伯爵家の人々
私と目が合うと、セルマは秘密を明かすように言った。
「伯爵家は、月光花を原料に麻酔薬を作って、家業を急成長させたのよ。今はもう栽培していないのだけれど、私の夫が子供の頃は、この屋敷の庭にたくさん植えられていたの」
「では、開花時期になると夜はさぞ綺麗だったでしょうね」
思わず想像して尋ねたが、セルマは首を左右に振った。
「いいえ。茎を使うだけだったので、ほぼ開花をさせることはなかったのよ。だってとても手がかかる花でしょう? でもある年、いろんな偶然が重なって一度だけ開花したのよ」
するとそこにパトリシアが待ちきれない、といった口調で口を挟んだ。
「その晩にちょうどおばあ様とおじい様が、出会ったのでしょう?」
「そうなの。私の父と伯爵が懇意で、遊びに来ていた子供の私は、庭でかくれんぼをしていたの」
セルマの夫と彼女は、月光花畑で遊んでいるうちに、一輪だけ開花して光を放っている花を見つけたのだという。
摘むと光らなくなるとは知らず、二人は引っこ抜いてしまった。
花は見る間に輝きを失ったが、セルマの夫は彼女を見つめて言った。
「花は光らなくなったけど、僕たちが今日見たことをずっと覚えていればいいんじゃないかな」と。
「一人だと忘れちゃうけど、二人一緒なら、大丈夫ね。忘れそうになったら、私がまた話してあげるね」
セルマは無邪気にそう言った。
お互い、それが初恋だったのだという。
「素敵な出会いですね。憧れます。本当に、月光花をもう一度見ていただきたかったです!」
心からそういうと、セルマは目がシワの中に隠れてしまうほど、にっこりと笑った。
「夫が亡くなってもう長いので、私の記憶の中の花も薄れていたのよ。それが、ジュストが描いてくれた絵のおかげで、再び蘇って本当に嬉しかったわ」
すると隣で話を聞いていた王太子も、にっこりと笑いながら言った。
「さすがは名門、レシュタット公爵家の令嬢だね。パーティは皆をどう喜ばせるかが肝要だけれど、皆にとって、記憶に残る素晴らしいパーティだったようだね」
「殿下が喜んでくださるなら、また咲かせます!」
「本当かい? 可愛いことを言ってくれるね」
陽気な笑顔を見せる王太子とは対照的に、ジュストは苦笑して言った。
「ファナ様。安請け合いは後で後悔なさいますよ」
月光花の世話の大変さを思えばまさにその通りなので、私自身も含めて皆で爆笑してしまった。
やがて料理が運ばれてくると、他愛無いおしゃべりをした。
王太子は最近流行のオペラについて語って聞かせてくれ、話し上手で陽気な彼と食事をするのはとても楽しかった。
パトリシアはオペラ歌手の歌真似も上手く、聴き入ってしまう。彼女は時折歌手を大袈裟に物真似して、戯けた調子で歌ったので、その歌手を知らなくても、涙が出るほど笑ってしまう。
こんなに他愛無く笑ったのは、時代を逆行してから初めてかもしれない。
ジュストの家族は二人とも私を気遣ってくれて、居心地良く食事を摂ることができた。
カリエの言う敵状視察どころか、純粋に晩餐会を楽しんでしまう。
パトリシアと私はどうやら笑いのツボが合うらしく、笑うタイミングが同じなので、無意識に視線を通わせて一緒に笑ってしまった。
パトリシアは気取ったところが全くなく、よく笑った。年齢も同じせいか、興味のある話題も似ていた。
(これは、まずいわ。ライバルどころか、気が合うかもしれない……。敵対心どころか、もっと仲良くなりたいなんて思っちゃう)
困ったことに、デザートのパイを食べ終わる頃には、私はすっかりパトリシアを気に入ってしまっていた。
いい子すぎて、嫌いになる理由がない。
乗り込む時に「負けるものか」なんて黒い気持ちを多少なりとも抱いていた私は、なんて性格が悪いんだろう、と恥ずかしくなってしまうほどだ。
食事が済むと、王太子とジュストが剣の練習をするというので、見学をさせてもらおうとパトリシアと一緒に中庭に出た。
レンガのタイルが敷かれた中庭は、中央に水盤が置かれていて、スズメが水を飲みにきて縁に止まっていた。王太子とジュストが剣を抜いて中庭に出るなり、スズメが水飛沫をあげて飛び立つ。
壁沿いにはベンチが置かれていたので、私とパトリシアはそこに座った。
水盤の真ん中はランプを載せられるようになっていて、ジュストがそこにランプを置くと、水に灯りが反射して、辺りがかなり明るくなる。
