近衛騎士団長との仮面舞踏会
紫のドレスを着て、赤いルビーのイヤリングをつけて、小走りで屋敷の古く細い螺旋階段を下りていく。
屋敷の中でも滅多に使われない階段なので、埃っぽい。
一階まで辿り着き、外に通じる扉を開けるとカリエは言った。
「お迎えの馬車は、二時間後ですからね! お気をつけて行ってきて下さいね」
「ありがとう。なんだか、こっそり抜け出して夜遊びに行くのは初めてだから、ドキドキしちゃう」
するとカリエは私の手を取った。
「お嬢様は、もっと人生を楽しまれて良いはずです。いつも、王太子妃教育に没頭しすぎだと、常々思っておりました」
「そうね。こうして世間を知ることも、大事だもの」
「たくさん、ダンスをしてきてください。そして、楽しまれてください」
「ありがとう。本当に、ちょっと興奮しているの」
思いのほか、わくわくしている。
裏庭の木々の間を一気に駆け抜け、馬車に向かって駆ける。
いよいよ仮面舞踏会だ。
王立舞踏ホールでダンスの研鑽を積み、夜会で恥をかかないように、たくさん踊って慣れてこなければ。
王立舞踏ホールは石造りで、王都の周辺の建物の中でも圧巻の規模を誇っていた。縁がないので、アリーラとしては一度も来たことがないが、この建物は二百年後も現存しているはずだ。富裕層の社交の場として有名なので、その名は知っている。
公爵令嬢としてはここに集うのに不足はないが、来ていることを知られたくないので、馬車の中で仮面をつけてから降り立つ。
予めカリエに買ってきてもらった入場券を持ち、煌びやかな世界へと入っていく。
ホールの中は着飾った男女でいっぱいだった。
公爵家や王宮夜会と違って、髪型やドレスが大胆なデザインの女性が多く、男性も少し着崩しているように見える。
給仕以外のほとんどの人が仮面をつけているので、得体の知れなさがあり、入り口付近で怖気付いてたたらを踏んでしまう。
(落ち着いて。ジュストを探さなきゃ)
例のルビー付きの剣を腰からぶら下げている男性を、見つければいい。
他の人に話しかけられると面倒なので、両手にワイングラスを持って進む。これなら今しも誰かに渡そうとしているように装えるので、話を振られないだろう。
一生懸命顔を上げて奥へと進んでいると、行き交う人々の向こう側に、こちらを見ながら直進してくる男性を発見した。
黒い髪の色と体格から、もしやと思ってこちらからも近づくと、案の定見覚えのある剣を携えている。
慣れない場でやっと知り合いに会えて、安堵しながら手を振って合図する。
人を掻き分け、正面まで来ると仮面から覗くのは、印象的なアイスブルーの瞳だ。当たり前だが、黒い騎士団の制服を着ていなくて安心する。あれで来られたら、目立って仕方がない。
長身で均整の取れた体格をしているので、何を着ても似合いそうではあるが、派手過ぎない白地のジャケットの上に掛けた青いマントのコントラストがよく映えている。
手に持つワイングラスを、さっと差し出す。
「良かった! 落ち合えて。待たせちゃって、ごめんなさい」
ジュストはグラスを受け取りながら、そっと私の背に手を当てながら、ホールの奥の方へ移動を始めた。
「あえて少し早めに来ていましたので、問題ありません。慣れないあなたが私を見つけられずに苦労したら、大変ですので」
「もしかして、先にもう誰かと踊ってた?」
「いいえ。途中であなたが来られたら、困りますから」
そうなんだ、とホッとする。
そしてすぐに自分の反応に首を傾げてしまう。
私はなぜホッとしたんだろう。ジュストが誰とも踊っていなくて、嬉しい意味が分からない。
私が困らないよう配慮してくれた心遣いが、ありがたいから……?
