと?」
「サリアにはもう、後ろ盾がない。それに、あの子は他の女性達と違って、強くないんだ。分かってくれ」
「――本当に、サリアが強くないと思われますか? むしろこの状況に耐えられるなんて、鋼の心の持ち主だと思うわ」
王太子は握っている私の手を引き寄せ、私の上半身を傾けた。彼のほうに倒れ込まないよう、背筋に力を入れる。
煌めく青い瞳に、暗い色が混ざる。
「王太后の船に、レシュタット家の侍女が乗っていたらしいな」
思わぬ指摘にぎくりとする。名簿から調べたのだろうか。たしかに、私はカリエの名前で乗っていた。
王太子は片手を離すと私の髪に触れ、にやりと笑った。
「今日は珍しく、髪が部分的に赤いじゃないか。染め粉が、落ち切っていないのかな?」
動揺しないよう、懸命に心を無にする。
染め粉を頑張って洗い流したのだが、どうしても落ちない箇所があり、今日は髪飾りで誤魔化してきたのだ。
「何のことでしょうか。髪は別に染めたりはしていません」
「君によく似た乗員を船で見たという目撃情報があってね」
そんなはずはない。王太子はロンドにいなかったし。……いや、一人だけ、私を知っているかもしれない。
サリアだ。彼女から聞いたのだろう。
「船で何をしていた? ファナ」
シラを切り倒してカリエに火の粉が向かってはいけない。ここで、うまく対処せなければ。
カリエでなかったことは、本気で調査してしまえばバレてしまう。
「仰る通り、船に乗ったのは私です。結婚前に、羽を伸ばしてみたかっただけです」
信じたかどうかは分からないが、王太子は小さく笑った。彼にとって、私が乗船した目的はどうでもいいのだろう。
「船で見たことを、人に話してはいけない。さもなくば、君の侍女が困ることになるぞ? 沈没の調査に手を抜かせたいのは、お互い同じなのでは?」
「教えてください。一部の護衛や船乗り達に睡眠薬を盛って、火をつけたのは、サリアですか?」
王太子は軽やかに笑った。
「船は調理場の失火だと結論が出ている。馬鹿なことを言うものじゃない」
船は沈み、既に証拠はない。
「私は火事の前に調理場にいたんです。その火は私が消し止めたのに、別の場所から出たんです。サリアが船を降りる寸前に、船の最下層に火種を放置していったのでは?」
そして自分だけは助かろうとしたのだ。直前まで一緒に働いていた人達を見捨てて。
すると王太子は、仕方がない、といった様子で長い溜め息をついた。
「参ったな。侵入者が二人もいたとはね。別口が噛んでいるとは、思わなかったよ」
王太子は笑顔を消して、私を睥睨した。いつも青空を思わせる瞳は、今は冷たくて寄りつく島のない海の色に見える。
「殿下、なぜあんなことを?」
「知りたいか? 王太后が年々、目障りだったんでね。私の結婚をせっついていた急先鋒も、王太后だったんだよ。後継ぎを早く、とうるさくて敵わなかった。ノアばかり贔屓をして、私に子が出来なければ早めにノアに譲位すべきだ、なんて言うようになる始末さ」
背筋がゾッとして、王太子から離れようともがくが、彼はきつく私の手を掴んでいる。
サリアがわざわざ動いたということは、彼女との関係も王太后に反対されていたのだろう。
「私には生まれた瞬間から、自由がなかった。国王となるべく、失敗も脱落も許されず、常に将来の善き為政者としての仮面を被り続けなければならなかった。ここまで努力を続けてきたのに、なぜその唯一の果実である王位から、早めに下りなければならない? 愛する女くらい、そばにおく自由があっていいはずだ」
今、この王太子と話しているのがただの「ファナ」であったなら、ファナは王太子に少しは共感したのかもしれない。
だが、アリーラは黙っていられなかった。私は、特権階級の者達が考えている下々の暮らしが、実際よりいかに生ぬるいものかを、そしてその本当の辛さを知っている。
「殿下は下働きの者達には、自由があると? 彼らは一度の失敗で、人生を捨てる選択肢しか残されないのに? 病も怪我も、医者に見せられず弱っていくのを見るしかないのです。貧しくて満足に教育も受けられず、常にあなた方に見下されているのに?」
ましてや貧者には、自由などありはしない。
王太子は虚を衝かれた様子で、目を瞬いて黙って聞いている。
「今朝、何を召し上がりましたか? パンにしようかデニッシュにしようか、選ぶ自由がありましたよね」
王太子はそれが何だ、と言いたげに眉根を寄せた。
