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サバス高原の罠②

「いったぁ…」


 全身の痛みにうめきながら起き上がると、薄手の外套は落ち葉と雑草が絡まり、土まみれになっている。

 唇にも砂粒がはりつき、気持ち悪いので払い落とす。

 見上げれば斜面はそこそこの高さがあり、上からカリエ達が私を呼ぶ声が聞こえるが、途中に生い茂る枝葉が視界を遮り、よく見えない。

 結構な距離を転がり落ちたらしい。


(どうしよう。間抜けすぎる。なんでこんなことに……)


 少し上にある低木には私の髪飾りが引っかかっている。

 頭に手をやれば、結い上げていた髪もぐちゃぐちゃに崩れている。

 惨めな状況に絶句してしばし座り込んでしまうが、じっとしていても状況は変わらない。

 斜面を上がろうと、滑らないように両手も使って慎重に登っていく。

 少し登ると、角度が急になった。

 すぐに滑ってしまい、なかなか登れない。

 全力でやればできるはず、と自分に発破をかけ、茂る雑草につかまりながら進むが、足がズルリと滑りまた元の位置まで戻されてしまう。

 諦めてはいけない、と何度か挑戦するが斜面がきつくて進めない。まるで崖だ。

 上からはカリエが私の名を何度も呼びかけているけれど、いつまでも近づかない斜面の上を見上げて、絶望的な気持ちになる。

 その時、突然視界にジュストが現れた。

 腰にロープを巻いた状態で、そのロープを上から伝い降りて結構な速さで私の方へ向かってきている。


(ああ、なんてこと。助けに来てくれるなんて)


 安堵と嬉しさのあまり泣きそうになりながら、ジュストの近くへ少しでも進もうと這う。

 ジュストは後ろを振り返り、私の位置を確認すると腰のロープを緩め、滑るように私のもとまで降りてきた。

 ジュストは両足を踏ん張り足場を確保してから、私の頭から爪先までを見回した。


「どこかに怪我は? 急にふらつかれて、驚きました。あちこちをぶつけたのではありませんか?」


 言われてハッとする。

 今私は髪も服も、乱れて汚れているのだ。慌てて髪に手をやり、急いでまとめ上げる。


「い、今すぐ整えるから、見ないで……!」


 過去二度会った時は、一生懸命綺麗に着飾ったのに。

 公爵令嬢として、みっともない姿は見せられない。

 汚れた格好を見せたくなくて、視界に入るまいとジュストの背中に回るが、彼は私の動きを追って振り向いてしまう。


「痛むところは?」

「ないわ、大丈夫。――顔も土まみれで、とんだ醜態を晒してしまって、本当に恥ずかしいわ」


 必死に袖で顔を擦り、土汚れを落とす。


「土など気にしている場合ではないでしょう。皆、上で心配していますから、早く登りましょう」


 やや呆れた声でそう言ってから、ジュストは私に手を伸ばした。

 そこに掴まって一緒に登り始める。

 彼の手を借りても、足の踏み場を間違えると私は滑り落ちてしまう。彼は簡単に登れる段差が、体の鍛え方が違う私には登れない。

 一向に進まない救助作業に辟易したのか、ジュストはやがて腰回りのロープを解き始めた。そうして一度小さく溜め息をつくと、大真面目に言った。


「互いの体を固定するしかありませんね」

「えっ?」


 最初は言われた意味が分からなかった。上に上がるための妙案を思いついたらしい、と黙ってされるがままになっていると、彼は私の腰回りにもロープを回し、私の体をグッと引き寄せた。


