王族の狩場へ
それから私とジュストは、隔週で仮面舞踏会が開催されるたびに一緒に過ごした。
ジュストは剣の鞘を変え、柄には布を巻いて自分が近衛騎士団長だとは悟られないようにしていた。
運動音痴の人間にとっての限界か、私のダンスは一定のレベルからは一向に上達しなかった。
相変わらずジュストの足を踏んでいたし、明後日の方向に動いて躓きそうにもなった。
いや、運動音痴を抜きにしても、上達しないのは当たり前だったかもしれない。だって、私とジュストは数曲ほど踊るだけで、あとは時間の大半をお喋りに費やしたのだから。いや、話してすらいない時間も多かった。
私達はただ、黙って手を繋いで、中庭を散歩して過ごすことも多かった。もう何をしにきているのか、本来の目的なんてすっかり霞んでいた。
それでも、かまわない。
長く抑圧されてきたファナにとって、両親の目を盗んで遊ぶというのは、得難い爽快感があった。
だがこの密かな夜遊びは、二か月目に突然終わりを迎えた。
その夜。私は仮面舞踏会からの帰り際、自分の家の馬車に乗りながら窓に張り付いて、ジュストの姿を目を見開いて一生懸命、確認していた。
遠ざかっていく彼の姿を。
私の馬車が離れていくと、背を向けて自分の馬車に向かっていく時に、マントを払う仕草を。
御者に手を挙げて合図を送るその腕を。
夜風に靡く、黒髪を。
気づけば、全てを見逃すまいと窓に手をついて視線で追う自分がいた。
ジュストと距離ができて完全に見えなくなってしまうと、全身が重くなるような寂しさに襲われる。
(ついさっきまで、手を繋いでいたのに。視線を交わしていたのに)
――私ったら、何をやっているんだろう。
自分の気持ちを直視してしまい、愕然とする。
「ああ、どうしよう。私って、馬鹿だ」
顔を両手で覆って、深いため息をつく。
今更ながら、自分の気持ちに気がついてしまった。
これは間違いなく、恋だった。
よりによって、ジュストを好きになってしまった。
しかもはっきりと自覚できた時には既に、どうしようもなく好きでたまらなくなっていた。
こんな恋は公爵夫妻には許してもらえない。二百年後のレシュタット一族も、許さない。
「なんのために、おばあちゃんが命懸けで時間を巻き戻したのか、思い出して。馬鹿なファナ!」
髪飾りを外すと、座席の隅に放る。
しっかりしろ、私。
私達はただ、手を繋いだだけ。
頬への軽いキスすら、していない。
今なら、間に合う。いや、間に合わせなければ。
二百年前までわざわざ戻ってきているのに、何をしているの。
「だめだめ。もう、ジュストには会わない。忘れなくちゃ」
私は、王太子の妃になるんだ。妃になろうとしているのに、このままズルズルとジュストと会い続けては、王太子にも失礼だ。婚約者になりたいなら、それなりの誠意を見せなければ。王太子に申し訳ない。
「もう、仮面舞踏会には行かない」
それが一番だし、もっと早くにすべきだったのだ。
仮面に手をかけて顔から外した時、私は逆に自分の心に仮面を纏ったような気がした。
私が夜遊びに終止符を打った頃。
ディーン王国は、狩猟の季節を迎えた。
狩猟は古来から王族の趣味であり、嗜むべきスポーツでもあった。
大量の猟犬と馬を引き連れ、狩場となる山野に入り、近所の貴族の屋敷に獲物を持ち帰って分配し、夕食の宴を開くのだ。
王族達は狩仲間として貴族の友人を連れていることが多かったから、狩場の近くに屋敷を持つ貴族達にとっては、人脈を作る良い機会でもあった。
そして王太子の次の狩猟の場として選ばれた狩場は、コンドルー伯爵家の領地の中にあった。
「そう、喜びなさい、ファナ。私の実家が選ばれたのよ」
公爵夫人は、張り切っていた。
コンドルー伯爵は母の父――つまり、ファナ・レシュタットの祖父だった。
「今度王太子殿下はノア殿下と、狩りをなさるの。その夜にコンドルー家に泊まるから、ファナ、私たちも乗り込むわよ」
夕食の席で力説する母に、弟のエルガーが不安げに尋ねる。
「お母様達は、何をなさるのですか? まさかご一緒に銃で鹿を狙われるわけではないですよね?」
「もちろん、私たちが狙うのは王太子様よ、エルガー。鹿なんてどうでもいいの」
「は、はい」
「狩りは馬を乗り回して獲物を追いかけて、本当に疲れるものなの。その疲労を、美しいファナの笑顔と美味しいコンドルー家の料理で、癒して差し上げるのよ」
そこへ父が独り言のように口を挟む。
「現王妃様も、そのようにして狩猟の直後に陛下のお世話をされて、後に妃に選ばれたのだ」
「では、お姉さまはここが踏ん張りどころということですね?」
エルガーの問いかけに、母はにっこりと微笑んだ。
ナイフを右手に取ると、家鴨のローストを切り裂きながら、言う。
「コンドルー家には今、妙齢の女子がいないから、お父様もあなたが狩の日に来るのを大歓迎だと言ってくれてるの。頑張りなさいね」
「ええ、お母様」
答えながら、私は緊張で何杯もワインを喉に流し込む。
グラスを持つ手が、微かに震える。
「コンドルー」という響きには、聞き覚えがある。
(忘れていたわ。あの有名な事件。歴史の教科書に、太字で載っている事件じゃないの)
『コンドルー領の悲劇』という文字が、頭の中にくっきりと浮かぶ。二百年後には教科書にも載る出来事が、コンドルー領地の狩りで起こる。
まさか自分がその歴史的事故に立ち会うことになるなんて。
未来の国王、ノアはこの狩りで崖崩れにあい、大怪我を負って生死を彷徨うのだ。
一命は取り留めるものの、以後彼は片足を引きずるようになる。
国王となってからも、ノア三世は死ぬまで杖なしでは歩けなかったと伝わっている。
確か獲物を深追いしすぎて、崖まで走ってしまったのだ。あの事件が、今これからまさに起きようとしているなんて。
アリーラが学校の勉強で学んだ、ファナの生きた時代に起きた有名な悲劇的事故は二つある。
この崖の事故と、少し後に起こる『モンラン湖の悲劇』だ。後者は、風光明媚な湖で船旅中の王族や使用人達が、大勢亡くなってしまう。
このコンドルーでの狩猟で実際にファナと王太子がどう絆を深めたのかは、わからない。
けれど、ノアが大怪我を負うのは確かだ。
私は今、歴史的な岐路に立っている。
助けるか、助けないか。問題はそこだった。




