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美しい少女はビションフリーゼを連れて歩く

 僕の数歩先を歩くルーシーの白い背中を見ていると、道路には蟻の巣穴のクレーターが点在し、地表に現れたミミズが干からび、遠くには航空機の音が続いていた。時折まるで「そういえば、ちゃんとついてきてますか?」とでも言いたげな表情で振り返るルーシーは、フレキシの伸縮リードを握る僕を連れて歩いていた。

 

 ルーシーの白い背中の先にはビションフリーゼ独特のアフロヘアーが上下に揺れ、丸太のように直線的にカットされた足からは、爪が路面を叩く音を定期的に響かしていた。胴輪から伸びる黒いリードの紐は左右に揺れ、直角よりも反り返った尻尾へ何度もぶつかっていた。

 

 ルーシーと僕の定番散歩コースになっている公園は、大きな広場を中心に遊歩道が取り囲んでいる。公園に入ると、何羽もの鳥が飛び去って行った。公園に併設されたテニスコートでは青いウェアと白いミニスカートで統一された、若い四人組の女性たちがテニスをしていた。四人は日焼け対策のため両手、両足をタイトな黒い布で包み、灰色のサンバイザーと帽子を被り、テロリストのように顔面全体を白い布で覆っていた。

「まだ五月なのに、日焼け対策しとるんやな……」

 ルーシーは僕の問いかけには答えず、芝や枯れ葉の中に臭いを探していた。適切な臭いを探すとそこに放尿し、また別の草の臭いを探すと、片足を上げその臭いへと放尿した。

 

 公園の広場に出ると、広場の中心にはラウンドゴルフを楽しむ老人会の人たちがいた。北の空に緑の六甲山が見えた。広場を囲む林は人の身長の位置までの枝ぶりを摘出され、遊歩道からの目線をよくされていた。

 

 ルーシーは林の下を歩いた。時折何を思ったのか、木の幹をはがそうと牙で挑戦していた。それに飽きると周辺に生える低木の葉をちぎっては捨て、またちぎっては捨てを何回か繰り返した。数羽の白い斑の入った鳩を見つけると飛びかかろうとしたが、鳩は大きな羽音をたて飛んで行った。

「そういうこと、やめなさい」

 通じないと思いつつ、僕は話しかけた。ルーシーは遊歩道の縁石の臭いを一つ一つ嗅いで回り、また放尿しようと片足を上げたが尿は出ていなかった。その後も何度か放尿しようとしたが、数滴垂れたのみだった。

 

 繰り返し放尿しようとするときは、大抵その後脱糞する。便意をもよおしたルーシーは腰が浮き気味になる。最適な脱糞場所を探すかのように、腰を浮かしながら何度も繰り返し放尿しようとし、小さな切り株の上で三回、回転した後脱糞した。

 僕はビニール袋でルーシーの糞を拾い上げ、袋の口を縛った。今日の糞の色は綺麗な茶色で、形も丸い玉を三つ落としており、いつも通りの臭い健康的な糞だった。


「ほなルーシー、家帰ろか」

 僕が呼び掛けると「することしたから満足です」といった顔をしてルーシーが僕の足元に駆け寄ってきた。僕はそんな満足げなルーシーを隣に連れて家へと歩いていった。



 夕方六時を過ぎると、僕は妻を迎えにホンダ・フィットに乗り込んだ。向かったJR芦屋駅の南口には、側道に多くの車が停車しており、僕は何とか見つけたメルセデスとレクサスの間にある小さな隙間に車を潜り込ませた。


「あー疲れたわあ」妻の声が車の中に響いた。

「お疲れさんです……」開口一番の妻の声が耳に痛かった。

 僕は車を出し南へと進めた。国道二号線を渡ると先月まで一面の桜並木だった通りに入った。桜の木はすでに葉桜になっていたが、通りにあるオープンカフェでは女性たちが夜のサンドウィッチを楽しんでいた。

 

 大きな街路樹が立ち並ぶ鳴尾御影線へと右に曲がると、パン屋や小さなインテリア・ブティックが並んでいた。日本料理店とバーが並ぶ芦屋川の坂道を上ると、交差点にパン屋と芦屋警察の旧正門が正面に現れた。この警察署は建て替えられるまでは、警察署として日本で一番古い建物だったと子供の頃に学校で習った。今は正門のみが状態保存されている。

