1 月夜の家出
着想元を与えてくれた鷹野進様と、
今この物語を読んでいるあなたへ捧げます。
僕はその日、夕飯の前に、家出をした。
まんまるのお月さまを背中に背負って。
いつも通りの夕飯前の時間。
もうすぐ連休だからと、病院にいるお母さんに毎日会いに行けるとわくわくしていた僕。
お母さんに喜んでもらいたい一心で、僕と弟とお父さんの並んだ絵を描いた。これで、ひとりで病院にいるお母さんも寂しくなくなる。そう思って何度も何度も見直しては、色を足して、線を足して、どんどん立派な絵になっていった。
これなら、お母さんはきっと喜んでくれる。
僕はリビングの床に寝っ転がり、お母さんの深緑色のカーディガンを羽織ったまま、色鉛筆とサインペンで気になったところを塗り直していると、突然弟が走って僕の方へ突っ込んできた。
がつん、と僕は頭を打ち、痛みで泣きそうになりながら、床から起き上がると、倒れ込んだ弟の体の下で、僕の絵がぐちゃぐちゃになっていた。
せっかく、お母さんのために描いたのに。
僕は急いで、弟の体を引っ張りあげた。弟の体の下から出てきたぐちゃぐちゃのしわしわになった絵は、真ん中から破けていた。
ひどい。
ひどい、ひどい、ひどい!
僕は弟の肩をぽかぽか殴り、大声で怒った。
その声を聞いたお父さんが、キッチンの方から顔を出すと、僕を怒った。
弟が僕の絵を破いたことが悪いのに、いつも僕が怒られる。
「なんでいっつも僕ばっかり!お父さんのばか!」
怒りをぶつけ、その心のままに靴を履くと、月明かりの空の下へ僕は飛び出した。
真っ暗な空の下の方に浮かぶ丸い月は、走り続ける僕の背中を照らしていた。
足元はいつの間にかアスファルトから砂利に変化し、砂利の道は水底のようで、熱のない光に照らされた夜の道は、どこまでも明るかった。
行く当ても何もなく、家を飛び出した僕は、車の通らない方へ通らない方へと走っていたようで、気がつくといつも遊び場にしていた森の近くの抜け道まで来ていた。けれど、月に照らされた森は、無数の葉っぱが光をすべて吸ってしまい、中を覗くほどに暗い。
煌々とした月明かりの下、そよりとも風は吹かず、しんしんとした静けさの中、
「ホウ」
という鳥の声に驚き、僕は月のある方向へ駆け出した。そして、抜け道から舗装された道へ出ると、森の東にある神社へ逃げ込むことにした。
階段を駆け登り、南側にある石の鳥居を潜ると、石畳の上を走る。
鳥居からのまっすぐ正面を見ると、本殿横の微かな街灯が目に入り、僕はようやく足を緩めた。
「はあ、はあ、はあ、っはぁ。」
月明かりの中、家から森へ、森から神社へと走り続けた僕は、昼遊びの時と違う緊張感に包まれていた。毎日のように遊んでいた場所が、月明かりに照らされただけで、もう僕の場所ではなくなっていた。
家から居場所を無くして、いつもの遊び場へ逃げこめば、少しは気が晴れると思っていたのに、すべての場所が僕のものではなくなっていた。
向かう場所を無くした僕は、神社の賽銭箱の後ろにある階段に腰を下ろして、かくれんぼをするように、じっと身を縮めた。膝を抱え、太ももに胸を押し当てると、どくどくと心臓の音が響いた。
このまま、ここで夜をやり過ごそうか。
空腹と心細さに負けそうになりながら、ほんの少しの意地とプライドで、僕はまだ帰らずに、一番守ってくれそうな神社の本殿と賽銭箱の間に膝を抱えて背を丸めて座っていた。お母さんのカーディガンをひっぱり、そのまま折り畳んだ足を中に入れた。
風もなく、ただ月光だけが冴え冴えとしていた。その影はすべてが黒々としながら、動くこともなく、そこから何か怖いものが出て来そうだと、想像し始めた時、誰かの足音が聞こえた。
玉石を踏む音が数回聞こえた後、石畳を歩く音に変わり、
「おや、小鬼がいるのかな」
