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モンラン湖の悲劇

 湖に揺られる大きな船は、揺り(かご)のようだ。

 立っていても寝ていても、船の床は常に揺れている。

 下働きの者たちの半数が下船してしまうと、船は急に静かになったように感じた。

 朝から働き詰めだったためか、下働きの者達はみな寝室に入るなり、すぐに寝台に横たわった。

 船は再び岸を離れ、湖の真ん中へと向かっていた。

 私は固く狭い寝台で仰向けになりながら、寝ないように気をつけて、時間が過ぎるのを待った。

 やがて皆が寝息を立て始めると、うっすらと目を開ける。


(見回りをしなくちゃ)


 起きて調理場に行くのだ。

 火の不始末がないか、確かめなければ。

 明かりを持たずに廊下に出ると、船内はあまりに暗かった。下働きの者達が押し込められている区画は窓がなく、月明かりもない。

 壁づたいに手をつきながら、慎重に進む。

 短い廊下を進むと上の階へと上がる階段がある。


(モンラン湖の悲劇の原因は、調理場の火の不始末だったはず。調理場を覗きに行かないと)


 上の階は開けた造りになっていて、窓がいくつかあり、目を凝らせば船内の様子がわかった。

 階段を上り切ったホールには警備の騎士がいたが、船上では外部からの侵入が難しいことに気が緩んだのか、情けないことに壁に寄りかかって座り込み、寝てしまっている。

 視界が届く限りは、他には誰もいない。皆寝ている時間なのだろう。

 調理場に辿り着くと、すぐに異変に気がついた。

 きな臭かったのだ。


「嘘でしょ、どこ!?」


 驚いて駆け込み、首を巡らす。

 白い月が浮かぶ窓の前を、霧のような煙が漂っている。右から流れるその煙の出どころを目で辿ると、そこにあるのは作りつけのオーブンだった。

 弾かれたように駆け寄り、黒い扉に手をかけて開ける。

 オーブンの中には、猫の大きさほどの炎がゆらめいていた。

 そばにあった水の樽に鍋を突っ込み、水を掬うとオーブンの中に勢いよくかける。

 火はすぐに消え、熱くなっていたオーブンの内壁がジュッと音を立てて、さらに煙を立てる。

 完全に鎮火したのを確かめてから、恐る恐る手を入れる。

 黒く焦げたオーブンから出てきたのは、パリパリに炭化した布だ。

 微かに油のにおいが漂っている。


(油を浸した布が、なぜオーブンの中に?)


 一体誰が、こんなことを?

 困惑しつつも火を消しとめたことに安堵し、へなへなとその場に座り込む。

 とにかく火の不始末を、処理できたのだ。

 これでもう、火を恐れて今夜に怯えることはない。

 モンラン湖の悲劇を、防いだのだ。


「ああ、良かった……。これで誰も死なない」


 水浸しにしてしまった床と黒焦げのオーブンの中を掃除してから調理場を出ると、もうクタクタだった。

 体中の筋肉が悲鳴を上げている。

 すっかり夜中になってしまった。

 足を引き摺るようにして、調理場を出る。

 階段近くまで進むと、びくりと震えてしまった。階段を影がゆらりと動き、幽霊でも出たのかと思ってしまったのだ。

 やがて辺りの暗闇が、乳白色に変わって行く。船の窓の外の雲が流れ、月が顔を出したのだ。柔らかな明かりが、階段を照らす。

 階段の手摺りを、ゆらゆらと陽炎が漂っていた。

 座り込んで寝ている警備の騎士に近寄り、肩を揺する。


「あの。ち、ちょっと……起きてください」


 騎士の体がぐらりと傾き、壁に背を滑らせながらそのまま床に転がる。

 驚くべきことに、騎士はそれでも起きずに分厚い胸を上下させて眠っていた。


(全然起きないじゃない! 何のためにここにいるのよ……)


 手すりからユラユラと煙が上がってくる状況が不審すぎて、階段にそろそろと近づいてみると、下の階が明るいことに気がつく。

 まさかと思いつつも、鳥肌が立っていく。

 首を伸ばして階下を覗くと、二階下からオレンジ色の火が触手のように手を伸ばし、広がって行く光景が目に飛び込んできた。


(動け。何かしろ、私)


 ガタガタと顎が震え、足が棒のように動かない。

 恐怖と混乱と、絶望と。

 一つ下の階にはリンダ達がまだ寝ているはず。皆を叩き起こさないと、間もなく火が階段に上がってきてしまう。

 一歩踏み出そうとすると、足が馬鹿になっていて言うことをきかず、押し倒された人形のように床に転んでしまう。

 膝をうちつけ、歯を食いしばって起き上がると、転がるように階段を下りる。

 みんな、起きて。火が、出てる。

 喉が引き攣り、小さな掠れ声しか出ない。


(しっかりしろ! ファナ!)


