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避暑地のロンドへ

 王宮から帰宅すると、体調が良くなったエルガーが居間で算術の勉強をしていた。


「良い子ね。お勉強をしていたのね」

「お帰りなさい、お姉さま。さっきは剣の稽古も、少しやりました!」

「偉いのね。でも、無理は禁物よ」


 エルガーはペンをテーブルに置くと、着替えるために自分の部屋に向かう私に、くっついてきた。


「お姉さま、その小さな靴はなんですか?」

「王妃様から頂いたのよ。王妃様が私を気に入ってくれた証なんですって」

「すごい! お母様とお父様にお伝えしたら、絶対に喜ぶなぁ」


 階段に足をかけたところで、エルガーは急に私の腕を引いた。驚いて振り向くと、彼は眉根を寄せて、心配そうな顔で私を見上げてきた。


「お姉さまは、嬉しくないんですか? どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんです?」

「う、嬉しいわよ。ただ、少し疲れただけなの」


 エルガーは十三歳の割に、繊細でなかなか鋭い。

 心配をかけてはいけないので、慌てて笑顔を急拵えする。


「私もお母様が喜ぶ顔を見たいから、早く知らせたいくらいよ。お手紙を早速書こうと思って」

「お手紙と言えば、今朝ロンドから届きました。今年は去年完成した王太后様所有の船で、モンラン湖の上で船上パーティが主催されるから、楽しみにしてるんだって…」

「モンラン湖?」


 ぎくりと立ち止まる。

 ロンドといえば避暑地なのだが、もうひとつ、「モンラン湖の悲劇」という事故で有名だった。アリーラの時代の教科書には必ず載っていて、誰もが知る歴史的事故だ。

 モンラン湖の悲劇といえば、避暑地のロンドで王太后の乗った大きな船が、深夜に火事を起こして沈没した事故のことだ。出火原因は調理場の火の不始末だったという。火事は夜中に起きたから、パーティ参加者たちには被害がなかったはずだ。国王は船には乗らない伝統があり、離宮にいた。


(お父様とお母様は、事故の時刻には別邸に戻っているはずだから、巻き込まれたりはしないだろうけど……)


 動揺を必死に隠していると、エルガーが無邪気に続ける。


「王太后様のお気に入りの第二王子様のノア殿下も、急に参加することになったみたいで、お祖父様のコンドルー伯爵が急にエラを連れてロンドでお母様達と合流したらしいです」

「お祖父様が、どうして?」


 するとエルガーは細い肩をすくめた。


「お祖父様はエラを、第二王子様のお妃にしたいみたいです」

「ええっ、エラはまだ六歳よ?」

「気が早すぎる気がするけど、そのくらいの歳の差なら、おかしくないですよね?」


 先日コンドルーで見てきたエラの姿を思い出し、複雑な気分になる。

 蝶々結びもできないエラとノアが、夫婦として並んでいる様子は想像が難しい。


(待って。ーーノアがロンドに行っていると言うことは……。まさか彼も船の上で過ごすの?)


 ノアは史実ではモンラン湖の悲劇には遭遇していない。

 なぜかと言うと、本来彼はコンドルーの崖崩れで大怪我をして、静養中だったからだ。足の怪我のために、船の上どころか、ロンドにさえ行かなかったのだろう。

 王妃は王太子を可愛がっており、かわりに王太后に懐いているのがノアなのだ。王太后は船を見せたくて、ノアを呼び寄せたのだろう。

 だが。


(いやだ。私が、コンドルーの狩りで歴史を変えてしまったせいで、ノアがロンドに行ってしまったのね?)


