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この世界は美しいらしいよ

 いつもの公園の早朝に旅行から帰ってきた天王寺さんを見つけると、ミーちゃんはものすごい勢いで飛びついていった。

「ミーちゃん!」名前を呼ばれたミーちゃんは、天王寺さんの足元に身体をこすりつけ続けていた。ルーシーも久しぶりの天王寺さんに前足で飛びついていた。

「喜んでるねえ、ミーちゃん」

「ミーちゃんには十六泊十七日やもん!」

「そうやったね。半月の別離の再会や。犬にとっては大変なことや」ミーちゃんは天王寺さんの傍からずっと離れそうになかった。


「旅行どうやった?」

「涼しかった。でもミーちゃんの事ばっかり考えてた」

 天王寺さんの答えに驚いた。本当に北海道で正解していたのかもしれない。また妻の勝ち誇ったような顔が頭に浮かんだ。

「これ先生にお土産。お礼も兼ねてって」そう言って天王寺さんは持っていた紙袋を渡してくれた。

「そんなんええのに。でもお礼も兼ねてっていう事なら、ありがたく貰っておくよ」

 受け取った紙袋には軽い小さな箱が入っていた。


「ほんま日本は暑い……」天王寺さんは言った。

 天王寺さんにとっては北海道は外国みたいなものなのだろう。僕らの足元の犬達も暑さで息を吐いていた。

「ほんまにね。ビションには日本の夏は過酷やで。こいつらは白い毛皮のコートを羽織ってるみたいなもんやからね。良かったら天王寺さん、少し歩いた先に滝の流れる公園があるから行ってみよか? きっと涼しいよ」

「行きたい! 連れてって!」天王寺さんは嬉しそうに言った。

「よし、ほな行こか」

 

 そう言った僕らはいつもの公園を南に歩いた。公園を抜けて臨港線の信号を渡ると、緑道に続く陸橋を登って行った。

「先生。芦屋川の海が見える」天王寺さんは右手を指差した。

「そうやね。ちょっと見にくいけど、波の音が綺麗やね」松の木に隠れた干潮気味の芦屋川の河口は、以前見た時よりも広がっており、波の音を大きく響かしていた。


「やっぱり芦屋はええとこや……」

「それはすごい解る気がする。旅行から帰ってくると地元の安心感もあって、改めて再認識するよね。天王寺さんは芦屋のどこが好きかな?」僕は聞いてみた。

「んーとね、六甲山が綺麗や!」天王寺さんは振り返り北の空を指差した。六甲山は夏の深い緑を輝かせていた。

「天王寺さんもそう思うんやね。確かに六甲山は綺麗や。大阪とか東京に行くと、山が無くて方角が分からなくなるよね」

「そうなんや」天王寺さんは言った。

「見えて当たり前が、実は当たり前やなかったりする。外に出ないと気付かない事もあるよね。旅行は大切な経験になるよ」

「せやと思う。楽しかったけど、ミーちゃんに会えへんのがめっちゃ寂しいのが解った」

「それも旅行で感じる大切さの一つやね」


 緑道を歩くと右手に大きな林が広がり始めた。林の木々に囲まれた中の広場は全面が緑の芝生に覆われ、小ぶりな広場だったがよく手入れされていた。

「先生の言ってた公園ってここなん?」天王寺さんが聞いてきた。

「そうやで。でも目的地はもう少しだけ歩いたところにあるねん」

「そうなんや。ほな期待や」


 僕らは緑道から公園の遊歩道へと入った。ほどなく歩くと遊歩道の隣に幅が一メートルほどの小さな川が現れ、音を立てずに静かに水を運んでいた。

「綺麗な川やわ」天王寺さんが言った。

「本当にね」


 小川に沿って歩くと徐々に滝の音が近づいてきた。川幅が少し広がった所まで辿り着くと緑の木の裏から突然深い緑に囲まれた滝つぼが現れ、思いのほか豊かな水量の滝が勢いよく流れていた。