そんなことに自由という言葉を使いたくないのだろう。でも、その自由すらない者達も多い。
私の母は、一日に一食しか食べなかった。私に教育を受けさせるために、切り詰めていたのだ。
「今朝、カリエはパンを食べました。住み込みの侍女には通常、デニッシュなど出されないからです。でも、カリエはそれでも多くの民の中で、恵まれています。スープもハムも出されたからです」
下々の者達は、ほとんどが悪条件の仕事しか選べない。王太子はその選択肢すら、自由で良いと言うのだろうか。
「あなたは人殺しだわ」
すると王太子は綺麗に微笑んだ。無垢にすら見える澄んだ瞳が、空恐ろしい。
「サリアは愛ゆえに動いてくれただけだよ。それに、木屑を敷いた盆の上に、長い蝋燭を立てて置いてきただけだ。誰も、人を殺してなんていない」
「詭弁だわ」
「ファナ。ではお前はどうしたい? 皆にモンランの船内でサリアを見たと吹聴するか?」
王太子は私にはそれが出来ないことを、承知の上で聞いている。
私が黙っていると、王太子は自信を強めたような確かな口調で言った。
「妃になるなら、見逃してもいい。だが別の方法を選ぶなら、身のほどをわきまえない公爵家の娘は、人知れず抹殺されることになるだろうね」
体が芯から震える。
王太子は私を脅迫していた。
アリーラの時代に語り継がれる、ファナ失踪を巡る諸説を思い出してしまう。
ファナは、敵に抹殺されたという説もあったのだ。
(敵、って蹴落としたライバルの令嬢たちのことだと思っていたけど。そうじゃなかった? まさか、ファナ。あなたは王太子に殺されたの……?)
ロンドに私が向かったのは、アリーラの決断だったから、一度目のファナは船に乗ったりしなかったはずだけれど。
硬直して震えていると、王太子はさらに私の手を引き、私はついに彼の胸の中に倒れ込んだ。
すかさず王太子は私を抱きしめた。いや、拘束した。
「は、離して」
「怯えることはないよ、ファナ。私を好きだったはずじゃないか。為政者は時として、地位を守るために残虐になる必要があると分かってくれ」
王太子はまるでぐずる幼な子を宥めるかのように、私の額や頬に口づけをしてくる。
そのキスが場違いなほど優しくて、自分の置かれた境遇とあまりに噛み合わなくて、混乱してしまう。
「私の隣に立つ妃は、名家の美しい女でなければ。私が欲しているのだから、喜ぶべきだよ、ファナ。公爵家も王太子妃を輩出することができるなら、他のことは些細なことに過ぎないはずだ」
隣に立つのは私でも、心の中に立つのはサリアなんだろう。そんな求婚を、喜べるものか。
王太子は私の額にキスをし、チュッと音を立てて小さく吸うと、天使のごとく清らかな笑顔で言った。
「私達の利害は一致してしているはずだ。私は王位に長く就いていたい。私生活に口を出さない、出来の良い申し分ない身分の妃が欲しい。そして君は、王太子妃になりたい。違うか?」
「殿下……」
私をそばに置き、見張るつもりなのか。
「私の侍女を船で見たなどというのは、他人の空似さ。君たちが見たことは、忘れたほうがお互いのためだ。君を妃にするから、いいよね?」
これは他言無用で、利害の一致した取り引きなのだと、王太子は言いたいのだろう。
「私の婚約を蹴れば、君にも未来はないよ。ファナ。……もちろん、レシュタット家にもね」
私の手を掴んでいた王太子の手は、私の手首に蛇のように絡みついていた。彼は場違いに色気を帯びた声で、囁いた。
「私達はこれで、共犯だ。秘密を共有する良い夫婦になりそうじゃないか。――おめでとう、ファナ・レシュタット。君は私の妃になる」
王太子の顔がぐっと近づいたと思うと、彼の唇が私の唇に押しつけられた。
驚きのあまり全身が縮みあがり、呼吸が止まる。
王太子の唇の生温かさに、嫌悪感しか湧かない。
サリアとのキスシーンが脳裏に蘇り、吐き気すら感じる。
王太子は顔を離すと、綺麗な笑みを見せた。
「もっと嬉しそうな顔をしてくれ。この結末は君が望んだ通りのはずだ。私の妃になってくれるね?」
この結末を望んだ、という言葉がズドンと胸の奥まで刺さった。それは私だけでなく、レシュタット家全員に刺さるものでもあった。二百年後の私達にさえも。
「はい」というほか、私には道が残されていなかった。
消え入りそうな声で返事をすると、王太子は満足げに微笑み、大きく頷いた。
「やはり賢いね。流石はレシュタット公爵家の一人娘だな」