 こぶしで自分の頭を叩いて、大きく息を吸う。


「火事よ! みんな、逃げてぇぇ!!」


 ようやく大声が出せたと同時に寝室に飛び込む。

 皆が寝ぼけ眼で起き出し、だが煙の臭いにすぐに気がつくと、数秒で辺りは阿鼻叫喚に陥った。

 寝室にいたほとんどの者達が、靴も履かずに廊下に飛び出す。

 階段の火は下の階から既にこの階に達しており、追いつかれまいと皆で必死で上がった。

 これより下や奥にいる人々も、いたはずだ。彼らは逃げられたのだろうか。

 最上階である二つ上の階に辿りつくと、そこは人々で溢れていた。豪奢な寝巻着姿で、髪を下ろしたままの女性は王太后の女官だろう。

 護衛達は駆け回っていた。


「早く、消火を!」

「最下層の火の回りが早く、間に合いません! 既に階段が焼け落ちていて…」

「では救助を急げ! この階の全ての部屋を見て回れ!」


 上官らしき男が指示を飛ばしている。

 この階の。

 その一言が、胸に重くのしかかる。

 護衛たちは、身分ある者達がいる区画だけを気にしていた。

 私達下々の安全は、切り捨てられたのだ。

 廊下で震えていた下働きの女性を突き飛ばし、護衛と女官が奥の部屋へ向かう。

 やがて扉が開くと、ノアと護衛に抱えられた王太后が出てきた。

 王太后は蒼白だったが、パニックにならずにしっかりした足取りで一歩一歩を歩いている。非常時でも冷静さを保つところに、流石の貫禄を感じる。

 王太后に気づいた女官が駆け寄ると、ノアが顔を上げる。


「怪我はない。案ずるな」


 私の隣で遠巻きに王太后が避難してくる様子を見ていたリンダが、肩で息をしながら言った。


「出火に気づくのが、遅すぎたね。まったく、警備や見張りの者達は、何をしていたのかしら…」


 どくん、と心臓が傷み、嫌な予感がした。

 甲板へと通じる扉に体当たりするようにぶつかって開けると、風が一気に吹き込み、髪が弄ばれる。

 両手で髪を押さえて甲板を駆ける。高くそびえるマストの下に走ると、見張り番の男は床に伸びてイビキを立てている。


「起きて! どうして寝てるのよ!」


 両手で揺り動かすが、なぜかちっとも反応がない。

 何事もなかったように寝息を立てている。

 あまりにも深い眠りに、胸騒ぎがする。階段で見た警備の騎士も、あまりに深く眠り込んでいた。

 もしや、一部の護衛は眠り薬を飲まされたのだろうか?

 わざと逃げ遅れるように。

 ぞわぞわと寒気がのぼっていく。

 立ち上がって当たりを見渡すが、私達は大きなモンラン湖のただ中にいた。

 岸は遥か遠い。

 下から避難した者達のほとんどは、煙が充満してきた船内にいることに耐えきれず、徐々に甲板に出てきたので、甲板が人で溢れてくる。

 人々は、泣き叫んで甲板で身を寄せ合った。

 火はどんどん大きくなり、煙の量も明らかに勢いを増している。

 下層から浸水したのか、船自体が緩く傾きながら、沈み始めていた。


 見習い甲板員なのか、十歳くらいの少年が震える声をだす。


「溺れるか、焼け死ぬしかないの? ああ、神様!」


 それを受けて、信心深い一部の者達が、胸の前で手を組み、祈りの言葉を言い始める。

 一方でパニックになり、わめいて暴れる女性達もおり、リンダが大きな声で皆を宥める。


「対岸からこの火が絶対に見えるはずだから、気を強く持って! すぐに救助がくるばすだよ!」


 その時、湖の上を灯りが広がった。

 後ろから照らされた強い明かりに振り返ると、黒いインクを拡げたような水面を、中型船が滑るように航行してくるのが見えた。


「船だ! おーい、助けてくれ!」


 皆が大声で叫び、突如現れた船に向かって叫んで手を振る。

 甲板いっぱいに、歓喜と安堵の声が広がる。

 奇跡のように現れたその船は、地獄絵図の広がるこの場にひどく不釣り合いな、優美な家紋を掲げていた。

 大きな白いユリに似たその花は、どう見ても月光花だった。

 王太后の護衛の一人が、あっと叫ぶ。


「あれは、アーヴィング伯爵家の船だ!」


 どんどん近づいてくるその船の甲板には、十人ほどの男達が立っているのが見える。やがて髪の色や姿形が認識できる程に距離が埋まると、息を呑む。

 船首近くに堂々と立っているのは、見覚えのある人物だった。

 夜の闇に溶けるような黒髪と、均整のとれた長身。

 ーージュストだ。

 彼が、船で救助に駆けつけていた。

 どうしてここにいるのか、などという疑問は湧く余地がなかった。

 甲板に逃げた者達は身分の区別なく、皆湖に飛び込んだ。

 それをすかさず、ジュストの船に乗る甲板員たちが救助していく。

 王太后も躊躇していなかった。護衛達が彼女を抱き抱えるようにして、湖に飛び込む。

 高齢な上に日頃はティーカップより重いものは持たないようなやんごとない身の上の彼女が、夜の湖に飛び込むことがどれほど勇気がいるかは察するに余りあるが、私たちも皆必死だった。

 ノアはなかなか自身は飛び込もうとせず、代わりに甲板にいる人々が船の手すりによじ上るのを、手伝っていた。彼は下働きの者達も区別なく手を貸していた。


(ま、まずいわ。近くに来られたら、私が誰かバレちゃう。――私も、飛び込むのをためらってる場合じゃない!)


 正真正銘の火事場の馬鹿力で手すりによじ登り、蹴り上げて出来るだけ遠くに飛び込む。

 船から飛び降りると水面に叩きつけられ、鼻や口から大量の水が入る。


(痛いっ!! 冷たいっ……)


 想像以上に深く沈んでしまい、がむしゃらに腕で水をかき、水面に浮き上がる。

 なんとか顔を水面に出せると、今度は水を吸った服が重すぎて、気を抜くとまた沈みそうだ。水をかき、必死にジュストの船に近づく。水面は暗いので、遠くに行くと見えなくなってしまう。

 ジュストの船は救助用のボートを浮かべ、湖に散った私たちを次々と引き上げていく。浮き輪やロープを駆使して、彼らは非常に手際が良かった。

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