薔薇の迷路③
ジュストがブランコの鎖を握り直し、ガチャリと硬い金属音が響く。
「王太子殿下は、大きな鹿を射止められたそうですね」
コンドルーでの狩猟の話だろう。
急に話が変わり、すぐには気が付かなかった。
「殿下と地方領地で過ごされて、殿下を改めて見直されましたか?」
「どうかしら。確かに、狩りが得意なのは素敵なことなのかもしれないわね」
「そのほかに、――何か殿下について、気がついたことはありませんでしたか?」
「どういう意味? 意外とお酒には弱かったみたいだけど」
「殿下は、諦めたほうがいい」
どうしてそんなことを言うの。緊張から、ドクドクと心臓が鳴る。
私はいよいよ核心をつくことにした。このために今日はジュストを訪ねたのだ。
「あなたは何を知っているというの? 王太子様は、女性を好きになったことがないとか?」
「殿下は女性を一途に愛される方ですよ」
ならよかった、と言おうとしてすぐに引っかかる。
「一途に」という修飾が妙に浮いて思える。
「それは、殿下には……どなたか、一途に長く愛している女性が、既にいるということ?」
震える声で尋ねたが、ジュストは目を逸らした。
その反応に、息が止まる。それは何より雄弁な答えに思えた。
「そうなのね? お願い、知っていることを教えて。私、ノア殿下からもあなたが言ったのと同じことを言われたの」
「そうでしたか。ノア殿下は私より王太子殿下のことをご存じでしょうからね」
「王太子殿下の想い人って、どなたなの?」
ややあってから、ジュストは固い声で言った。
「あなたは、見たはずだ。既に」
「え?」
「その女性を。殿下の長年の、初恋からの関係が続いているその女性を、既に何度か見たはずです」
「その女性は、殿下の初恋の人、なの……。でも殿下の周りにはいつもたくさんの女性がいたから、あなたが誰のことを言っているのか、わからないわ」
このことは、パトリシアも知っているのだろうか。
たまらず尋ねると、ジュストは頷いた。
「パトリシアもとうに知っていますが、そもそもあの子は殿下に愛を求めていない。だから、割り切っているんです」
けれど、私は割り切れないだろうと、ジュストとノアは考えている。だから、先日から私にそれとなく教えてくれていたのだ。
ショックを隠し切れず、のどを震わせて息を大きく吐く。
――私は、王太子妃にならなければ、全てを失ってしまう。
(そうでしょう? おばあちゃん)
「でも……好きな人が別にいても、政略結婚にはつきもので、よくあることなんじゃないの?」
「二人が相思相愛でこの先もあなたよりも近くにいて、あなたとの結婚後も関係が続くとしたら、よくあることとは言い切れません」
華やかに笑う王太子の残像が、脳裏に蘇る。
たとえ婚約できたとしても、彼の心を手に入れることはできないなんて。
(どうしたらいいの。私、ますますわからなくなってしまったよ、おばあちゃん!)
ファナに何が起きたのか知らないけれど、まさか愛人付きの王太子が嫌で、逃げたのだろうか?