「ほんまに滝があった! 先生、何で街中にこんな滝があるん? 森の中にいるみたいや」

「何でやろうね? まあ人工的に造ったものやと思うけど、ほんまに森の中にいるみたいやね。緑がとても深い」

 滝の目の前の遊歩道には、観賞用にベンチが用意されていた。滝つぼの近くの縁石まで辿り着くと街並みの景色は何も見えず、本当に森の中にいるように錯覚しそうだった。周辺の風も水の影響でとても涼やかに感じられた。


「こんなんが家の近くにあるなんて、全然知らんかった。街に森がある」

「僕も子供の頃にここを見つけた時、同じように思ったよ。まあ緑の深さは年月が経って今の方がより熟成してるやろうけどね。この先に池があるからそっちの方にも行ってみよか?」

「行く行く!」天王寺さんは興奮気味だった。


 僕らは小川沿いの遊歩道を少し戻り、川にかかる小さな石の橋を渡った。その先に池が見え、池の傍らには大きな東屋が建っていた。

「あそこで休憩しよう。ルーシーもミーちゃんもちょっとお休みしようね」

 僕らは東屋のベンチに腰掛けた。東屋は池にせり出す形に作られていたので、ベンチから顔を覗かせると眼前に池を泳ぐ鯉や金魚の姿が広がっていた。池の中央には水連が浮かび、その周りの石には定位置なのだろうか鴨が数羽じっと動かずに休んでいた。


「先生、あそこ池の上を渡れるようになってるやん。行きたいけどええかな?」

 天王寺さんが示す先には、池の上に造られた渡り板があった。

「ええよ。ほな僕はルーシーとミーちゃんにお水をあげとくから」

 天王寺さんはミーちゃんを僕に預けて走って行った。僕はカバンの中からペットボトルの水と器を取り出し、二頭の犬の前に水を差しだした。ルーシーもミーちゃんも勢いよく水を飲んでいた。

「お前ら喉乾いてたか? ごめんな僕らの散歩に付き合ってもらって」僕は二頭の犬に話しかけたが、もちろん返事はなかった。


「池の上歩いてきた。思ってたより浅かったけど、木の香りが爽やかやった」

「そうか。ほなここで少し休憩していこか?」

「そうする。公園を独占や」天王寺さんは言った。

 夏休みの朝早い時間帯なのだから、子供たちが遊んでいたりしてもおかしくないと思ったが、確かに公園を見渡すと天王寺さんが言ったように、僕ら以外の人影を見かけなかった。


「綺麗な公園や。金魚も沢山泳いでる……」池の方を眺めながら天王寺さんは言った。

「そういえば僕はいつも犬の散歩で公園に行くけど、全然子供がおらんな。天王寺さんの同級生とかは夏休みはどう過ごしてるんかな?」僕は天王寺さんに聞いてみた。

「多分お受験組は夏期講習で忙しいと思う。ライン組は家でずっとスマホ見てるんちゃうかな。男子は大体みんなゲームしとると思う」天王寺さんは少しぶっきらぼうに言った。

「そうか。文明の進化が子供らから公園を奪うって皮肉なもんや。いらん事聞いてしまったかな?」

「ええよ先生。私は天王寺組の天王寺芽衣子やから!」天王寺さんは笑顔で言った。

「天王寺組は聞くに強そうやな?」

「せや。天王寺組は強いねん!」


 僕らはしばらく池のほとりの東屋で佇んでいた。池の表にはアメンボが糸を引き、滝の音がずっと響いていた。モネの水連にはアメンボは浮かんでいただろうかと、僕はぼんやりと考えていた。

「この世界は美しいらしいよ……」僕は言った。

「そうなん?」天王寺さんは聞き返してくれた。

「そうらしい。この前先生の奥さんが叫んでいたわ」

「先生の奥さんって叫ぶんや?」少し驚いて天王寺さんが言った。

「まあ叫んでもええ様な場面やったんやけど。いつもはそんなことないよ」


「私も叫んでみたい」

「叫びたいことがあればそうしたらええと思うよ。それでな、立派な画家の絵とかも確かに綺麗やけど、案外そのまんまのすぐそこにある物も綺麗やと思わへんかな? 公園の滝とか六甲山の緑とか、ルーシーとミーちゃんの白い毛並みとか」

