一族の汚点・令嬢ファナ
「悪いことは、全部ファナのせい」
これが、代々我がレシュタット家の人々の口癖だった。
祖父の事業がうまくいかなかった時も。
狭い家の中にネズミが出た時も。
父が私たちを捨てて出ていき、働き過ぎた母が過労で亡くなった時も。
とにかく、降りかかった災難や不幸は全てファナのせいにされた。
ファナ・レシュタット公爵令嬢。
彼女は二百年前に実在した、我がレシュタット家の一族の一人であり、同時に疫病神だったのだ。
二百年前。
今の貧乏我が家からは想像ができないけれど、レシュタット家はディーン王国きっての名家だった。
ピカピカ貴族のレシュタット家の凋落は、後に悪女と呼ばれる当時の公爵家長女・ファナによって引き起こされた。
私から遡ること、十世代前。
私の先祖エルガー・レシュタットの姉であるファナは、王太子を狙うライバルの令嬢達をあの手この手で蹴り落とし、その美貌とナイスバディで王太子の一本釣りに成功した。
つまり、王太子の婚約者として選ばれた。当時のレシュタット一族は、朝から晩まで祝いの宴を開き、飲めや歌えやの大喜びをしたという。
ところがファナは婚約発表の前日に、何を思ったか置き手紙を残して突如姿をくらましたらしい。つまり、トンズラした。
現代まで語り継がれてきた諸説によると――自由のない王室に入るのが急に嫌になった、とか。もしくは王太子が不細工だったから、手に入れたものの初夜を過ごす気がなくなった、とか。
はたまた、実は恨みを買った敵に抹殺されたという説も。
真相は今となっては分かりようもないが、とにかく、ファナは王太子妃としての未来を放棄したのだ。かくして、レシュタット家は莫大な慰謝料を王家に支払った。
以後、彼女が表舞台に姿を現すことはなかったという。
トンズラした後のファナの名は、一族の伝記にも見つけることはできない。とにかく彼女は、あっさりザックリ消えた。
代わりに残ったのは、王家に泥を塗ったという事実だった。
ファナの父であるレシュタット公爵が心痛のまま数年後に他界すると、公爵位はファナの弟のエルガーに引き継がれた。
この頃から、レシュタット家は坂道を転がり落ちていく。ドスン、ドスンと。
私が物心ついた頃から、家族みんなが一度は口にしたものだ。
「うちが貧乏なのは、ファナのせい。昔は今をときめく公爵家だったのに」と。
ファナ・レシュタット。
とにかく彼女はレシュタット家から二百年間恨まれ続け、そして二百年経った今でも、深く恨まれていた。一族の没落を招いた犯人として。
18歳の私、アリーラ・レシュタットはこの日、岐路に立たされていた。
書類の入った大きな茶封筒を胸に抱えたまま、居間の古ぼけたソファの上で何度も溜め息をついてしまう。
「どうしたんだい? 溜め息ばかりついて」
祖母が紅茶を淹れたカップを両手に持ち、ソファの前にあるローテーブルに置く。
琥珀色の紅茶からは美味しそうな香りが上っているが、今は飲む気になれない。
「私、やっぱり大学に進学するのはやめて、働こうかと思って。おじいちゃんの残した借金も、まだたくさん残ってるし」
「突然何を言うの。あんなに一生懸命勉強して、奨学金を勝ち取って大学に合格したのに。働き始めるのが遅くなっても、大卒の方がお給料がいいから、絶対進学するんじゃなかったの? 借金のことを、今考えるのはやめなさい」
「で、でも……やっぱり進学するとその分働ける時間が短かくなるし……」
「いざ入学手続きをするとなると、怖気付いたんだね。お前が必死に工面したアルバイト代だってあるんだから、四年の学生生活くらい、なんとかなるよ。入学金を払ってきなさい」
「そうなんだけど、実は大家さんが来月からアパートの家賃を上げると言ってるの」
窓を閉めていてもカーテンが揺れるような古い建物だし、居間の他には小さな部屋が一つついているだけの、つつましいアパートだ。ちなみにネズミという、はた迷惑な同居者たちもいる。
祖母との二人暮らしはギリギリの生活なのに、家賃が上がったら生活できなくなってしまう。それだけは避けたい。
「あんなに一生懸命勉強して受かった大学じゃないの。入学金を払わないと合格が取り消されてしまうよ」
祖母は心配して私の背中を摩ってくれた。
「アリーラ。お前には小さい頃から本当に苦労をかけたからね。でももっと自分のことを大事にしなくちゃ。――ちゃんと入学金を払ってくるんだよ」
私を説得すると、祖母はお決まりの愚痴をぽつりと呟いた。
「まったく、これも全部、ファナのせいだねぇ」と。
翌日、私は入学金を持ったまま、国で一番大きなバンカ銀行の前をうろうろした。
警備員に不審者だと思われたのかずっと睨まれていたが、それどころじゃなかった。
一時間も悩んだ挙げ句、それでもやはり入学する決意ができなくて、家に帰った。
祖母は最近胸を患っており、咳が頻繁に出ている。
本当は医者に行って診てもらってほしいのだが、祖母は無駄遣いをしたくない、と言ってなかなか行かなかった。
病院に行くことは、ちっとも無駄遣いじゃないのに。
(入学を辞退するかは、もう少し考えよう。それよりも今日はおばあちゃんに病院に行ってもらおう)
祖母に食べさせるため、途中でりんごを買ってから帰宅した。
書類を抱えたまま。
――そして私の決意は遅過ぎた。
玄関を通って居間に入ると、祖母はソファに横になり、胸を押さえて苦しそうにうめいていたのだ。
カバンを放り出して、祖母に駆け寄る。開いたカバンからりんごがゴロゴロと転がり出るが、拾うゆとりなどない。
「おばあちゃん、どうしたの!? どこか痛むの?」
祖母は額に脂汗を滲ませながら、なぜか微笑んだ。
「アリーラ。おばあちゃんはね、決めたよ」
「決めたって、何を?」
急いで時計を見る。
午後三時だから、まだ病院はやっている。
大家さんに馬車を借りて、急いで病院に連れて行かないと…!