 

 大きなカフェが一階に入るビルの角を曲がると、阪神電車芦屋駅の高架の下をくぐり抜けた。その先の国道四十三号線のアンダーパスを通り抜けると、右手には海へと続く芦屋川の緑が広がり、左手には芦屋公園の広大な白砂に松林が延々と広がっていた。


「今日ルーシーの散歩行っとったら、まだ五月やのにテニスしてる女の人ら、めっちゃ日焼け対策しとったわ。顔面までIRAのテロリストみたいにしとるねんで?」芦屋川の方角を少し眺めながら僕は話した。

「何を言ってんの。五月でも紫外線は凄いんよ。それぐらい当たり前やで。ていうか五月も夏も関係ないで。今は二十四時間、正月から大みそかまで日焼け対策。心休まることのない女たちの愛の戦いよ! ついでに言っておくけどIRAって古いねん。今はイギリスがEUを離脱するかの戦いやん。あなたもおっさんになったね」


「イギリスのEU離脱で、今の北アイルランドも大変やで? それより夜中に日焼け対策してどうするねん。照明からも守らないかんのかい。そこまでして日焼けしたくないもんなん?」

「美白は神よ。ああ我が美白の神よ。無垢で愚かなこのおっさんの魂を救いたまえ。この愚かなおっさんは毎日仕事もせずに犬の散歩ばかりに出かけて、いつのまにか世間知らずになってしまっただけなのです。神よこの無職の無色でノーカラーなダメな大人を救いたまえ」

「はいはい分かりました……」僕は適当に答えた。


「肌のダメージは蓄積するからね。私らが子供の頃はビタミンの欠乏を防ぐために日光浴をしましょうとか言ってたけど、あれは完全に迷信やったんやからね。あーありえへん。真夏の学校のプールの授業とかありえへんわー。ついでに夏の甲子園もありえへんわー。野球してる選手の子らはええけど、応援団とかチアリーディング部の女の子とかありえへんわー。美白の神よ、私は切に願います。彼女らの肌から紫外線を悪魔的にカットしてくれる、すばらしいクリームを彼女らに与えたまえ」


「その君の言う悪魔的なクリームって多分もうあるんちゃう? 百回大会で外野が有料になる前は、夏の大会僕らも結構よく見に行ってたやん。応援団の女の子らみんな綺麗にしてたで。ていうか神に悪魔を願ってどうすんねん」

「神よ。この物事の表面の玉ねぎの皮ぐらい薄い場所しか見ることのできない、三十五歳のおっさんを救いたまえ。たとえ高校時代の夏の青春のひとページを、楽しく校歌を歌って乗り切ったとしても、肌のダメージは確実に蓄積されている。そのダメージは二十代、三十代になると、まるで過去に犯した過ちかのように現れ、彼女たちを苦しめることになる。そういった彼女らの将来への恐怖を全く想像することのできない、この世間知らずの無職でノーダメージなおっさんを救いたまえ」


「あのねえ、そんな言いますけどね、それやったらもう小学生ぐらいからみんな帽子被って、日傘射して、日焼け止めクリームを塗りたくっているって事かい?」

「我が美白の神よ。そんな当たり前のことを今さらまるで大げさなことの様に語るこのダメ人間を救いたまえ」

「分かりました……」僕はそれ以上言い返すのをやめた。



 次の日の散歩で出会ったその女の子は白い帽子をかぶり、品の良さそうな白いワンピースを着ていた。その子は切れ長の目をしていて、一目見てこの子は将来美人になるのだろうなと僕は想像した。その子の手元には僕が使っているものと同じタイプのフレキシの伸縮リードが握られ、伸びるコードの先に白い小さな子犬を連れていた。


「その子、ビションフリーゼですか?」女の子は僕に声をかけてきた。ルーシーは白いトイプードルと思われる事が多いので、僕は驚いて言った。

「せやで、ビションフリーゼ。よう分かったね」

「この子もビションフリーゼなんです」

 彼女の連れている犬は小さく、またビション特有のアフロカットでもなかったが、確かによく見るとルーシーの子犬の頃の姿によく似ていた。

 