二人は互いに少し距離をとってから向き合うと、剣を向け合った。
「どっちが勝つと思う?」
パトリシアに尋ねると、彼女は小首を傾げた。
「いつも、殿下が勝つんです」
そう言った後でパトリシアは声を落とした。
「でも、兄はわざと負けて差し上げているんです。本気を出したら、軍学校時代は兄には誰も勝てなかったと聞いていますもの」
その口ぶりは、心底誇らしげだ。
「ファナ様は、殿下に勝ってほしいでしょう?」
「ファナって呼んで」
「そんな。いいのかしら。――じゃ、呼んでみるわね。ファナ」
私たちは何がおかしいのかわからないけれど、二人でくすくすと笑ってしまった。
いつまでも私を様づけにするジュストとの違いが面白い。
カンカン、と剣を打ちつけ合う音が中庭に響き、私たちは二人の稽古に集中した。
二人を目で追いながら、パトリシアが呟く。
「この国の国王は、強くないといけないわ。北のスヴェン王国が、常に我が国を狙っているのだもの」
「国境では昔から衝突が絶えないものね」
スヴェン王国。
北に位置する彼の国は、レシュタット家没落と深い関わりがある。
まだファナの生きるいま、このディーン王国は大国と言っていい面積を誇る。
だが実は近いうちに、我が国とスヴェン王国の戦争が始まるのだ。残念ながら、史実ではディーン王国が惨敗する。
講和条約の結果、我が国はスヴェンに北部の領土をガッツリ奪われるのだが、その地こそ、まるごとレシュタット公爵家の領地だった。
レシュタット家は、この先こうして領地の大半を失うことになる。ファナの弟・エルガーの一人息子、ブライアンが成人する頃には、財産もほぼ散逸していたという。
割譲の憂き目に遭うのは、ファナに泥をかけられた王家の恨みというほかない。これが、王家に恥をかかせた無礼な娘を持った家の末路だったのだろう。
(でも、そんなことはさせない)
「スヴェン王国に好き勝手には、させないわ」
万感の思いを込めて私がそう呟くと、パトリシアはうんうんと頷いた。
「レシュタット公爵家の領地の多くは、北部にあるものね。最近は危なくなって、領地のお屋敷にはほとんど行かれてないのでしょう?」
そうなのだ。
ファナが子どもの頃は、夏を北にある涼しい領地で過ごしていたらしいが、近年は王都のお屋敷から出ることがない。
せっかくファナになっても、私はあの川を跨ぐ優雅なお屋敷に当分行けそうもない。
「お父様は公爵領に私兵をたくさん置いているけれど、いざ何かあれば、十分な兵力ではないわ。豊かな穀倉地帯だけれど、それだけに守るのに苦労しているみたい」
激しい剣のやり合いに、火花が散る。
ジュストの方が長身だったが、王太子の方が上背に厚みがあるように見える。
素人目には、どちらが上手なのかは分からない。お互い、同じくらい攻撃と防御をしているように見える。
だが時間が経つと、やがて違いがわかるようになった。
王太子は激しい動きに苦しくなったのか、肩で息をしていたが、ジュストは全く変わった様子がない。彼は立つ位置もほとんど動かず、徹底して最小限の動作しかしていない。
だが王太子の動きは徐々に大きくなり、大胆になっていく。遠慮がちなジュストの剣では、勝ち目などあるはずもない。
あっ、とパトリシアが声を上げたのとほとんど同時に、王太子の剣がジュストの剣による防御を超え、ジュストの胸元に迫った。
もちろん王太子は本気でジュストを突くことなどなく、ジュストが両手を上げて降参を表明した。
王太子の口元に、不敵な笑みが広がる。
「殿下、さすがですわ!」
パトリシアが拍手を送り、王太子を讃える。
王太子はありがとうと答えながら、さわやかに片手を振った。
パトリシアは拍手を終えると、小さく肩をすくめて私に秘密を打ち明けるように囁いた。
「殿下を負かすわけにはいかないものね。お兄様と懇意にしてくださって光栄だけれど、我が家も失礼があってはいけないから、結構気を遣って大変なのよ」
その素直な様子に、拍子抜けしてしまう。
(これじゃ、戦意がなくなっちゃう。何ていうか、セルマおばあちゃんはかわいいし、パトリシアも完全に良い子だわ)
王太子妃の座を争うアーヴィング家が、こんなに素敵な一家だなんて、意外だった。
少なくともレシュタット公爵家よりも、よほどあたたかな雰囲気があり、羨ましいくらいかもしれない。




