6 月夜の成就
その後、宮司さん夫妻と、望月先生にお礼を言ってから、僕は葉書を握りしめて、迎えに来たお父さんの車に向かった。
車の上の遥か上に煌々とした月があり、大きさはさらに小さくなりながら、光を増しているように思えた。
家を出た時は、低い位置にあって大きかった月は、僕が外に出ている間にどんどん高くなって小さくなっていた。
ほんの少しの間だと思ったのに。
僕は月に背を向けて家を出て、怖くなって月に向かって逃げて、そして、望月先生と会った。
結局、家出といえるほどの家出ではなかったけれど、月を見上げると、その高さに変わるだけの時間を僕はひとりで旅をしたように思えた。
車のそばには、お父さんがしょんぼりと立っていた。
怒られると思っていた僕は、予想外のお父さんの顔を見て、とりあえず謝ることにした。
「弟を叩いて、お父さんをばかって言って、ごめんなさい」
お父さんは、眼鏡を指で直すと、顔を傾けて、
「いや、お父さんも話を聞かずに怒って悪かった」
と、僕に謝った。
僕はびっくりした。
お父さんが、僕に謝った。
僕は目を大きく開いて、お母さんのカーディガンと葉書をそれぞれの手で、ぎゅうっと握って、お父さんの顔を見つめた。
お父さんは、ほとほと困ったような顔で、
「寒いだろ。風邪をひくから、車に乗ろう」
と言った。
エンジンをかけずに、車の中でお父さんとふたりきりで話をした。
どうやら、お父さんは宮司さんに怒られたらしい。
このひと月、神社に遊びに来ている友達の中に、僕が入っていないことに気がついていたらしく、どうして僕が遊びに来ていなかったのか、お父さんに聞いたらしい。
新学期が始まってから、僕は入院したお母さんが家に居ないから、ちゃんと留守番をするようにというお父さんの言葉を素直に守り、遊びに出かけていなかった。学校から帰ったら、お父さんが帰ってくるまで、家で宿題をしたり、図書館から借りてきた本を読んだり、ゲームをして遊んでいた。時々、友達が遊びに来てくれる他は、ずっと家でひとりだった。
お父さんは学校の先生をしているから、僕が学校に行く日は絶対家に居ない。だから、僕がずっと家で留守番をして、森に遊びに行かなくなったことに気がついていなかったらしい。弟は幼稚園で預かり保育をしてもらっているから、お父さんが仕事帰りに迎えに行っていて、最初から僕と一緒に家にはいない。
小学三年生で、森の中を遊び場にする僕が、ずっと家でひとり留守番をしていたら、家出もしたくなる。
宮司さんは、僕の代わりにそうお父さんに言ってくれたらしい。
僕は、お父さんからその話を聞いて、胸の奥が、ぎゅうっと苦しくなって、ぽろぽろと泣いてしまった。
悲しくて泣いたのではなく、心の奥がぎゅうっとしたのと一緒に、温かい何かを与えられたことを感じて、嬉しくて泣いてしまった。悲しいとか悔しいとか、そういう時の他にも、涙は出るんだと、僕はこの時初めて知った。
そして、僕の中のもやもやしたものが、家出をする元になった何か口に出来ない気持ちを宮司さんが言葉にしてくれたことで、「そうか、僕はそういう気持ちだったのか」と、ざわざわした落ち着かない気持ちが、アイロンでしわしわのハンカチをしゅっと蒸気をかけて撫でたように、ほかほかのすっきりした気持ちに変わっていた。
僕は、全然悲しくないのに、ぽろぽろと涙を流し続けて、しばらくの間、お父さんが困った顔をして、車の中をがさがさとティッシュの箱を探して、僕の顔にそのティッシュをあてようか、どうしようかと、うろうろと白いふわふわしたものを手で持っていた。
僕が泣き止むと、今度は僕とお父さんのお腹が同時に車内に鳴り響いたので、そろそろ帰ろうとお父さんが言った。
エンジンをかけて、走り出した車の中で、僕はお父さんにお願いをした。
大丈夫。望月先生が言っていた。僕はあの満月の、一輪の庭にいた、特別な存在なんだ。
僕の願い事はきっと叶う。
だから、僕はためらうことなく、口に出した。
「お父さん、僕、ひとりでお母さんの病院に行って、お母さんと一緒に話をしたり、おやつを食べたりしたい」
だめだと言われるだろうか。
口に出してから、ドキドキしながら待っていると、お父さんは気が抜けた顔をしていた。なんで?
「だめ?」
僕はもう一度念を押すように言うと、お父さんは言った。
「いや、全然大丈夫だ。ひとりでお母さんのところに行きたいんだな。いいよ。わかった」
少し体を座席の方に深く埋めながら、お父さんはハンドルを握り、前を向いたまま、僕に聞いた。
「明後日が祝日で休みだから。病院まではお父さんが連れて行く。帰りはお母さんのスマホで連絡を貰うから」
好きなだけお母さんと話してくればいい。
そうお父さんは付け加えた。少し、寂しそうな、残念そうな。
でも、車を運転できるお父さんは、仕事の帰りとかに寄ることができるから、僕よりも会っているじゃないか。残念そうにされても、僕は譲る気はなかった。
僕はお父さんもお母さんに会いたいんだとしか、この時は思っていなかった。
後で聞いたら、「お願い事があまりにもささやかで、可愛らしいことを言うから、切なくなった」と言われた。そんなの僕が分かるわけがない。
僕はお母さんとの時間を約束してもらったことに、気を強くして、さらにお父さんにお願いを増やして言ってみた。
「それと、お母さんの病院へ行く前に、お花屋さんに行きたい。お店にはひとりで行くから、お金をちょうだい」
お父さんは、前を向いたまま、ゆっくり頷いてくれた。
これで僕の願い事は、全部叶えられそうだ。
お花屋さんのお願いは、今、思って言ったことだけれど、叶えられた。
望月先生の言ったことが、僕を後押しした。
僕のお願い事。
他の人からのお願い事じゃない。
僕のただのわがままで、全然誰の為でもないお願い事。
それを僕は願って、口に出して、叶えてもいいんだと。
僕は、「やった!」という気持ちと、嬉しくてにやにやしてしまう気持ちと、ほっとした気持ちと、その気持ちの陰でほんのちょっとだけ、今まで叶えようとしなかった願い事のことを思って、胸がいっぱいになった。
その後、僕もお父さんも黙ったまま、家まで帰った。