自分の感情に困惑する。
ジュストは少し人口密集度の少ない場所まで移動すると、私の手を取った。
「この辺りで早速踊ってみましょうか」
「ええ。よろしくお願いします」
グラスを戻して向かい合ってから、ふと気づく。
ジュストと踊るのは、これが初めてだ。今までなんだかんだと機会がなかった。
気づいてしまうと、見上げるのが急に恥ずかしくなる。
曲に合わせて踊り出すと、ジュストが口を開いた。
「ファナ様、そんなに距離を取らないで下さい」
「ああ、そう? もう少し寄るわね」
「ファナ様、そんなに仰け反らないで下さい。顔が遠くなって、姿勢が悪くなりますよ」
「そうね、気をつけるわ」
「ファナ様……。まるで羽でも握っているかのように、手がふわふわと離れていくのですが。しっかり私の手を握って下さい」
逃げ腰だった手をジュストにぎゅっと握られ、あたふたと焦ってしまう。もたついた足が間に合わず、ジュストの靴に躓き、転びそうになる。すかさずジュストの腕が私の背中に回され、私は彼の胸の中に押しつけられる形で、支えられた。
「ご、ごめんなさい!」
ジュストの靴の上から足を下ろし、急いで体勢を整える。
彼の腕はすぐに私の背中から離れたが、背中は一瞬で熱くなったのか、まだ熱を感じる。
(それに、何あの胸板!? 凄く硬かった……!)
胸板の衝撃が頭から離れてくれない。思い出しては赤面してしまう。
するとジュストはそんな私の様子を見ていた。
「ファナ様。息が上がってますよ。顔も赤いようです。深呼吸して整えて下さい」
そんなことを言われると、余計に上がって赤面してしまう。
なんとかついていこうと考えると、さらにぎこちない動作になり、下手さに拍車がかかる。
ジュストは心配そうに言った。
「私がお相手だと、踊りにくいですか?」
「そ、そんなことないわ。私が下手なだけで」
「せっかく仮面をつけておりますから、私が王太子殿下だと思って踊ってみては? きっと自然と動きが合いますよ」
そうだろうか。
とりあえずアドバイスに沿って、自分に言い聞かせる。この人はジュストではなくて、王太子様だ。
金色の巻き毛と、そつのない微笑を思い浮かべる。何と言うか、あの――心のこもらない笑顔を。
すると胸の高まりと緊張はみるみる収まっていき、硬かった体の動きが、滑らかになっていった。
ジュストは小さく笑った。
「さすが、てきめんに効果がありますね」
「そうね。不思議」
「ダンスは好きな人とするからこそ、楽しいのです」
好きな人――?
その言葉は相手が王太子だと仮定すると、すんなり入ってこなかった。引っかかってしまって仕方がない。
たしかに、手も握りたくない相手とは、ダンスなんて出来ないけれど。
「ううん。ダンスを楽しめるようになるのは、まだまだ先だわ。そんな余裕はないかも」
くるりと回ると、広がったドレスの裾が近くで踊る女性の裾と当たる。
気が散って仕方がない。
「殿下に招待された話題のオペラは、いかがでしたか?」
「オペラ自体には、あまり集中できなくて。みんな、オペラを見にきたんじゃなくて、王太子様と仲良くなりにきていたようだったから」
「お察しします。ファナ様も、殿下とは親睦を深められましたか?」
「あら、妹のライバルの動向が、気になる?」
「そうですね。そんなところです。パトリシアはあなたのことがとても好きなようですが」
「本当に? 嬉しい。私も、パトリシアが好きなのよね」
「王太子殿下のことも、お好きですか?」
唐突な問いかけに、一瞬答えに詰まる。
それは一番聞いて欲しくない質問かもしれない。
ノアが指摘したように、私たちはアリなのだ。富と権力という甘い砂糖に群がろうとしている。
そこに気持ちが伴うことが出来たなら、良かっただろう。けれど。
(聞かないでほしかった。考えるほど、私の殿下への気持ちは離れていってしまう……)
心とは正反対に、なんとか口角を上げ、細い声で答える。
「ええ。とても素晴らしいかただと、尊敬しているの」
「それなら何よりですね。貴族は恋愛結婚が難しいですから、ファナ様は幸運です。むしろ我々貴族の結婚は親が決めるものであって、自分は家を繁栄させる道具に等しいと、割り切らなくてはなりませんからね」
ずきん、と心が痛む。
私には覚悟があるだろうか。アリーラが結婚まで強引に持っていけたとして。その後の長い人生を、王太子と過ごす。
私はいつまでファナの中にいられるのかは分からない。けれど、イサークという人間個人を見つめた時。つまり王冠も玉座も取り払って彼のことを考えた時、私は近くに居続けることができるだろうか?