ジュストの手がロープを下がり、私の手の位置にまで滑ってくる。彼は手と手が触れ合うと、そのまま私の手を包み込むように握った。何をするつもりなのかと問うように見上げるが、お互い言葉が出ない。
手はダンスで握りあったのだから、別に大騒ぎすることなんかじゃないのだと、自分に言い聞かせる。
「ファナ様。あなたは、間違った選択をしようとしています。本当に妃になりたいのですか? 殿下があなたを愛することが、決してないとしても?」
「そんなこと、まだ分からないわ。結婚すれば変わるかもしれない。それに、殿下は私が一番妃にふさわしいと、言ってくれたのよ」
「殿下だけは、いけません」
「どうして」
「あなたを、私が渡したくないからです」
そういうとジュストがこちらにかがみ込んできた。
何を言われたのか理解できないうちに、彼の顔がゆっくりと近づいてきて、その唇が私の額に触れる。びくりと一瞬震えてしまったが、私はそれ以上の抵抗はしなかった。ただ、どうしていいのか分からなくて、固まってしまう。
するとジュストは私の頬にキスをして来た。
私の心臓は、痛いくらい強く鳴っている。
夕焼けの赤金色の光を浴びて、見つめ合うことに耐えきれず、目を逸らす。
視線を落とすと目の前にはジュストの腰からぶら下がる騎士団長の剣があった。その柄にはまる、夕日と同じ色の石を、見つめる。
そしてジュストの顔が、今度は真っ直ぐに私の唇に向かって動いて来た時。
私は足を上げて、軽く膝でジュストの剣を蹴ってやった。途端に彼の動きが止まる。
「ジュスト、離れて。それ以上は、好きな人とするものでしょう? こんなことをするなんて、騎士らしくないわ」
「ファナ様は私を効果的に止める方法を、よくご存じですね」
騎士団長の剣は、ジュストの全てだ。命と同じくらい、大事なもの。
「あなたは以前話していた、その剣を接着剤で貼り付けた犯人を、訴えないの?」
「実を言うと、迷っています」
「犯人を、……許せない?」
「まるで許してほしいような言い方ですね」
ジュストの手がロープから離れ、私の背中に回る。彼はそのままブランコごと私を抱き寄せた。驚いてその体を押し返そうとして、手を持ち上げたけれど、手は役に立たずに宙をふらつく。
(何してるの、ファナ。早く抵抗して!)
心の中でもう一人の私が叫ぶけれど、動けない。
王太子妃にならないといけないのに、別の男性と私は何をしているのか。自分を自分で軽蔑してしまう。
だけど、王太子はとうに愛し合っている人がいるのだ。嫁いだとしたら、王太子にとっての私とは、一体なんの意味があるのだろう。
もはやそこには、「妃」という記号しかない。
「ジュスト、お願いだから離して」
言葉だけは抵抗してみるが、返事はやってこない。
私が本気でないことを見抜いているのか、ジュストもちっとも力を緩めない。
(ああ、どうしよう。このまま、こうしてジュストと抱き合っていたい)
この時間がずっと続けばいいのに、とすら思ってしまう。
でも気持ちの上では嬉しいのに、心の奥底では泣き出しそうだ。
ジュストとファナが絶対に結ばれないことを、二百年後から来た私は知っている。
ファナが婚約を辞退して、ジュストと結婚することはなかった。例え親に反対されようとも、アーヴィング伯爵家との結婚ならば、失踪までする必要はなかったはずだ。
だがファナは失踪後、歴史の中に消えていったのだ。伯爵家のジュストが彼女を選ぶことはなかったはず。
実際に前回のファナに何が起きたのかはわからないが、これは叶うはずのない恋心だ。私がジュストを好きになっても、決してこの恋は成就しない。
私は、どうして未来を知ってしまっているのか。
この気持ちが報われないことが、ただ辛い。
今だけは未来から来たことが、自分で憎らしい。
私の葛藤も知らず、ジュストは私を胸に押し付けたまま、言った。
「もう一度だけ聞かせてください。殿下が、好きですか?」
乱れて泣きそうになる自分を、どうにか抑える。
「――王太子妃になれたら、きっと好きになれるわ……」
そんなのは嘘だ、と自分でも分かる。
どんどんジュストに惹かれていく気持ちを、止められない。自分の心なのに。
せっかくおばあちゃんの力で時を超えて、この時代を生きるファナになったのに。
私はそうしてしばらくの間、ジュストに抱き寄せられていた。
ジュストとそうして密着しながら、私はずっと「やっぱりもう一度、キスをしてほしい」と考えていた。
一度だけでいい。
だから。
けれどジュストはその後もただ黙って、私を抱き寄せていた。
庭園の散策から戻ると、アーヴィング家の料理人が腕に寄りをかけて作ってくれた夕食を頂きながら、私はジュストと静かで暖かな時間を過ごした。
見つめ合うだけで幸せな気持ちになるこの瞬間を、諦めなければいけないのは、なんて辛いのだろうと思いながら。
この日私は結局、ジュストのジャケットを返さなかった。彼との繋がりを、手放したくなかったのだ。
ジュストもジャケットのことを忘れてしまったのか、何も言ってこなかった。