立ちあがろうとする私の手首を、祖母の手が掴む。祖母は震える手で近くのローテーブルを指し示した。
「テーブルに置いた日記帳を、取っておくれ」
「日記……って、コレ?」
ローテーブルの上には私が見たことがない、やけに古びた本が載っている。赤色の革の背表紙は所々剥げ、銀色のインクで書かれた「日記帳」という文字も掠れている。
手渡すと祖母は日記帳をしっかりと両腕に抱え、ソファの手すりに頭をもたれさせて深い溜め息をついた。
「これはね、ファナの日記だよ」
「ファナって、昔のレシュタット公爵家のファナ・レシュタットのこと? そんな年代ものの日記がうちにあるなんて」
公爵家時代の財産は何ひとつ残されていないのに。
どうせなら小さな指輪とか、アクセサリーを残してくれれば良かったのに。そうすれば質屋にでも持っていけば、多少の金になるだろう。それなのに、日記って、なんだ。これだからファナはファナなのだ。
痰が絡んで苦しそうな祖母の体を起こし、呼吸をしやすくさせようと背中に腕を入れてソファの背もたれに寄りかからせると、祖母は続けた。
「もとはご先祖様のエルガーが、ファナにプレゼントした日記帳だったらしいよ。十七歳の栄華を極めた贅沢な一年間の記録よ。あんまりにも優雅だから目に毒で、お前には見せなかったけれど」
「そんなのがあったなんて、知らなかった。――ねぇ、おばあちゃん。それより病院に行こう」
祖母は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「お前は偉いよ。青果店で働きながら学校に行って、毎日必死に勉強して……。本当に、苦労をかけたね」
「そんなことない。おばあちゃんがそばにいてくれるから、頑張れるんだよ」
祖母は悲しげに微笑んだ。
「おばあちゃんね、今まで黙っていたけど、実は去年お医者さんから余命一年って言われてるんだよ」
「うそ、うそよ」
「お前一人を、借金だらけのこの家にとてもだけど残してはいけないから。毎日教会に行って、もっと生きたいとお祈りしたけど……、だめそうだね」
今祖母に必要なのは神様ではなく、医者だ。
だが祖母は赤い日記帳を撫でると言った。
「こうなったら神様の所に行く前に、アホのファナを説得してくるよ。間違った選択をして一族を苦しめるな、って」
何を言っているのか、わからない。
意識が朦朧として、おかしくなっているのかもしれない。
祖母は視線を宙にさまよわせ、「馬鹿なファナ」と何度も繰り返し呟いた。
「しっかりして。何言ってるの、おばあちゃん」
「ただでなんて、死んでやるもんか。かわいい孫のために、やってやるよ」
意識が混濁しているのだろうか。
でも、口調はやけにしっかりしている。
「神様の下に召される前に、ちょいとファナを叱りつけてくるよ。ファナが結婚するはずだったイサーク王は、子供に恵まれなかったけど、もしファナが王妃になっていれば、それだけでも我が家の繁栄は不動のものになっていたはずだからね」
「おばあちゃん、ファナの話はいいよ。病院に行けば絶対治るから! それにそもそもファナは、二百年も前の人だよ」
「そうさ。王太子様を捨てた、アホのファナ。我が家の困窮の元凶だよ。ファナが妃になっていれば、うちは今も大貴族として裕福に暮らしてたんだから」
今は隣国スヴェンの南の端にある、レシュタット城。
川を跨いで建つ白亜の優美な城はとても大きいのだという。自分の先祖がかつてそこに、主として暮らしていたなんて、信じられない。
お城に住み、贅を尽くして生きた昔のレシュタットの人々の日々なんて、今や想像することもできない。
「二百年も前の人をどう説得するの。何を言ってるの。ねぇ、大家さんに頼んで馬車を呼んでくるから、少し…」
祖母のもとを離れ、外に出るためにドアに向かい、ふと振り返った直後。
祖母がハッと目を見開き、動きが止まった。
「――おばあちゃん……?」
春のあたたかな生命力を思わせる、濃い緑色の祖母の目。その瞳が、ゆっくりと閉じられていく。
「おばあちゃん!!」
いやだ、最後に残された唯一の肉親まで、失いたくない。
祖母亡き後、私ひとりではとても生きていけない。
孤独への恐怖から、怖くなって両手を伸ばして祖母のもとに向かう。
(こんなの酷すぎる。おばあちゃんまで失うなんて――!)
おかしなことに、伸ばした両腕に祖母の温もりを感じる前に、突然室内が暗くなっていった。まるで時を飛ばして、夜がふけていくように。
私の腕は祖母もソファにも当たることはなく、宙をかいた。床につくはずだった膝もいつまでも床に当たらず、かがもうと膝を折っていた私は、そのまま下に転がり落ちた。
「アリーラ!」と祖母が私を呼ぶ声が聞こえた気がした。
ゴロゴロゴロゴロ、と全身を硬い何かに打ち付けながら、回転していく。
「痛っ!!」
(居間の床に穴が空いたの? 何が起きてるの!?)
まさかアパートの下の階に転がり落ちているのだろうか。
最後に一際強く腰を打つと、私の体は転がり落ちるのをやめた。