「どれも綺麗やと思う」

「そうやろう。でもそれって実は天王寺さんが気付いているからやねん。この世界は美しいねんけど、そのことに気付いてない人はそう感じない時もあるんよ」

「そうなん? よく分からへんけど」

「確かに難しいね。でも世界には六甲山を見ても何も感じない人もおるんよ。実際に」


「そうなんや」

「天王寺さんはそのことに気付いてるから見えるねん。それは凄い立派なことであり、またそれは天王寺さんを強くしてくれるんよ」

「そうなん。何でなん?」

「美しいものに出会って綺麗やと思った人は、心が幸せになるやろ。その幸せな気持ちは君の美しさになるねん。そして心の幸せの豊かな人は強くなれるねん」

「そうなんや」

「だから今日、この公園の美しさを天王寺さんは初めて知ったやろ? そしたら明日の天王寺さんは今日の天王寺さんより強くなっているはずや。人は毎日同じ人間やないんよ」

「そうなんや……」天王寺さんは考えている様だった。


「ありがとう先生。謎が解けたわ」天王寺さんが言った。

「どんな謎があったのかな?」僕は聞いてみた。

「最近変な感じがしててん」

「成程。どんな感じかな?」

「朝起きるやんか。ほなな、私やねんけどなんか私やない感じがしててん。毎日起きるたびに変な感じしててんけど、私は変わっていってるんやね?」

「そういう事はよくあるよね」僕は言った。

「先生もそんな感じしてたん?」

「高校生ぐらいの時はあったかな。毎朝起きるたびに新しい自分になってたよ」


「そうなんや。私は新しい私になってるんや」

「そういう事やね。でも僕は高校生やったのに、君は小学生で気付くんか? 女の子の方が成長が早いっていうけどほんまやな」

「謎が解けたわ……」天王寺さんは再び言った。

「よし、そろそろ戻りますか。こいつらもお水沢山飲んでたしね」僕は立ち上がり言った。


「この公園また来ようね先生」立ち上がった天王寺さんは言った。

「いつでも構わないよ。芦屋は公園が多いから他にもいいところが沢山ある。山の方とかにも立派な邸宅跡のお庭に入れたり、高座の滝も素晴らしい。そこらもまたいつか行ってみよう」僕らは緑道を西へと進んだ。

「なんで芦屋は公園が多いの?」天王寺さんが聞いてきた。

「そうやねえ、街をあげて庭園都市を目指しているって広報に書いてたかな? 何かこう簡単に言えば、街全体が公園みたいな街にするって」


「ほなな、芦屋は嘘の街や」天王寺さんは言った。

「面白いね天王寺さんは。じゃあこの街にはどんな嘘があるのかな?」僕は楽しみに聞いた。

「あんな、みんな芦屋市っていう街に公園があると思ってるけどそれは嘘やねん。ほんまは逆で芦屋っていう公園の中に街があるねん」


「それは面白い。公園の中の特別な許可を取った所に、みんな家を建てて住んでいるんやね。ほなその芦屋っていう公園で僕らは嘘の散歩をしようか?」

「どんな嘘の散歩なん?」天王寺さんも嬉しそうに聞いてきた。

「実は逆の街である芦屋の住民は、人間やなくて犬やねん。せやから犬の散歩も人間が犬を連れているのは嘘で、実は犬が人間を連れて散歩してるねん」

「私はミーちゃんのお供をしてるんやね」天王寺さんは笑って言った。

「そういうことやね。ルーシー様、人間がお世話させていただきますので、どうかご自由にお散歩をお楽しみください」僕はルーシーにそう言ったが、僕を連れて歩くルーシーは振り返ることなく前へと進んで行った。


