近衛騎士団長のジュストは宿敵らしい
ファナの体に入ってしまった翌朝。
目が覚めてもタイムスリップは夢のようにさめることはなく、私はシルクの寝間着に包まれた公爵令嬢のままだった。
「そうだった。私、ファナだったんだ」
すぐには現実を受け入れられず、しばし放心する。
「おはようございます、お嬢様」
侍女達が寝台までやってきて、水を張った洗面器とフワフワのタオルを私に差し出し、ファナの一日が始まる。
(そうか。そうだった。寝台で顔を洗っちゃうのね)
意識はアリーラそのもので、体を動かすのも思考もアリーラなのだが、ファナの記憶はあるので体は自然に動く。
寝台に腰掛けたまま、顔をバシャバシャと洗うと無言でタオルを受け取る。
(せっかく過去に戻れたのだから、頑張らないと。ファナ、これから私は「疫病神のファナ」じゃなくて、「レシュタットの幸運の女神」を目指すのよ……)
体の持ち主に呼びかける。
両親と私、それに弟は正装をすると、朝から馬車に乗り込んだ。
新年の祈祷式は、王都全体を巻き込んだ盛大な行事のようだった。
二百年前の街並みは、アリーラの時代より少しこじんまりしているけれど、思ったほど驚くような違いはない。
王都は新しい年の到来を祝す人々の手で、積もった雪の白さに負けじと色とりどりの飾りつけがなされ、華やかな雰囲気に包まれていた。
ディーン王国王都の輝ける聖大教会に、花々や銀の家紋で飾り立てた馬車が、次々と乗りつける。馬はもちろん、四頭とも白馬たちだ。
王家の人々や着飾る貴族を拝みに、沿道に集まった民衆たちも歓声をあげている。最前列にいる人々は、王家の紋章を染めた旗を手に持ち、熱心に振っている。
聖大教会に続く大通りには深紅の絨毯が敷かれ、王侯貴族達の馬車が続々と通っていく。
教会の屋根には、大首座司教の名前を刺繍した大きな旗が、はためいている。
宗教界に君臨するのは、教皇だ。だが、教皇本人はディーン王国の西に位置する教皇領から、滅多にでることがない。
教皇の次に偉いのが大首座司教で、その一人が我がディーン王国にいた。
母は目を輝かせて車窓を眺めていた。
「ああ、楽しみだわ」
公爵夫人が少女のごとくドキドキしていたのは、大首座司教の貴重な祈祷式に参加できるからではない。
近衛騎士団長であるジュスト・アーヴィングが遅刻して職務を全うできず、参列席にいるであろう伯爵が赤っ恥をかく姿をウキウキワクワク楽しみにしているのだ。
「きっと、ジュストが出勤していなくて、今ごろ騎士団は大騒ぎよ。これでアーヴィング家は後ろ指さされて、王太子妃の座は、あなたのものよ、ファナ」
馬車の中で、母はそう言うとホホホホ! と高らかに笑った。
公爵は車窓を見つめるだけで、何も言わない。この夫婦には、長年会話がないのだ。
まだ十三歳の弟は、いつも以上に我が道を貫く母を前に、オロオロと困ったように見つめていた。
「エルガー、お前もよく覚えておきなさい。差し出がましい真似をする伯爵家は、公爵家の敵などではないのよ」
母はレシュタット家の勝利を確信していた。
しかしながら、大勝負はうまくいかなかった。勝利に酔うのは時期尚早だった。
青色を基調とした、美しいステンドグラスを持つ聖大教会の前にレシュタット家の馬車が到着すると、なんとジュストは近衛騎士団の黒色の軍服に身を包み、平然と教会の庭に部下達と整列していたのだ。
母がどれほど驚愕したかといえば、その緑色の目玉が眼球から転がり落ちそうなくらい。
「どうしてなのよ! なんでいるの? なぜ、遅刻してないのよ!」
母は計画のうまく行かなさに、卒倒しそうになった。
下車した私の両親と私は、つい立ち止まってジュストを凝視した。
部下にテキパキと指示を出すジュストは、何食わぬ顔で任務を遂行しているように見えた。スラリと真っ直ぐに伸びた、頼もしく厚みある上背。涼しげな表情からは、母の張り巡らせた罠など、微塵も存在を感じさせない。
ジュスト・アーヴィングは艶のある黒髪が印象的な、容姿の極めて整った男だった。
美しい顔に、騎士らしい均整の取れた体格。瞳は澄んだアイスブルーで、纏う得も言われぬ冷たい色が、逆に女性達の人気を集めているとか。
騎士団長として国王の覚えもめでたいのだから、今のうちにガッツリ踏み潰しておいた方がいい――母は姑息にも、そう考えたのだ。
ジュストは、私の母の罠に全く引っ掛からなかったらしい……と思った矢先。
(なんだか、様子がおかしいわ)
近くでよくよく見れば、明らかにその姿は異様だった。
ジュストの背中を覆う長いマントは、裾があり得ないほど、ビリビリに裂けていた。まるで岩場に裾を擦り付けてきたみたいに。
