5 望月と真円
タバコを吸い終えると、おじさんは僕を手招きしてから、お月様の浮かぶ方向へ進んでいった。
月はもっと高くなっていた。
神社の知らない道をおじさんの後について、てくてくと歩いていった。
飛び石の上を歩く硬い感触が、芝生の上の柔らかい感触になると、急に花の香りが流れてきた。建物近くから漏れ出る室内灯で、牡丹にハナミズキ、花蘇芳とたくさんの花が見えた。
そのまま、立派な建物の正面に来ると、おじさんは玄関の引き戸を開けて、中に声を掛けた。たぶん、宮司さんがいるのだろう。
よく森に遊びに行った帰りに、友達と神社で集まっていたりすると、八の字の眉をした穏やかな声で話す宮司さんに挨拶をして、みんなで話しかけたりしていた。小学生になってから、ほとんど毎日のように、森と神社で遊んでいたので、すっかり顔見知りになってしまっていた。
宮司さんはおじさんみたいに真っ白な頭じゃないけど、顔がしわしわだから、おじいちゃんくらいの年なんだろうなと思って、お父さんに聞いたけれど、お父さんも宮司さんの年は分からないみたいだった。
そして、思った通り、玄関に僕が顔を出してぴょこんとお辞儀をすると、そこには宮司さんがいて、
「おや、マコトくんじゃないか」
と言った。
僕はお母さんのカーディガンを伸ばしながら、もじもじと宮司さんに挨拶をして、中に入った。
靴を脱ぎ、入ったことのないふかふかの絨毯の部屋へ通された。
その部屋は、学校の教室くらいの大きさで、入り口以外の三面の壁に絵が飾ってあった。
部屋の真ん中にあるテーブルを前にして、椅子に腰掛けると、おじさんが僕の正面に座り、
「今、宮司さんの奥さんが何か食べるものを用意してくれるから、それまで絵を見ているといい。
これが、わたしの絵だよ」
と言った。
僕は空腹も忘れて、おじさんの言葉にびっくりして、周りをきょろきょろと見回した。
「これ、全部おじさんが描いたの?」
「そうだよ。一応、これでも画家で、大学の教授で、先生をしているんだよ」
驚く僕を見て、おじさんはいたずらが成功した子どものように、くつくつと笑っていた。
僕は宮司さんの奥さんが来るまで、おじさんの絵を見るために、部屋をぐるぐると歩き回っていた。
おじさんに、そろそろ食べなさいと言われるまで、夢中になって見ていた。
僕は、ほうじ茶を飲み、お煎餅を食べながらおじさんと話をした。
「おじさん、なんで葉っぱがどの絵にもあるの?」
「あれは君で、わたしだよ。存在していることを描いているんだ」
おじさんの言葉は、分かるような分からないようなことが混ざりながら、神社の境内で話した時と同じく、とんとんとん、と進んでいく。僕には、すべてを理解したとは思えないけれど、おじさんが僕に対して、嘘を選ばずに、本当の事を話そうと言葉を選んでいることだけは、はっきりと分かっていた。だから、僕はおじさんの話を聞いていても難しいとも、面白くないとも思わなかった。
「ねぇ、おじさんはずっとここにいるの?」
「ずっとは居ないねぇ。明後日の祝日からここの展示会が始まるから、その日にまた来るけどね。今日は、展示する絵を持って来たのと、飾る手伝いでいるんだよ」
「じゃあ、また明後日にまた来てもいい?」
「君の家は近いのかい?」
「うん、いっつもあっちの森で遊んで、帰りに神社に寄ってる」
「そう、それならいいかな。今度はちゃんとお父さんに言ってくれば、来てもいいよ」
僕はおじさんにまた会えると分かり、にこにこしながらお煎餅をぱりっと頬張った。それを見ていたおじさんは、少し苦く笑いながら、テーブルの上に置いてあった葉書を一枚僕に渡してきた。
「これが展示会の案内。
おじさんの名前は、望月周平。
ここ。
うん、望月って、満月のことなんだよ」
そう言って指差したところには、確かに月の文字。
「おじさん、だから月に詳しかったんだね!」
僕はさらに、嬉しくなってしまった。
一輪の魔法を教えてくれたおじさんが、満月の人だった。
それだけで全てが僕の特別さを確かなものにしてくれているようだった。
すると、宮司さんが部屋に入ってきて、僕に電話の受話器を見せながら、
「今、円城さんの家に電話してきたよ。お父さんが車で迎えに来てくれるから。それまでここで待っててね」
と言った。そして、宮司さんは、おじさんー望月先生を見て言った。
「望月先生も満月ですけどね。マコトくんも一緒だと思いますよ。
この子は、円城真くん。
日本円の円に、城に、真実の真。
真円が入った名前なんですよ」
宮司さんは、ふふふと笑うと続けた。
「むしろ、真円の方が絵画のモチーフとして意味深いかもしれませんね。存在しない丸。まるで、絵画の中の月のようですね」
僕は宮司さんの言った事が半分わかって、半分わからなかったので、首を傾げていたが、望月先生にとっては面白かったらしく、「それはいいね」と言った後、僕に向き直ってから、
「君の方がわたしより、すごいということだよ」
と言ってから、笑った。
そして、それからすぐにお父さんが迎えに来たらしく、僕は食べきれなかったお煎餅を宮司さんの奥さんの少し青く血管の浮き出た細い手から渡された。
「これはね、神様にお供えされた御神饌のお煎餅なの。だから、これは神様のおやつをちょっと真くんに分けた特別なお煎餅なの。
他の子には内緒ね?」
目元の笑い皺を深くして、にこりと笑った宮司さんの奥さんに、
「ごしんせん?」
聞き慣れない言葉を僕が聞き返すと、少し首を傾げて考えた後、奥さんは片目をきれいにパチリとウインクして言った。
「神様からのプレゼントよ」