8 一輪の庭跡
望月先生と月を見たあの日から十年が経った。
僕は大学生になり、五月の連休に入ってすぐに帰省した。そして、今、あの神社に居る。
花蘇芳、ハナミズキと足早に通り過ぎて、色とりどりの牡丹も通り過ぎる。曲がり角で山吹の花を撫でながら、境内へ入る。
ツツジの生垣の奥の方に、白髪の望月先生が立っていた。
僕は玉石を踏んで、ツツジの生垣に入り込み、先生の隣に立った。
今ではすっかり望月先生よりも僕の方が背が高くなり、タバコの煙を手で払う仕草を大袈裟にしてみせた。
「タバコの匂いがつきますよ。もう開場時間ですよ」
先生は、眼鏡と一緒に白いものだけになった眉をあげてみせると、少し目を閉じてタバコを口にくわえた。
口元の皺を寄せ、すう、と音を立ててタバコを吸い切ると、ゆっくりと煙を吐き出し、携帯タイプの灰皿にぐりぐりと押し付けた。
「まだ客は来ていないよ。それにタバコを吸っているのにわざわざ寄ってきたのは、君だ」
面倒くさそうに先生は、ぱちんと蓋をして、携帯タイプの灰皿をおしりのポケットに仕舞った。
あの夜の翌々日、紫の花を一輪持った僕は、先生とまた会う約束を取り付け、神社での展示会のたびに遊びに来ていた。
毎年の神社での展示会の他に、直接に先生の大学の展示会にもお父さんたちと一緒に行ったりしていた。そうやって、何年も先生と会っているうちに、僕に絵を描くことへの欲が生まれた。
そこで、今年から望月先生が教授を務める大学に入り、絵の勉強をしている。将来的には、絵で食べていくつもりだ。大変なのは分かっているけれど、もう僕にとって絵を描くことと、生きることの区別がつきそうにもなかった。
それに、望月先生の絵を見て、敵わないと思いながら、この人よりももっとすごい絵を描きあげたいという欲も、いつから抱いているのか分からないくらいに、僕の中でずっと存在していた。
「君も帰省してるんだから、ゆっくりご家族と過ごせばいい」
心底面倒くさそうな顔をしながら、望月先生が言った。
「妹も九歳になるので、もう僕とはあまり遊んでくれませんよ。不在の兄より近くの友達です。それに弟も高校生だから、帰ってもすっかり邪魔者扱いです。
そして、来なかったら来なかったで、望月先生が休み明けに嬉々として、クレームをつけようとするのはわかってます」
「なんだ、わかってたのか」
望月先生はそう言って口元のほうれい線の皺を深くして、にやりと笑ってみせた。
こんな感じで、一年生の僕が教授の望月先生と話していると、最初は周りもぎょっとしていたが、先生の研究室に所属している人たちは、僕と入学前からの関わりを持っている人たちばかりなので、この応酬に慣れていた。その結果、だんだんと他の人たちもそういうものなのだなと、容認していったようだった。その代わりに、色々と押し付けられる雑用が増えたが。
「あの夜には気がつかなかったけれど、ツツジが咲いていたんですね」
僕は咲き乱れるツツジのひとつを取り、撫でながら言った。
あの満月の夜、家出の不安と空腹感で、花の存在に全く気がつかなかった。
花の香りに気がついた時、僕はようやくほっとしていたのだ。
「あの頃は可愛かったのになぁ」
「今でも可愛い教え子じゃないですか。教授」
「…そうかなぁ?」
望月先生は、もう一本タバコを吸おうとしていたので、僕は視線で止めた。
先生は、口をへの字にして僕を見た。しかし、急に何か閃いたように、眼鏡の奥の目を大きく開くと、今度は口元を歪め、こう言った。
「君、好きな子が出来たら、一輪を贈るのかい?」
その手には乗らない。
十年前に望月先生へ渡した一輪以来、僕は月を見ては願い事を考え、一輪を添えてお願い事を叶えるようになった。
それが中学生になって、さすがに花を一輪買うことが気恥ずかしくなり、ただ満月を眺めては、僕の心の中にある僕自身の願い事と、他人からの叶えて欲しい願い事を分けて考える習慣だけは続けるようにしていた。
その結果が絵を描くということになっているのだが、発案者で、僕に教え込んだその人である望月先生は、僕が一輪の願い事を続けていたことを知った時、腹を抱えて笑っていた。中学生になったばかりの当時の僕が深く傷付いた事柄を望月先生は時々こうやってからかってくる。
「願い事の一輪はもうしてません」
僕が冷たく返すと、先生は口元を緩めたまま、喉元の皺を伸ばすように顎を少しあげていった。
「それなら、花を贈ったんだな」
「なんの話ですか」
「去年、君にも手伝ってもらった展示会場に、顔を出しに行ったんだ。
この連休明けまでの期間で、友人が展示をすると知っていたからね。
そこの娘さんが額装について聞いてきたんだ」
僕はそこまで聞いて、口をきつく結ぶと、徐々に耳が熱くなっていくのを感じた。
「此花酒造の展示場は、いい場所だよね。ご家族もいい人たちだし。
娘さんも可愛らしい。
君、彼女に一輪、花の絵を描いて贈っただろう?」
僕は返事をする事もできずに、真っ赤になった顔を両手で覆ってしまった。
これでは肯定しているも同然だ。
それでも僕は顔を上げられなかった。
久しぶりに花屋で一輪買い求めた時の恥ずかしさの比じゃない。なんだこれ。親に初めて彼女がバレた時より恥ずかしい。
「きっと君ならそのものの一輪より、君の手で描いた一輪を贈るだろうなと思ったよ」
ふふふと笑う望月先生は上機嫌だった。
「大丈夫、絵は見せて貰ってないし、誰から貰ったのかも聞いていない。何の花かは分からないから、花言葉の意味も全然知らない。ただ、水彩やアクリル画材で描かれた紙の絵なら、マット付きで額装してもらうといいと、教えておいたよ」
「ありがとう、ございます」
僕は顔を両手で覆ったまま、首筋まで真っ赤にして立ち尽くしてしまった。
それから、望月先生がタバコを二本吸い終わった後、僕と望月先生は境内を出て、展示会場である神社の参集殿へ向かって歩き出した。
「まあ、担当教官として教えておくよ」
「はい」
「女性は花を喜ぶよ」
「…売れそうな作品のモチーフとして、ですか?」
「いや、リアルな話として」
「それは…」
「花束を渡す時に顔を見てごらん。それで分かるよ」
「先生は贈ったことがあるんですか?」
「毎年、結婚記念日と誕生日には贈っているかな」
「すごいですね」
僕は久しぶりに望月先生を心から尊敬した。
そのまま玄関の引き戸を開けようとした先生は、足を止めて振り返ると僕の目を見て言った。
「絵のことも、彼女のことも、もっと欲を持って生きていいよ。君はいい子すぎる。もっと欲張りでいいんだ。その欲を抱えたまま、望むことを止めずにいれば、生きて進む力が出てくる。願い事を叶えられるのは、自分の願い事を持った人だけだ」
まあ、教え子の願い事が叶うことを祈るのがわたしの役目だがね。
望月先生は、眼鏡の奥で三日月のような形に皺の多くなった目を緩ませると、僕の肩を叩いてから、玄関の引き戸を開けて中へ入って行った。