(弱音を吐いてはだめよ。なんのために、おばあちゃんが神様にお願いしたと思うの? 割り切らなくちゃ。おばあちゃんを失って、ひとりぼっちで借金を抱えて、生きていけるの?)
そんな私には、戻りたくない。
拳をぎゅっと握りしめると、凛とした声で尋ね返す。
「あなたは、どうしてパトリシアに王太子妃になってほしいの? アーヴィング家のため?」
「いいえ。実はパトリシアの場合、家は関係ありません。ただ単に、妃になることが、妹の望みだからです」
ああ、随分とキッパリ言い切るものだ。
望むことを応援する、というのはジュストがパトリシアを信頼してこそ、言えるものだ。
こんなふうに応援してもらえたなら、さぞやる気が出るだろう。
恋愛感情など、はなから捨てているパトリシアは目的が明快で、迷いがないのかもしれない。
何曲か踊ると、私の息が上がったので私たちは中庭に出た。
熱気で空気のこもる室内と違って、澄んだ涼しい空気が清々しい。
中庭の石畳を踏むヒールのカツンカツンという、硬質な音が心地よい。
石畳の中庭にはベンチがいくつか置かれていて、私たちはそのうちの一つに腰を下ろした。
ここでも皆仮面をかけており、身元がバレないという安心感から、解放的な気分になって思い切って伸びをする。
「私の弟は極度の恥ずかしがり屋なんだけど、ここになら連れてこられるかもしれないわ」
「仮面をかけていると、普段は押し殺していた別の自分が出てきますからね」
「面白いことを聞いたわ。それじゃ、もしかして今あなたも普段とは違う一面を見せてくれてるのかしら?」
「普段より六割増でファナ様に優しく接しているつもりです」
さらりと言われた一言に、思わずおかしくなってしまう。
「それ、本当?」
「今日の私は、優しくありませんか?」
「――優しいわ」
素直にそういうと、私たちは視線を絡ませた後で、妙に恥ずかしくなって目を逸らした。
自分達で始めた会話なのに。
私たちはそうしてしばらくの間、無言でベンチに腰掛けていた。
二人でじっとしている時間が、夜の静寂を共有することが、何よりの贅沢に感じる。
私は思わず呟いた。
「仮面舞踏会って、いいことずくめね」
ベンチの横に立つ支柱には、次回の仮面舞踏会の予告のポスターが貼られていた。首を伸ばしてよく読むと、笑ってしまった。
「見て。次の舞踏会は動物の仮装大会なんですって! みんな着ぐるみでも着てくるのかしら」
「着ぐるみでダンスも面白そうですが、違うみたいですよ。動物の仮面と、それに合わせた色のドレスを着てきましょう、と書いてありますね」
「それも面白そう――。猫とか猿の仮面が見られるのかしら。いいなぁ。私なら、ウサギにするかも。想像するだけで、楽しそう」
「ファナ様。はじめての仮面舞踏会はいかがですか?」
「とても楽しいわ。最初は緊張したけれど。何度も通ってしまう人達の気持ちが、分かるかも」
――だから。
だから、また来たい。
できればあの動物仮装仮面舞踏会も覗いてみたい。
また一緒に参加できたら。待ち合わせをしたくてたまらない。
あなたは、どう?
楽しんでる?
また一緒に来るのはどう?
そう言いたいけれど、とてもだけれどそんな勇気はない。
もし参加するとしたら、ジュストなら何に仮装するだろう。