「ぅきゃっ…!」


 子ザルのような悲鳴が漏れてしまった。

 だって、急に体と体を密着させられたのだ。戸惑う私を無視し、ジュストは互いの体を一本のロープで結びつけ始めた。近すぎて彼の体温を感じてしまう。

 ここまで物理的に近づくのは想定外だ。

 ジュストが少しでも動くと、その動きに釣られて私も勢いよく引かれる。

 両手両足は自由に動くが、腕がぶつかっている。


「あの、ちょっと…」


 さすがに淑女としては声を上げるべきかと口を開いたが、ジュストは手慣れた指さばきでロープを縛り終えると、崖の上を見上げる。


「上がりますから、ついてきてくださいね」

「は、はい」


 同意するしかない。

 ジュストに引っ張られる形で、斜面を進む。

 救助とはいえ、こんなにくっついて焦っているのは私だけなのだろうか。もしかして、彼には私なんて小麦粉の詰まった袋くらいにしか、思われてないのかもしれない。

 その証拠に、進みが遅い私に苛立ったのか、時折彼は私の腰回りのロープを鷲掴みにすると、力任せに上へ引きずり上げている。

 異常事態に心臓が暴れて仕方がないが、私が滑れば彼も巻き添えになるので、必死だ。

 登りながら、掴まりやすい岩や枝を、ジュストが的確に指示してくれる。


「地面から離すのは四肢のうち一本にしてください。二本同時に上げてはいけません」

「わ、わかったわ」

「その岩は苔で滑りそうです。避けてください」

「ええ、ありがとう」


 時折それでも滑りながら、その度ジュストが踏ん張って支えてくれる。

 やがて角度がキツくなって私の体力では上がりきれなくなると、私たちはほとんどジュストの力で上に向かっていた。


(ああ、あなたに助けられているなんて)


 新年の祈祷式で嫌がらせをした母を持つ身としては、ひたすら申し訳ない。

 最後の難関ともいえる一番きつい斜面を登るために、彼はロープに掴まって渾身の力で私を引き上げ始めた。

 足を引っ張らないよう、私もロープに必死に掴まり、斜面の雑草の中に両足を突っ張って足場を確保する。

 見上げればジュストの額から汗が滲み、頬を流れている。黒い髪には小枝が絡まっている。

 ふと、その顔を見つめてしまう。

 懸命に上を見上げ、作業に集中するアイスブルーの瞳。 

 汗の滲む白く秀でた額。

 頰に張り付く黒髪。

 それは束の間緊急事態であることを忘れてしまうほど、美しかった。

 ジュストの頰がぴくりと引き攣り、彼の冷たい瞳が一瞬私に向けられる。


「――掴まることに集中してください。私を見ていないで」

「ご、ごめんなさい」


 あまりの恥ずかしさに、慌てて視線を彼から剥がす。

 そしてジュストが大きく体を持ち上げた次の瞬間。

 ジュストの手が汗で滑ったのか、ロープからずるりと離れ、彼の体が落下する。急いで止めようと、ロープに必死に掴まるが、私の腕では止めきれず、私達は二人ともズルズルと滑り落ちていく。