男の人の声が僕の前にある賽銭箱の横の上から、聞こえた。
息が止まるほどの怖さを感じ、びくりと身を揺らした後、ゆっくりと僕は顔を上げた。
そこには、月を背負って影を作りながら、真っ白い髪をほんのり光らせ、眼鏡をかけたおじさんが立っていた。口元から少し離した右手には、煙をたなびかせたタバコが一本。
「こおに、じゃない」
泣きたいのをこらえて、僕が目を逸らさずに答えると、おじさんは少し目を大きくした後に、「ふふふっ」と笑った。
笑った口からは、白い煙がぽぽぽっと出て、僕は怖くなってカーディガンが伸びるのにも構わず、腰をあげた。
それを見越したかのように、そのおじさんはタバコを持ったまま手を振り、
「ごめん、ごめん。ばかにしたわけじゃないよ。こっちにおいで」
と言って微笑んだ。
僕がためらっていると、もう一度声を掛けてきた。
「タバコは消すから、こっちにおいでよ」
僕はそろそろと、立ち上がると、そのおじさんとは賽銭箱を挟んで反対側になるように移動した。そして、ゆっくりと参道の石畳の上へと歩いた。
「わたしは、タバコを吸いに来たんだけど、君はどうしたの?」
おじさんは本殿を背に向けて、ポケットから小銭入れのようなものを出すと、そこにタバコをぐりぐりと押し付けてから、仕舞った。
僕から見て右側に月明かりを浴びたおじさんは、普通のおじさんに見え、さっきほど怖いとは思わなかった。
おじさんは賽銭箱の前で、僕は神社の本殿の屋根が見えるくらいの距離で、それぞれ石畳に立ったまま、話を始めた。
「…僕の絵を、弟が破いて。僕が弟を怒って、泣かせたら、泣かせた僕をお父さんが怒って。それで、僕、悔しくて嫌だったから、森に行ったんだけど」
怖くて神社に走ってきたのだが、なんとなく、怖くて、ということが出来ず、僕は口を閉じた。
それをおじさんはどう受け取ったのか、予想外の答え方をした。
「そうか、絵を破られたのか。それは怒っても仕方ない」
「…おじさんは、怒らないの?」
「怒る?なんで?」
「だって、みんな僕はもうすぐふたりのお兄ちゃんになるから、もっとしっかりしなくちゃね、って言うんだ。おうちの手伝いしなさい、とか、弟の面倒を見なさい、とか。
弟を泣かしたし、夕飯前にテーブルも拭かないで、逃げちゃったし」
僕は悪い子だ。全然、お兄ちゃんじゃない。
僕が真剣に言うと、おじさんは、ぶほっと音を立てて吹き出し、笑っていた。
もう真剣に聞く気がないなら、どこかに行って欲しい。
嫌そうな顔で、眉を思い切りしかめながら、僕がおじさんを睨みつけると、おじさんは口に片手を当てて、「ごめん、ごめん」と軽く謝った。
そして、口から手を離すと、続けて言った。
「あまりにも君がいい子だから。それで嬉しくて笑ってしまったんだ。
私も絵を描くから。
絵を破られたら、怒ってしまうのは一緒だよ」
「おじさん、大人なのに、絵を描くの?」
「大人だから、描けるよ。おじさんの絵はすごいぞ。外国にだって飾ってあるんだ」
自慢げに言うおじさんは、そのまま本殿の西側にある木の近くへ行くと、月の光が当たっていない葉っぱを一枚手に取り、少しだけ上にひっぱった。すると、黒々とした葉っぱは、月光が当たり、急に色が見えるようになった。
「おじさんは、葉っぱを描いているんだ」
「葉っぱを?」
僕はわけが分からず、聞き返した。絵って、家族とか、友だちとか、ペットとか、そういうものしか僕は描いたことがない。
その上、葉っぱって、あのぺらぺらとんじゃうやつを?それが外国にまで飾られる絵になるの?
僕の頭の中に、はてなマークがいっぱいになる。
そんな僕を見たおじさんは、後で見せてあげると言って、また笑った。
あんまりにも、僕を見て笑うので、だんだんと腹が立つような、そわそわするような、不思議な気持ちになった。