第五十一話 張賓との別れ
石勒は趙を建国して以来、国制の整備を進めてきた。
まず、門生祭酒、門臣祭酒という役職が設けられた。
祭酒とは元はと言えば読んで字の如く祭の際の酒の儀式を司る役職であったが、この時代には転じて学政を司る官職の名となっていた。
門臣祭酒には異民族出身者が任命され、異民族の訴訟を担当した。
特筆すべきは門生祭酒である。
門生祭主には漢人が任命され、漢人を統制し、さらに征服した側である異民族が漢人を侮辱していないか監視する役目を負っていた。
言わば人種差別を取り締まる官職であり、近代思想を先取りするかのような発想であった。
そのほかに学校の整備を進め、儒教を普及する経学祭酒、法律を普及する律学祭酒、歴史教育を行う史学祭酒などの学官や、それを教える太学を建設した。
これら胡漢の融合を目指す先進的な諸制度をつくったのが知識人集団「君子営」であり、その長である大執法の張賓であった。
張賓はまた石勒第一の謀士として様々な献策を行ない、その策は常に正しかった。
政戦両面で石勒を支え続けた天才の張賓、その命がいま消えようとしていた。
◇
石勒が張賓の屋敷を自ら見舞うと、張賓は寝台から身体を起こして応対しようとした。
「そのままでいい。身体に障る」
石勒は張賓の肩をやさしくつかむと寝台に戻した。
石勒はぼやくように言った。
「今日はここに来る前に息子の大雅の撃剣の稽古を見てきたんだ」
張賓は弱々しい声で応じる。
「どのようなご様子だったのですか」
石勒はため息をついた。
「それが、ぜんぜんダメでな。王陽を師につけたんだが、まともに撃ち込めないんだ。理由を聞いたら、先生が痛かったらいけないと思って、当てられないんだと。あの子は穏やかで優しすぎる。まるで俺に似ていない。こんなことでは先が思いやられるよ」
張賓はぽつりと言う。
「創業と守成では求められる資質が違います。陛下が高祖劉邦ならば、大雅様は文帝になるべきお方です」
石勒は張賓の言葉に目を輝かせる。
しかし、張賓はつづけた。
「ただ、そのように後継するためには、石虎将軍を除かねばなりません」
石勒は顔を強張らせる。
「季龍か。あいつは甥だが、俺にとっては弟のようなものだ。あいつだって、俺に懐いている。その俺の子どもを害するようなこと、あいつがするかな」
張賓は頷いた。
「石虎将軍が陛下を思慕しているのは確かです。しかし、その想いが善い方に進むとは限りません。石虎将軍は表面上は礼節を身につけたように装っていますが、陛下以外の人間をことごとく見下し、その本質は残忍で無頼です。このことをよく考えなければ、社稷は傾くでしょう」
「この話はよそう」
石勒がそう言うと、張賓は咳き込み、袖を血で濡らした。
石勒はその背をさすった。
「右侯、お前がいなくなったら、やっていかれないよ。しっかりしてくれや」
「残念ながら、残された時間は少ないようです」
張賓の顔を涙が伝った。
「私が死んだら、程遐を謀士とするが良いでしょう」
「あいつか。しかし、お前とあいつは仲が悪いのだと思っていたぞ。意外だな」
張賓の腹心である張披は程遐の讒言がきっかけで死罪となっていた。
石勒も後に張披の無実を知ったが、後の祭だった。
「そんな事は、国家の前には小事に過ぎません。あれは貪欲ですが陛下には忠実です。知略も私には劣りますが、陛下が善導すれば使えるでしょう。もう一人、徐光も有望です」
「ああ、王陽が推挙してきた小僧か」
「あれは変わり者ですから、腹の立つこともあるかもしれませんが、絶対に斬ってはいけませんよ。程遐と徐光、この二人を左右の臣として使いこなせば、必ず劉曜をくだせます」
張賓は続ける。
「内政は左長史の張敬に任じ、その補佐に裴憲と王波をつけると良いでしょう。どれも地味な男ですが、やるべきことはきっちりとやる連中です」
また張賓は激しく咳き込み、血を吐いた。
「もういい。わかったから、休め」
「よくない」
張賓は口を真っ赤にして続ける。
「軍事について、この後、幽州が騒がしくなるでしょうから、孔萇殿を派遣すると良いでしょう。田堪と田聡の若い二将に恩徳を施し、爪牙とすべきです。そ、鼠輩の敵はまだいますが、陛下は軽々しく親征してはいけません。へ、陛下が戦場に出る必要がある戦い……それは劉曜との決戦だけです。わかりましたか」
「わかった」
張賓はふっと笑った。
「私は……陛下の張子房に……なれたでしょうか」
「ああ」
「よかった」
張賓は目を閉じ、そのまま二度と目覚めなかった。
◇
張賓が卒すると、石勒は散騎常侍、右光禄大夫、儀同三司を追贈し、景公の諡号をおくった。
景とは、義をもって剛く政を行なった者への美諡である。
埋葬のさい、石勒はその棺を涙を流して見送り、天を仰いで叫んだ。
「天よ! お前はわが事業を成功させたくないのか。なぜだ! なぜ俺の右侯をこんなに早く奪ってしまったのだ!」