「でも時々ほんまにそんな気がするわ……」

「ほんまになあ。ルーシーもそう思ってるんやないかな? 天王寺さんは嘘の街で、嘘の先生と嘘の散歩をしとるんよね? 嘘まみれで何が本当か分らなくなるかな?」

「大丈夫や。私は気付いている」

「そうよな。天王寺さんは気付いとるね」


「嘘やけどほんまやねん。私は公園みたいな街に住んでいて、その公園には謎を解いてくれる先生がいて、そんでミーちゃんに連れられて散歩してるねん。反対の嘘やけど、そのまんまやねん」

「そうやね。逆の嘘もまた案外ほんまやね」

 この子は本当に頭がいいと思った。天王寺さんの明日の朝は、きっとまた新しい天王寺さんなってるのだろうと僕は思った。



「それでお土産は何やったん?」家に帰った妻が聞いてきた。

「いやそれがてっきり白い恋人かマルセイユバターサンドやと思ってたんやけどね、なぜかネクタイやってん」

 僕は天王寺さんから貰ったネクタイを妻に見せた。


「女の子からネクタイって思わせぶりやな。かわいいやん天王寺さん。それも見るからにええ感じのやつやん。あんた丸井今井の包み紙は捨てたん?」

「なんで丸井今井なん?」

「函館やったら丸井今井でしょ? 五稜郭の」

「その函館へこだわりは、おかしいねんって。包み紙は紐でくくられた青い綺麗な紙やったから、有料のサービスで特別に包んでもらった物やわ。札幌の大丸やろ?」


「まあそこはあなたに譲るわ。そうよね五日間も犬を預けてお菓子やったら、お礼にならないもんね。悪いねなんか、気を遣わわせて。こっちはこっちで楽しんでいたのに」

「でも仕事してないダメな大人に、ネクタイってなあ? 使わへんやん」

「それや! 仕事してないダメな大人って聞いてたから、天王寺さんのお母さんがネクタイを選んだんやで。仕事しろっていうメッセージ。めっちゃ皮肉が聞いてて最高やん。あー変な心配して損した……」


「なんなん変な心配って?」

「そりゃあなたはおっさんやから解らへんのやろうけど、女の子にネクタイ貰うって思いっきしお父さん設定やん? 最初聞いた時ちょっとびっくりしてん」

「考えすぎやで」

「分からへんよそんなの。あなた本当に天王寺さんの会うの、ほどほどにしときよ。前も言ったけど、あなたは天王寺さんのお父さんには絶対になれへんのよ」

「はいはい……」僕は軽く返事をした。


「それよりも天王寺さんの話面白くないか? 芦屋は嘘の街なんて、あの子の発想力にはびっくりするで」

「その話は私にはもうよく分からなくなってくるわ。そもそも嘘って何なのかな?」

「嘘の定義は難しいやろうね」

「言いたいことを言わないのも嘘なんかな?」妻は聞いてきた。

「どうやろうな。言わなきゃいけないことを言わない嘘なら、多分いくらでもあると思うけど。それこそ他人に対するごまかしや隠蔽とかやね。それとは逆に言いたいっていう自分の感情に対してあえて言わない嘘をついているとしたら、それは自分に対してつく嘘と言えるかもね。君にもそういう時があるんかい?」


「仕事に行ってたらそういう事ばっかりです。本当にあなたは無菌ルームでのほほんとしているわね」

「ごめんごめん。世の中確かにそういう事は多いな。僕も分かるよ」

「それに毎日新しい自分になるっていうのも、さっぱり分からないわ。私はそんな感覚を感じたことがないよ。もしかしたらあなたたちはサイヤ人なのかもしれないね?」

「またそんなことを言う。人にはそれぞれ誤差があるもんやん。それに天王寺さんも何となく違和感があっただけで、はっきりと感じてたわけじゃないし。君にもそういう時間はあったんやって」


「いや、少なくともあなたはサイヤ人です。戦闘力たった1のサイヤ人!」

「戦闘力1って少ないないな。ていうか何で僕だけ?」

「決まってるやん。サイヤ人は働かないからよ!」そう言った妻は自分で自分のネタに大笑いしていた。

「はいはい分かりました……」僕はやれやれと返事を返した。


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