 コンドルー領の悲劇を避けたはずが、もっと悲劇的なモンラン湖の悲劇に向かわせてしまうなんて。なんという皮肉だろう。

 このままでは、ノアが――将来の国王が、湖の底に沈んでしまうかもしれない。200年後のアリーラの時代も、国王はノアの直系の子孫だというのに。

 ノアが死んでしまうと、これから生まれるはずの本来歴史上に存在したたくさんの人々が、消えてしまう。

 私は深呼吸をすると、エルガーを見つめた。


「エルガー。急に申し訳ないんだけど、近いうちに私もロンドに行くわ。でも、お母様達には黙っていてほしいの」

「どうして? 突撃訪問をして、喜ばせるの?」

「違うわ。ただ、こっそりロンドに行って、やらないといけないことがあるの」

「お姉様、なんだか最近様子がおかしいです。どうしたんですか?」

「いまロンドに行かないと、取り返しがつかなくなっちゃう」

「も、もしお母様達に何か聞かれたら、僕はどうしたらいいんでしょうか?」

「私がカリエの実家に泊まりに行った、とでも言って」

「ええっ? でも、そのカリエの実家の住所って、どこです?」

「聞かれたら、わからないって答えておいて。私も分からないから」


 唖然とするエルガーの頬に「頼んだわ」とキスをすると、私はドレスの裾を目一杯たくし上げて、階段を駆け上った。

 カリエを大声で呼びながら。




 ロンドは美しい街だった。

 湖の上を渡る涼しい風が吹き、昼間も爽やかな気候だ。

 レシュタット家の別宅は、王都の屋敷に比べればかなり小さな建物だった。

 ロンドが小さな町なので、小ぶりの建物が通り沿いにびっしりと並んでいる。

 立ち並ぶ建物は大きくはないけれど、どれも色とりどりで可愛らしく、街の目の前に広がる大きな湖・モンラン湖が大きな解放感を与えている。

 今は賑わいを見せる華やかなモンラン湖畔だったが、この後歴史に残る事故が起きるのだと思うと、明るい湖畔がどこか影を帯びているように見える。


 私はカリエを引き連れ、ファナが毎年夏を過ごしていたレシュタットの別宅を通り過ると、モンラン湖に向かった。

 モンラン湖の周りには王都から遊びに来ている着飾った貴族達が大勢いた。優雅に日傘をさし、散歩をしている。

 荷物の開梱や掃除は全て使用人に任せ、彼らはロンドではひたすら遊んで過ごすのだ。本当に、恵まれた身分なことこの上ない。

 観光地であるロンドには、各種誘惑が多い。ファナの記憶によれば、我がレシュタット家の両親も、例に漏れずこの避暑地では二月の間、遊び倒して過ごすのが常だった。公爵である父は賭博場に通い詰め、母は母で、どこかの屋敷で開かれるパーティに毎晩出掛けたものだった。


「お嬢様、泳いでいる者たちもおりますよ! 気持ちよさそうですねえ」


 私の後ろを歩くカリエが、近くの湖面を指差す。水面がキラキラと光を反射し、眩しい。


「ここではお嬢様と呼ばないで。いま私は、カリエよ」

「ーー本当に、私のフリをなさって船に乗るんですか?」


 カリエが大きな鞄を肩にかけたまま、立ち止まって私を見つめる。

 私たちはいま、二人とも簡素なワンピースを着ている。

 私は金色の髪を赤色に染め、頬にそばかすも書いてきた。

 貴族らしさを完全に消すため、靴も古着屋で買ってきたものを履いている。

 ロンドにただ来ても、警備が敷かれた王太后の船に深夜に乗ることはできない。

 私は桟橋に停泊する大きな船舶群を顎でさした。桟橋には、立派な船がたくさん停まっている。

 裕福な貴族は船を所有していて、ロンドに来た時に船遊びをするのだ。


「見えるでしょう、カリエ。あの一番優雅な水色の大きな船が、王太后様所有の船なの。あの船に泊まるには、船の中で働くしかないわ」


 王太后の船は大きく、いろんな職種の者達が働いている。その中でも、ここロンドで緊急で募集をしていたのが船上の調理人手伝いと掃除人だった。

 とはいえ、王族の船なので身元は確かでないといけない。

 カリエの生家の本家は地方領主だったので、その点は問題ない。

 カリエは私にはどちらもつとまらないから、あきらめるよう言ってきたが、アリーラは八百屋で働いてきたから、野菜を切るのはお手のものだ。料理だって、毎日してきた。

 だから私はカリエに急いで乗船する調理人手伝いの応募を頼み、無事採用通知を受け取ったのだ。

 カリエは怪訝な顔で、額の前に手でひさしを作って船を見上げる。


「本当に、乗り込むんですか? いくら変装しているとはいえ、お嬢様が一人で平民に混ざって働くなんて、危ないですよ」

「大丈夫よ。あなただって、スパイごっこが好きじゃないの」

「私とお嬢様では、お立場が違いすぎます」

「確かな情報筋から仕入れた話なのよ。突貫工事で作ったせいで、船はちょっとした衝突や事故で、浸水してしまうかもしれないんですって」


 未来を知っているとはいえない私が、カリエについた嘘だが部分的には事実だ。カリエはここ数日ずっと繰り返し、私に言ってきたことをまた言った。


「だったらなおのこと乗船なさるべきではありません」

「事故が起こるかもしれないと知っていれば、万一の時にノアと王太后様を助けられるでしょう。大丈夫よ。秘策があるから。それにノアとは、いいお友達なの」

「危ないことは、なさらないでくださいね。って、これ自体が危ないことですけど」

「これが終わったら、令嬢らしく大人しくして、王太子様に嫁ぐわ。誰にもこのことを言わないでいてくれたら、私のアクアマリンのネックレスをあげるから」


 カリエはアクアマリンが好きだった。

 でも、と口ごもるカリエに私は一歩近づいた。


「しつこいようだけど、私が平民のふりをして乗り込んでいることは、絶対に誰にも言わないでね」

「たった一泊の船旅とはいえ、宿でお待ちするのは、心配で頭が真っ白になってしまいそうです」

「大丈夫よ。大したことはしないから」


 歴史を知っている私からすれば、モンラン湖の悲劇を止めるのは容易だ。

 原因となった調理場の火を、寝る前にしっかり消しさえすればいいのだ。

 私に鞄を手渡しながら、大きなため息をついた。


「無茶はなさらないでくださいね? って、このこと自体が無茶なんですけど」

「大丈夫よ。私が野菜や果物を切る腕前を、ちゃんと見せたでしょう? 調理人手伝いとして立派に働いて、戻ってくるから」


 カリエは渋々のように頷き、船に向かう私を見送った。



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