4 円月の願い
僕は黙ったまま、おじさんを見て、その後、月を見上げた。
おじさんは、話を続ける。
「君の願い事は、なんだい?
きっと今なら叶うんじゃないかな。
こんなに綺麗な満月を見ているんだもの。言ってごらん」
おじさんは、優しい声で僕に話し掛けるけれども、僕はまだ自分自身の願い事が分からなかった。それに、声を出してしまったら、喉の奥で押し留めている涙を出してしまいそうだったから、僕は黙ったまま、両手でカーディガンの裾を握り、月を見ていた。
僕の願い事は、なんだろうか。
おじさんも僕も、黙ったまま、神社の庭にいるのに、風ひとつ吹かず、水底にいるような静かな時間が過ぎた。
しばらくして、おじさんが身動きをした後に、カチリと小さな音と、息を吐く音が聞こえた。
僕は、ちらりとおじさんの方を見ると、おじさんは口から白い煙を出して、月を見ていた。
右手には小さな赤い光がついたタバコを持っていた。
息を吐ききると、おじさんはぽつりと零した。
「…満月は、他にもいろいろな名前があるんだ。それだけ、たくさんの人にとって、大事なものだってことなんだろうな。
満月のほかに、望月、明月、円月、そして、一輪。
一輪って、聞いたことあるかい?」
僕は、固くなった口元を動かして、おじさんに答えた。
「一輪って、お花を一本ってこと?」
ほかにも学校で触った一輪車も頭をよぎったけれど、たぶん、違うと思って、言わなかった。
おじさんは小さな声で、「リィヒティヒ」と魔法のような言葉を呟くと、右手に持ったタバコの光で、一本の線を下から上へ描いた。
「そう。一輪は、一本の花のことでもある。
だから、今、君の願い事が出なくても、花を一本用意すれば、この夜と同じで、君は願い事を叶えられるよ」
そう言って、口元に右手をあてると、しばらくして手を外し、また白い煙を吐いた。
「焦らなくていいよ。
ただ、君はもう特別な存在なんだ。
だから、自分の願い事を叶えようとして、いいんだよ」
そう言って、僕の目を見て笑ったから、僕は「願い事を言ってもいいんだな」と、安心してしまい、思わず口から出ていた。
「僕の願い事は…」
おじさんは、最後まで僕の言葉を聞くと、眼鏡の奥をまんまるにしてから、ゆっくりと口を横に広げて、黙って肩を揺らして笑っていた。
「それが君の願い事か」
「弟を叩いちゃったし、お父さんにもひどいこと言ったけど。いいのかな、願い事しても」
僕は、僕の願い事を口にした後で、少し不安になった。
おじさんは、緩んだ口もとのまま、タバコを吸うと、煙を吐き、
「悪いことをしたと思ってるなら、それも含めて願えばいいんだよ。
一度の失敗もしてはいけないなんて、そんなわけ無いだろう?
『失敗したけど、僕の願い事を叶えたい』
それでいいんだよ」
月の光を浴びたまま笑った。
僕も、月の光を浴びながら笑うと、お腹からぐうぐう音が鳴り始めた。
「そういえば、僕、ご飯食べてない」
「それなら、神社の人に何か食べさせて貰おう。今日のわたしの願い事はそれかな。
君が神社の人から食べ物をもらって、食べるのを見たい」
おじさんは、変な願い事をするな、と僕は思ったけど、黙っていた。
だって、とても嬉しそうに笑うから。
今の僕には、おじさんの白い頭がまるでお月様のようにキレイに思えた。