7 一輪の獲得
お母さんの病院へ行く日になった。
今日は、祝日でお父さんも家に居る。
朝、起きた時からずっと雨が降っていて、朝ごはんを食べ終わってもずっと雨は降り続いていた。
お母さんの病院へ行くのは、面会時間が決まっているから、午後からじゃないとだめだとお父さんが言っていたので、病院のほかに行かないといけない場所には、お昼ご飯の前に行くことにした。
僕はお花屋さんが始まる時間まで待って、お父さんからお金の入ったポーチを受け取ると、長靴を履いて、緑色の傘をさして雨の中出掛けた。
僕は弟に破かれた、しわしわになった絵をセロハンテープで一生懸命に繋ぎ合わせた。そして、その絵を今日、お母さんに持って行くつもりだ。破けてしまった絵は、元通りには戻らないけれど、透明なセロハンテープで繋ぎ合わせたそれは、しわしわのまま、ちゃんと僕の絵として蘇った。その絵の他に、お見舞いとして、一輪を用意して行くのだ。
お花屋さんは、学校帰りに通りすぎるだけで、場所もお店の人も知っているけれど、店の中に入ったことは一度もなかった。
雨音が傘の中いっぱいに詰まって、どきどきとした僕の中の音と一緒になってとてもうるさかった。
でも、僕は花を手に入れるんだ。
ただの僕のわがままで、ただの願い事。
ぎゅっ、と傘の柄を右手で握って、濡れないように左手で胸元にあてたお金の入ったポーチを持って、僕はお花屋さんの前に着いた。
ちょうどお花屋さんから、ジーンズをはいたお兄さんが、白い紙に包まれた花を持って出てきた。お店の入り口にある傘立てから黒い傘を取り出し、ぽんと音を立てて広げるとそのまま、お店から離れて行った。
女の人ばかりじゃないぞ。お兄さんも買っていたぞ。大丈夫、大丈夫と僕はさっきのお兄さんが使っていた傘立てに、閉じた緑色の傘を入れてから、お店の中に入って行った。
入った途端、むせ返るような花の香りに包まれた。
僕は胸元にポーチを抱きしめたまま、きょろきょろとお店の中のお花を見回した。
たくさん、ある。
僕はどの花がいいのかわからなくなり、すっかり途方にくれてしまった。
頭を垂れて、じっと立っているとお花屋さんのお姉さんが声を掛けてくれた。
「こんにちは。贈り物ですか?」
お姉さんは、にっこりとした顔で僕に目線を合わせるため、少ししゃがんで、また同じように言った。
「こんにちは」
僕はどうしていいかわからないまま、お姉さんに目を合わせた。
「あ、あの」
「女の子にあげるのかな?どういう花がいいかな?」
「あ、あの!お、お母さんに花を一本渡したいんです!」
僕は顔を真っ赤にして、お姉さんに伝えた。
そう、先ず僕は、お母さんのために、一輪を用意するんだ。
間違えてしまわないように、ちゃんとした花をお母さんに用意するんだ。
「あら、それじゃあ、母の日のカーネーションかな?」
咄嗟に僕は答えた。
「お月様の花ってありますか?」
一昨日の夜に望月先生と見た満月。
あの光景が頭をよぎった。
「それなら、このカーネーションはどうかな?ムーンダストっていうの」
「ムーンダスト?」
「そうムーンはお月様のこと。それで、このお花の花言葉は、『永遠の幸福』なの。お花を渡す人の幸せを願う花よ」
お姉さんがそう言って見せてくれた花は、僕の知っているカーネーションとは少し違っていた。色の濃い薄いの違いはあるけれど、僕の見知っているピンクや赤のカーネーションとは、まるで色そのものが違う。
「……紫色のお花?」
「うーん、一応青いカーネーションではあるんだけれど。紫、かな、これは」
お姉さんはちょっと困ったように笑った。
でも、これは月の花で、願い事の花だ。特別な花なのだ。
それなら、僕はこれがいい。
「それじゃあ、一輪ずつ、それをふたつ、買えませんか?」
「ふたつ?お母さんの他にあげる人がいるの?」
僕はもっと顔が真っ赤になって、
「そ、そうですけど」
と答えてから、くちびるをぎゅっと噛んだ。
花屋のお姉さんは、目を細くしてちょっと口元をもごもごさせた後に、ニコッと笑って、
「ムーンダストを一輪ずつをふたつですね。ご注文承りました」
と言った。
それから、色の濃いものと薄いものと少しずつ違っている中から、僕は濃い紫の花をそれぞれ包むようにお願いした。深い紫色の花びらは、薄い紫色の花よりも影を多く見せて、とても特別に見えたから。あの月明かりの夜に見た影も含めた空気が詰まっているようで、僕は強く心が惹かれた。
お姉さんから渡された花は、それぞれ透明なフィルムで軽く包まれていて、やっぱり青というより、紫の色をしたカーネーションだと思った。でも、花びらがふわふわして光を閉じ込めた影の部分もとてもキレイで、他のカーネーションと違った色で、とてもとても特別な花として、この花はぴったりなんじゃないかな、と僕はうきうきした。
僕はお金をポーチから出して払うと、今度はポーチの他に花も一緒に胸元に当てて、濡れないように落とさないように、慎重に持ってから、お姉さんに「ありがとう」と声を掛けてからお店を出た。
外に出た瞬間、道路の風が僕の方へ吹き、胸元の花の香りがふわりと僕の鼻を撫でた。学校や庭先で嗅いだことのある強い花の香りと違って、優しいほのかな香りだった。
落とさないように気をつけながら、傘立てから緑色の傘を取り出し、ぽんっと傘を広げる。
まだ雨は降り続けていて、通り過ぎる車が水溜りを跳ね上げるけれども、僕は胸元に当てた花が暖かいものでもあるかのように、とてもふわふわとした気持ちで歩き続けた。
そして、抜け道を通って、辿り着いた先は、一昨日に来た神社。
僕は、お母さんに会いに行く前に、今日、ここに来ている望月先生に花を渡しに来た。
願い事が叶う、僕は特別な存在だと、月に照らされた神社の境内で話してくれた望月先生。
そこは先生の教えてくれた一輪の庭。
すべてが満ちていて、欠けることなく、すべてが揃っていた。
だから、僕は欲を持ったのだ。
僕の願い事を叶えたい。
それを教えてくれた望月先生にも願い事を持ってしまった。
その願い事を叶えたいから、僕は満月の終わってしまった今日、一輪を用意して、先生に会いにきた。
「また僕と会って話をして下さい」とお願いするために。
僕はさっきのお花屋さんよりももっとドキドキとしながら、神社の石の鳥居を潜った。