 ルーシーは彼女の連れた犬に興味深々といった様子だったが、その子犬はまだとても臆病そうにしていたので、僕は距離を取ってルーシーを引き留めていた。

「そうなんや。ほな、まだ子犬やね」

「ミーちゃん四か月」

「そりゃ僕が思ってたよりかなり子犬やね。ミーちゃんって言うんや。なんか猫みたいな名前やね?」

「うん。犬やけど、ミーちゃんです」

 この子も猫みたいな名前だとは思っているようだった。


「その子の名前は?」

「こいつはルーシー」

「ルーシーって、スヌーピーの女の子?」

「いや、オスやけど、ルーシー。ルーちゃん三歳です」

「ミーちゃんもルーちゃんみたいになんのかな?」

 大きさのことか、ビションカットのことを言っているのだろう。

「まあ普通にしてたらなると思うよ」

「普通って?」

「そうやねえ、トリミングは月に一回やね。トリミングっていうのは犬の美容院やけど、まあその辺はお母さんとかが知ってるはずや」


「ミーちゃん、ルーちゃんと挨拶できるかな?」

「そうやねえ、初めてやから慎重にしないとね。見た感じミーちゃんは少し怖そうにしてるから。ちょっとだけ近づいてみようか……」

  僕は尻尾を立てて期待している様子のルーシーを、少しだけミーちゃんに近づけてみた。近くで並ぶとミーちゃんはまだルーシーの半分ほどの大きさに見えた。恐る恐るといった様子でルーシーを見ていたミーちゃんだったが、ルーシーの鼻に自分の鼻を一度触れさせると、突然尻尾を立て左右に勢い良く振り始めた。

「すごい。ミーちゃんめっちゃ喜んどる!」

「よかったな、ルーシー。受け入れられたかな」


 ミーちゃんは立てた尻尾を勢い良く振り続け、ルーシーの周りを左右に動き回り、伏せの格好になったりしながらルーシーと鼻を合わせていた。

「若いなミーちゃん。めっちゃ元気や」

「ルーちゃんまた会ってもいいですか?」

「もちろん。大体いつもこの公園を散歩してるから、君も来たら会えるよ」

「ありがとうございます」

 僕の方がありがたいかもしれない。こんなかわいい犬友達なら大歓迎だと思った。


「ルーちゃんの写真撮っていいですか?」スマホを取り出しながらその子は言った。

「かまへんけど、なんかに使うの?」

「お母さんに見せるねん。あとインスタも」

「そうか。良かったらインスタまた見してね」未だにガラケーを使う僕は笑って言った。

 写真撮影が終わり、別れ際に僕が「その帽子は日焼け対策なん?」と聞くと「お母さんが被りって、ダイソーで買ってもらってん」と言った。



 車に乗り込んできた妻に「確かに日焼け対策した女の子おったわ」と言うと「でしょー。我が美白の神よ」と妻は返してきた。

「まあお母さんに帽子を被れって渡されただけみたいやったけど」

「夏にはしまいに、日傘や日焼け止めクリームなんかも渡されるでその子。我が美白の神よ。われらに様々な紫外線対策グッズを与えたもうた事に感謝します」


「はいはい。それでな、その子ビションの子犬、連れててん」

「そうなんやー。男の子、女の子どっちやった? もし女の子やったらルーちゃんの子供できるかもしれへんで」

 ルーシーは去勢手術をしていないので可能性はあるかもしれないが、そんなに簡単に言うような話ではないと思ったが僕は黙っていた。

「残念ながらオスです。聞かへんかったけど、あれが股に見えてました」

「それは残念やねー」

 残念と言いながらも妻はあまり残念そうな様子には見えなかった。本気で言っていたわけではないのだろう。


「せやけどその子、いつまで持つかね……」昔のことを考えながら僕は言った。

「持つってどういうこと?」

「いや僕もさ、小学生の時に犬を飼ってたやん? ラッキーちゃん」

「言うてたね。確か大学生の時に亡くなった犬よね」

「ラッキーちゃんの事は好きやったよ。でも犬の散歩って子供の頃は面白くなかった記憶しかないんよね。どちらかというと面倒くさかった。あの頃は他に楽しいこといっぱいあったからやろうなあ。友達と遊んだりとか、ファミコンしたりとか。まあ勉強もあったし」