足下の革のブーツは、なぜか水浸しでビショビショだった。濡れたブーツを履いているせいか、軍服も所々濡れている。おまけに、茶色いブーツの爪先が橙色や緑色に変色している。
腰からぶら下げる立派な剣は、どう見ても鞘の胴体にヒビが入っている。見間違いかと二度見しても、やはりヒビだ。
部下の近衛騎士達も異様すぎる上官の様子に、かえって何も言えないのか、ちらちらとジュストの剣やブーツを見やっては、慌てて視線を逸らしている。
……間違いなく、何か事件には遭遇してきたようだ。
だがそんな状況にもかかわらず、ジュストは普段通りの任務をこなした。あまりに堂々としているので、そのうち誰もが彼の異様な出で立ちのことなど、忘れてしまうほどだった。
華やかな聖大教会の祈祷式から帰宅すると、母はアーヴィング家に潜入させているスパイから、手紙を受け取った。
母はソファに腰掛ける間すら惜しいのか、目をギラギラに見開いて便箋を食い入るように見つめて読んだ。
時折「なんですって……。信じられない! なんて、いけすかない騎士なの……!」と罵りながら。
そうして母は手紙を読み終えると、意気消沈したのか全身の力が抜けるようにグラリと倒れ、ソファに崩れ落ちた。
「あの男、私の仕掛けた罠を、ことごとく破ったようね……」
目眩でもするのか、母が側頭部を片手で押さえながら、私に手紙を手渡す。
「お読みなさい。我が家の敵は、思った以上にしぶといみたいだわ」
受け取って広げると、「報告書」と一番上に書かれた便箋には、ビッシリと細かい字で、ことの顛末が書かれていた。
母は近衛騎士団長のジュストが聖大教会に来れないよう、あの手この手の刺客を放っていた。
まず高級娼婦を雇い、前夜にジュストを誘って惑わせ、当日ベッドから立ち上がれないほどヘロヘロに彼の体力を使わせてやろうとした。
が、計画は失敗した。
ジュストは堅物だったのだ。彼は誘いに乗らなかった。
高級娼婦のプライドが、ズタズタにされただけだった。
だが、心配ご無用。万が一、高級娼婦の手管に引っ掛からなかった場合に備え、公爵夫人は保険をかけていた。
ジュストの友人貴族に頼み込み、酒場に誘って浴びるほどジュストに酒を飲ませたのだ。
が、計画は失敗した。
ジュストはザルだったのだ。
彼の友人がベロベロに酔い、使い物にならなくなっただけだった。
もちろん、酔い潰れなかった場合に備え、三次策も控えていた。しつこいが、対策は万全だった。私の母も、伊達に公爵夫人をやっていない。
腕に覚えのある手練れに金を握らせ、飲み屋からの帰りの夜道にジュストが一人でいるところを強盗に見せかけて襲わせ、縄でぐるぐる巻きにさせようとしたのだ。
が、計画は失敗した。
ジュストは生粋の武人だったのだ。
手練れはジュストによって、ぐるぐる巻きにされて道端に放置された。
正直なところ、公爵夫人はここまでジュストが超人じみた男だとは思っていなかったが、作戦はまだ終わっていなかった。
最終手段として、とっておきの秘策が残っていた。
母も、伊達に公爵夫人を…以下略。
伯爵邸の年端もない馬丁を菓子で釣り、ジュストの愛馬を厩舎から脱走させていたのだ。よほど菓子が嬉しかったのか、馬丁は頼まれていた以上の仕事をした。
愛馬どころか、厩舎にいたほとんどの馬を脱走させたらしい。
さらに伯爵邸に出入りしていた仕立て屋を巨費で買収し、パトリシアのドレスを届けるついでに、部屋に忍び込んでジュストの騎士団用のブーツに生ゴミを突っ込ませてやったのだ。それも強烈に臭いやすい、エビの殻や玉ねぎを混ぜた、クッサクサの特製生ゴミだ。
トドメはジュストの近衛騎士団の剣を、鞘の中に接着剤でベッタベタにくっつけさせたことだ。
刃の出せない剣をぶら下げた騎士など、騎士ではない。
――だが。
ジュストは鞘に張り付いた剣を、力づくで抜刀した。怪力か。
そして生ゴミ入れと化した己のブーツを発見し、動揺を見せたのはほんの数秒だったらしい。彼は迷うことなく、革のブーツを猛烈な勢いで洗い流すと、乾かす間もなく履いて聖大教会に向かった。
そしてジュストは多分、馬より足が速かった。
こうしてジュストは大切な仕事に大遅刻せずに済んだのだ。
私は手紙から顔を上げ、母に言った。
「お母様……、ジュストに物凄いことをしたのね……」
完全にひいている私の前で、母は拳を握りしめ、歯軋りした。
「ジュスト・アーヴィングは、我が家の不倶戴天の天敵だわ」
逆恨みも甚だしい。
ファナの体に入ってから、たった二日の出来事の強烈さに、私まで目眩を感じる。
二百年前の栄華を極めるレシュタット家は、凄くたくましかった。ファナが悪女というよりも、レシュタット家自体が怖い……。