 ここまで、せっかく登ってきた斜面を。

 どうにか止めなければ、少しくらいは彼の役に立たなければ、と視界に入った足元の岩場に足を伸ばし、全体重をかけて踏ん張った。


「――っ……!!」


 ジュストの頑丈なブーツを履いた踵が私の足の上に落ちてくるように載り、その重さと痛みに歯を食いしばる。

 特に私の小指にジュストのブーツの硬い踵の角がぶつかり、悶絶級に痛んだが、なんとか悲鳴を押し殺す。

 体を張って止めたお陰で、私達はそれ以上の落下を免れた。

 ホッとして顔を上げると、ジュストが焦った様子で言う。


「ありがとうございます。助かりました。――もしかしてあなたを踏んでしまいましたか?」

「いいえ。まさか。大丈夫です」


 右足を動かすと、ビリビリと小指のあたりに痛みが走るが、微笑を浮かべてそれを隠す。


 その後、再び最後の急な斜面まで上がると、上からカリエや赤毛の騎士団員たちの声が降ってきた。

「大丈夫か?」「お嬢様、ご無事ですか!?」との声に見上げれば、斜面の上から皆が顔を出してこちらを見下ろしている。金髪の王太子似の騎士団員が大声で言う。

「騎士団長、引き上げますから、ご準備を!」


 ここでジュストは私たちを結ぶロープを解き始めた。


「ここからは引き上げてもらい、一人ずつ上がりましょう。先に上がってください」


 ジュストはロープをすべてはずすと、今度は私だけを括り始める。

 ロープの端が右足にあたり、その微かな衝撃が強烈な痛みに変わって脳に伝わり、私は思わずびくりと震えた。

 それに目ざとく気づいたのか、ジュストが怪訝な表情を浮かべ、手を止める。


「もしかして、足が痛むのですか? ――さきほど、やはり私が踏んでしまったのでは?」


 違う、と私が言うより先にジュストは動いた。

 俊敏に屈むと、私の靴に触る。


「やっ、痛っ……!!」


 思わず声を上げてしまい、反射的に足を引こうとしたが、ジュストが足首をとらえてそうさせない。

 彼は鋼のように力強く私の足を固定したまま、ブーツの紐を手際よく解いていった。

 紐を繰る振動ごとに、痛みが伝わる。


「ぃいいい、痛い……! ジュスト、離して。全然痛くないから」

「言ってることが矛盾してます。痛むなら動かないでください」

「でも、本当に大丈夫だから」

「大丈夫かを、確認します」


 ブーツの紐が緩められ、最大限に履き口を広げられたブーツが脱がされると、ジュストは私の足に触れた。


「さ、触らないで。汚いし、靴下が汗だくでしょう?」

「ファナ様、足のどこが痛みますか?」


 そう言ったジュストの指が私の小指に触れた瞬間。私はのけぞって叫んだ。


「痛いっ!!」

「――小指の骨にヒビが入ったかもしれません。固定します」

「ヒビ? ヒビだなんて」


 ジュストは肩からかけている小さな鞄から、細い筆入れと包帯を取り出し、片膝を突いて膝上に私の右足を載せると、するすると包帯を筆入れごと巻き始める。


「本当にありがとう。あなたってなんでも上手なのね」

「多少の手当は騎士団で学びますから。なにより、私が踏みつけたせいです。女性に怪我を負わせてしまうなんて……騎士団を率いる者として、情けない限りです」


 最後の一文にはとてつもない苦渋が滲んでいた。

 気にしないでほしい。どうせそのブーツに生ごみを突っ込んだのも、我が家だし。


「――そんな、これくらい平気よ。元はと言えば、私が間抜けにも滑り落ちたんだし。それにたかが小指よ」


 笑って見せるとジュストは数回瞬きをしてから、つぶやいた。


「――ファナ様。あなたは本当に、ご令嬢とは思えないほどお強いですね」


 ほぅ、と小さく息を吐くと、ジュストは首を振った。



 上にいる騎士団員に引き上げてもらうと、カリエは包帯を巻かれた私の足を見て蒼白になった。


「お嬢様、その足はいかがされたのです?」


 答えに窮していると、後から素晴らしい速度で登ってきたジュストが代わりに口を開いた。


「私がブーツで踏んでお怪我をさせてしまいました。恐らく骨にヒビが入っています。――申し訳ありません」


 するとカリエは大仰に驚いた。


「ヒビが! なんてこと……!」

「なんとか歩けそうだから、心配しないで」

「そんな呑気な。足の形が曲がってしまったら、どうしましょう。まだ嫁がれる前の、大事な御身に!」


 すぐ近くで自分の腰回りのロープを束ね直していたジュストの顔が、ショックを受けてさっと白くなる。でも流石にカリエの騒ぎ方は、彼に失礼だ。


「カリエ。ジュストが降りてきてくれなかったら、きっとヒビでは済まなかったわ。彼は私を助けてくれた、命の恩人よ」

「は、はい。まずはお礼申し上げるべきでした。騎士団長様、この度はまことにありがとうございました」


 慌ててカリエがジュストに向き直り、頭を下げる。


 遊歩道出口には、私を病院に連れて行くためにカリエが呼んだ馬車が既に来ていた。

 ジュスト達に別れを告げ、馬車に乗り込む。

 何度もお礼を言いながら車窓から手を振り、近衛騎士達を置いて先にその場を離れる。

 王太子と会えなかったばかりか、怪我までしてしまった。


「一体何のためにサバス高原に来たのかしら。お母様が知ったら、どんなに怒るか」


 足の固定のためにジュストの筆入れを借りたままだということに気がついたのは、馬車が走り始めた後だった。

 後で治療が済んだら、筆入れを返さなければ。



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