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夜の噴水で

 男性は私に尋ねた。


「王都は初めて?」


 どうやら今日の晴れ舞台のために、地方から参じた貴族の一人だと思われたようだ。本当はもっと遠いところから――遥か先の未来から来たんだけれど。


「いえ、王都に住んでいます。レシュタット家のファナと申します」

「レシュタット家? とんだ名門じゃないか。それはなんとも意外だな」


 男は本を閉じると、ランプをさらに引き寄せて私に手招きをした。


「もう少し顔が見たい。こっちにきてくれ」


 おずおずと近寄ると、男はまじまじと私を見上げてから、小さく笑った。


「本当にファナ・レシュタットじゃないか。これは驚いたよ。デビュタントの時に見たから、顔を知ってるぞ」

「あの、あなたは?」

「第二王子のノアだよ」


 ええっ、と驚き、顔をまじまじと覗きこむ。

 第二王子のノアは王太子とは違い、あまり表に出てこない王子だった。

 巷では彼ら兄弟を太陽と月と呼んでいた。兄は明るく気さくで、弟は寡黙で社交嫌いだったからだ。ノア王子は生粋の軍人でもあり、兵役についていることが多く、あまり王宮の華やかな場に登場しないことも、大きい。

 とはいえ公爵令嬢のファナは何度か遠巻きに彼を見たことがあり、よくよく見れば今噴水で一人読書に励んでいるのはたしかに王太子の弟のノアだった。


「君は兄上のお妃候補の一人だよね。もう兄上とは踊った?」

「ええ。最初に踊ったんですが、」

「もう踊らなくていいの?」

「二回踊るチャンスはどうやらなさそうです」

「はははは。そりゃそうだ。兄上にはいつも、砂糖に群がるアリのように令嬢達が群がってしまうからね」


 アリとは酷い言いようじゃないか。


「差し詰め私は『一番アリ』でしたね」


 皮肉を返すと、ノアはごめんごめん、と軽く詫びてきた。


「兄上もいつもたくさんの女性に囲まれて、大変だ。……きっと、本当に全員が兄上個人を好きなわけじゃないだろうからね」

「そ、そんなことは、ないと思います」


 反論に力がこもらないのは、ノアが事実を言い当てているからだ。

 私は噴水に浸かる彼の足を指差した。


「あの、冷たくないんですか?」

「いや、気持ちがいいよ。噴水に足を入れてるなんて、おかしな人間だと思うかい?」

「いいえ。まさかそのような無礼なことは、考えもしていません。そもそも読書が好きな人は、みんな良い人ばかりですから」

「その定説は賛成しかねるな。――こうしていると、物凄い解放感があって、窮屈な場所にいることを忘れてしまえるんだよ」

「窮屈…ですか? こんなに広い庭園だなんて知らなくて、私はついお散歩してしまったんですけど」

「俺にとっては、目に見えない(おり)に囲まれた場所だよ」


 王宮が嫌いなのだろうか。

 ノアが少し寂しげな表情を浮かべて、膝上の本に落とす。

 私はさらに一歩近寄り、本のタイトルを読んだ。どうやら南の島々を探索した冒険家の自伝のようだ。

 後世にも有名な本で、アリーラの時代でも書店で見かける。

 茶色く分厚い表紙に金色の装飾がされ、初版本だと思われる。

 二百年後の人間から見れば、非常に価値ある一冊だ。

 ノアは表紙を撫でて、つぶやいた。


「いつか、この著者のように自分の意思で色々な所を見てみたいものだ。まぁ、俺は兄上の補欠みたいなものだから、ゆくゆくは好きにさせてもらうつもりだけどね」


 ゆくゆくは。

 第二王子のノアは、世継ぎなく崩御した兄である国王イサークに代わり、ノア三世として、国王になる。歴史通りに進めば、彼はこの檻から生涯出られることはない。


「それは、……どうなりますかね」

「どうなりますかねとは、どういう意味だ?」


 ノアが怪訝な瞳を上げ、私は漏れてしまった失言に慌てて首を左右に振る。


「いえ、何事も努力次第ですもんね。殿下ならきっとできます。頑張ってください」

「随分と感情のこもらない応援だな」

「の、ノア殿下は、冒険がお好きなのですね」


 話を逸らすと、ノアは意外にも少し悪戯っぽい表情で笑う。


「ここまで一人で歩いてきてしまう君も、大概だよ。その勢いで、こちらにおいで。実は、この噴水は温泉でできているんだ。温かいんだよ」