「今はあなた、犬の散歩ぐらいしかすることないもんね」妻は笑って言ったが、僕は話を続けた。


「まあそれでその子やけど、子犬のうちは良くても徐々に犬の散歩に飽きてくるんちゃうかなって話。面倒くさいって。その子スマホ持ってたで。ルーシーの写真撮ってインスタにアップするって。子供がスマホってもう普通なんかな?」

「その子何年生やったん?」

「聞いてないけど見た感じ多分、小五か小六ぐらいと思う」

「それやったら普通ちゃう。私の友達も、中一の子にもう持たせてるって聞いた」

「そんなもんか。でも、飽きてきたら犬がかわいそうやね」

「その時は、あなた代わりに散歩行ってあげたら? どうせ犬の散歩ぐらいしかすることないんやから!」妻は笑いながら言った。



 初めてあの女の子と出会って以来、夕方にルーシーの散歩に出かけると、ミーちゃんを連れたあの女の子に何度も出会うようになった。

「こんにちは。ミーちゃんおっきくなってきたね」

「この前お母さんと動物病院に健診行ってきた。ミーちゃん三キロちょっとやった」

「ルーシーは八キロやで」

「ミーちゃんもそんぐらいになるんかな?」

「いや分からへん。ビションの平均は五キロぐらいらしいから、ルーシー大きめやねん。同じ犬種でもやっぱり個性があるからね」


「ミーちゃんね、家の中でめっちゃ走り回る時あるねん」

「ルーシーも小さいときあったわ。それビション・ブリッツて言って幼少期に暴れまわるビションフリーゼの独特の習性らしいよ。大きくなったらしなくなるよ」

「ルーちゃんもうせえへんの?」

「ルーちゃんは家ではずっと寝てるわ。犬の三歳ってもうおっさんらしいで」

「三歳でおっさんって変や」

「そんな風には見えないんやけどね。でもたまにおっさんみたいなくしゃみする時あるよ『ブシュンッ』って」僕はルーシーの真似をしてみた。


出会うたびにミーちゃんは徐々に大きくなっており、毛量も伸びてきてビションカットに近づいていった。

「ミーちゃん、トリミング行ってきたね」

「この前初めて行ってきた。外でずっと見ててん」

「ずっとは長かったんちゃう?」多分短くとも三時間ぐらいはするはずだった。

「ずっと見てた」そういえば僕もルーシーの初めてのトリミングの時、そわそわして何度も覗きに行ったのを思い出した。


「ミーちゃん階段降りられるようになったの?」

「まだ無理みたい」

「もうちょっとやね。ルーシーもめっちゃ階段怖がってたけど、降りられるって気づいたらその日から全然怖がらなくなったよ」

「どうやったら気づいたん?」

「ルーシーは今ぐらい大きくなっても階段怖がってたんやけど、ある日ちょっとだけ階段の前で引っ張ってあげてん。ほな一歩降りたら『なんやこれ、めっちゃ簡単やん』って感じですぐに次々と降りてったわ」

「ほなもうちょっとしたら、それ試してみる」


「インスタはアップしてるの?」

「ミーちゃんの写真ばっかアップしてるから、インスタが犬の人ばっかになった」

 犬の人というのは、愛犬をアップロードし続けている人のことだろう。

「見してもらってもええかな?」

「ええよ」と言い少女はスマホを取り出した。

「これミーちゃん」と言ったスマホの画面には、散歩中だろうミーちゃんの背中や、家のソファの上に座るミーちゃんの写真が並んでいた。

「これルーちゃん」そう言った一つの写真は、この前の散歩中に撮られたルーシーの姿だった。コメントには「散歩中おとなのビション発見!」と書かれていた。

「そんでこれが犬の人。みんなビション」スマホの画面にはビションフリーゼの写真が次々とスクロールしていった。

「この子はエレナ。んでこの子はパンチ。んでこの子達は確かフク、ラテ」

 スマホの画面には次々とビションフリーゼの写真が流れ、合間に自作の犬の餌の写真や、犬の走る動画や、犬関係の広告などが表示された。


「これがオフ会やって」

 見せられた写真には富士山を背景にした高原のような場所で、数十頭はいるビションフリーゼとその飼い主たちが写っていた。

「すごいねえこれ。これ行ってみたいね」

「私も行ってみたいねん」

 僕らの足元ではルーシーとミーちゃんがお互いの鼻の臭いを嗅ぎあったり、またルーシーがミーちゃんの尻の臭いをしきりと嗅ぎまわっていた。


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