傷ついた心
広い庭園の中を、人目を避けて突き進み、私は噴水に辿り着いていた。
白い水飛沫と水の音が、荒んだ私の心を宥めていく。
熱く荒れ、ひび割れた私の気持ちに冷たい水が降りかかり、沈めてくれる気がした。
深呼吸をして息を落ち着け、目尻に浮かんでいた涙を拭うと、ようやく周りが見える。
大きな噴水の向こう側には、ノアがいた。
「ノア殿下……。いらしてたんですね」
ノアはまたもや噴水の縁に腰掛け、本を手にしていた。ウサギを探す気はさっぱりないらしい。
ノアは立ち上がると、ゆっくりと私の方へ歩いてきた。彼は正面に立つと、青い瞳を少し見開いた。
「泣いてたのか? ファナ、どうした?」
「ウサギが見つからないの」
「それで泣く奴があるか」
「あなたが、私に忠告してくれていたことが、何か分かったの。あなたはあの侍女と王太子殿下の関係を知っていたのね」
ノアは一瞬目を見開いた。
その後で目を逸らすと、脱力したように息を吐き、頭を掻いた。
「誰から聞いた?」
「逢引を見ちゃったのよ」
「うわ。最悪だな」
わずかな沈黙の後、私は耐えきれずに尋ねた。
「あのサリアという侍女は、どういう子なの?」
ノアは話すべきか迷ったのか、しばしの沈黙の後で重苦しそうに話し出した。
「……サリアは元々、侯爵家の令嬢だったんだ。子供の頃に兄上と出会って、彼女は兄上の初恋の相手らしいよ」
「その頃からだなんて」
「当時兄上は八歳で、父上に侯爵家のサリアと婚約したいと、何度も頼んでいたよ」
「ちっとも知らなかった……」
「けれど、侯爵夫人が浮気をして、怒った侯爵がサリアと夫人を追放したんだ。兄上は身一つで追い出されたサリアを救うために、自分の侍女にしたんだよ」
サリアの視点から二人の恋愛を見れば、純粋な愛を貫く物語なのだろう。彼女にとっては、妃の座を出自で射止めようとする王太子妃候補のほうこそ、悪女に見えているのかもしれない。
いずれにせよ、二人は色々な困難を乗り越えて愛を暖めてきたということだ。私など付け入る隙もない。
「あの二人が思いをかわすのを見て、思っていたよりずっと、不快な思いがしたわ」
ノアは私が言わんとすることがわかったようだった。彼の方が傷ついたような顔で、私の手を取る。
「君は純粋で素直だから、きっと耐えられないと思ったよ」
「でも、私は耐えなくちゃ。これが公爵家の一人娘の務めだもの」
「あのさ、王家に入りたいのなら、俺でもどうよ?」
ノアは少しおどけた口調でそう言った。
笑って「何をいうの」と言いたかったけれど、その力がなかった。ノアは寂しそうに笑った。
「それよりも、すでに好きな人がいるって顔だな。……悔しいな」
「好きな人は、いないわ」
これは自分に言い聞かせる言葉だ。
ノアは物言いたげに私を見つめた後、小さく肩をすくめた。
その直後、ノアは私の後ろを見て、大きく目を見開いた。そうして呆れたように苦笑した。
「なんだ、俺たちはあの日を繰り返しているのか?」
なんのことかとぎくりと振り返ると、私の背後からジュストが現れた。パーティに招待されたのではなく、仕事中だ。騎士団の軍服をきっちりと着こなしている。
「ファナ様。レシュタット公爵夫人が、あなたを捜しています」
「分かったわ。すぐに戻るわ」
慌てて噴水から離れると、ジュストについていく。
ノアは別れ際、噴水の縁に再び腰を下ろしながら、言い捨てた。
「ファナを捜していたのは、お前じゃないのか?」
ジュストはそれに答えず、場を後にした。
歩きながら私は彼に尋ねた。
「お母様は怒っている様子だった?」
「ファナ様が見当たらないので、焦っているご様子でした」
「私、ウサギを追って奥まで行ってしまって……見てしまったの。サリアと殿下が二人で抱き合っているのを」
ジュストはハッと目をみはり、足を止めた。いくらか同情的な瞳がこちらに向けられる。
「殿下の想い人というのは、一番近くにいる侍女のことだったのね。私は何度かサリアを見かけていたけど、ちっとも分からなかった。思い出してみれば、あの侍女はコンドルーにも同行していたわ」
酔った王太子に肩を貸し、寝室に入っていった。
その後、二人で寝室の中で何をしていたのかなんて、知りたくもない。
「殿下と近しい者たちには、昔から周知の事実でした。それにしても、人を招いているこんな時に、二人は一体何を?」
「抱き合ってるだけじゃなくて、キスもしてたわ。しかもとっても濃厚なやつをね。すごく嫌な気持ちになった……」
「それは、嫉妬から不快になられたのですか?」
違う。
決して嫉妬ではない。あれは、純粋な不快感だった。
でも、なんて言えばいい?
「いつか、殿下は振り向いてくださるかしら。それとも、私が何も感じなくなるのかしら」
ジュストは目線を下げたまま、ふと思いついたように言った。
「殿下にもしも、キスをされたらファナ様は嬉しいですか?」
「おかしなことを聞くのね。そうね、……今は、わからない」
硬い声で、感情のこもらない答えになってしまった。なんとなく、想像するだけでいくらか抵抗があった。
二人で黙って歩いていると、ジュストは質問を重ねた。
「もし、私がファナ様にキスをしたら、嬉しいですか?」
すぐには答えられなかった。
代わりに、泣きたくなった。
ジュストからキスをしてもらえたら、どんなに夢心地になるだろう。
これはジュストができる、ぎりぎりの問いかけだったが、私は彼がこの時何を知ろうとしていたのか、正確には分からなかった。
そのゆとりがなかったのだ。
私は、小さな声で、今度はなるべく気持ちを言葉に乗せてしまわないように気をつけながら、答えた。
「殿下に嫁ごうとしている立場では、答えられない……」
ジュストはその後、何も話しかけてはこなかった。