「本当ですか!? さすが王宮ですね」


 ノアが片手を噴水に突っ込み、「いい湯だ」と実に気持ちがよさそうな声を漏らす。

 釣られて私も縁に手を掛け、右手を噴水に入れてみる。


「冷たっ!!」


 あたたかさなど微塵もなく、無警戒に突っ込んだ身には、心臓が一瞬キュッと痛むほどの冷たさ。

 急いで水から手を引き上げ、ノアを睨む。彼は実に愉快そうに笑い出した。


「まさか手を突っ込むとは思わなかったよ」

「だましたんですね! 全然温泉なんかじゃないのに」

「ごめんごめん」


 笑いながらの謝罪には、これっぽっちも反省の色がない。

 だが楽しげな笑顔は、私の後方に投げられた後ですぐに消失し、真面目な顔つきに戻った。

 どうしたのか振り返ると、垣根の切れ目から歩いてくるジュストが見えた。

 私とノアを交互に見つめながら、ゆっくりと歩いてくる。


 ノアは噴水から自分の足を引き上げながら、小さな声でぼやいた。


「珍しいなぁ。俺のお気に入りの隠れ場所に、次々と人が押しかけてくるな。しかもよりによって、騎士団長か」


 濡れた足をタオルで拭きはじめるノアのそばまで来ると、ジュストは言った。


「こんな所にいらしたのですか、ノア殿下。陛下のお誕生日だというのに、こちらで何を?」

「密会だよ。もちろん、ファナとね」


 なんて嘘をつくのか。

 ジュストが真に受けたら困るじゃないの。

 焦ってジュストの反応を確かめると、彼は少しだけ目を見開いただけだった。ノアも何も言わないので、慌てて否定する。


「ここで偶然、ノア殿下とお会いしたんです」


 ジュストがちらりとノアを見ると、彼は黙って肩をすくめた。いや、ちゃんと否定して欲しい。

 ジュストは溜め息をつくと、ノアに言った。


「ノア殿下、陛下がお探しでしたよ」

「もう父上にも、抜け出したことがバレたか。仕方ないな」

「どうかホールにお戻りください」


「分かったよ」とため息をつきながら、ノアは靴を履いて立ち上がった。片手に本をまとめると、ちらりと私を見る。

 ぎこちなく片膝を軽く折り、別れの挨拶をしてみるとノアはかすかに微笑んでから、噴水を離れていった。

 足音が遠ざかると、ジュストが無言でハンカチを差し出してきた。


「どうぞお使いください」


 ジュストは私の濡れた手を見ていた。

 借りるのは申し訳ないが、夜会のドレスにはポケットなどついていない。従って、手を拭くには借りるしかない。まさか髪の毛や裾で拭くわけにもいかない。

 ぎこちなく手を伸ばし、ハンカチを受け取る。


「ありがとう。借りてばかりで申し訳ないわ。近いうちにジャケットと一緒に必ず返すわね」

「構いません。差し上げます。それより、まさか噴水に手を入れたのですか?」

「ノア殿下に噴水が温泉だと騙されたのよ。お茶目なかたなのね」

「殿下がそんなことを? 意外です」


 本当に意外だったようで、ジュストが両眉を軽く跳ね上げた。


「ファナ様は、王太子ばかりでなく、ノア殿下まで狙っているのですか?」

「そうなの。たくましいでしょ…なんて言うと思った!? 違うわよ、失礼ね。本当にフラフラここに歩いてきたら、噴水に片足突っ込んだ読書家がいただけよ」


 私の力説に納得したのかしないのか、ジュストは何も言わない。


(何か言ってよ……)


「ノア殿下がここにいるとよく分かったわね。ここは殿下の秘密基地なの?」

「こちらこそ、まったくの偶然です。私は別に、殿下を探しに来たわけではありませんから」

「えっ、そうなの? てっきり陛下に言われて殿下を探しに来たのかと思ったけど」

「陛下は、探すよう女官には命じてらっしゃいました。ですのでついでに戻るようお伝えしただけです」


 言い終えるなり、ジュストは垣根の切れ目に視線を投げ、ホールの方角を指差した。


「夜会に戻りましょう。これ以上奥に行くと、本当に迷われますよ」


 私の動きがはたと止まる。

 ということは、もしやジュストは私を探しにきたのだろうか。私の帰りが遅いから、心配してくれた?

 まさかねと思いながらも、どきどきしてしまう。





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