第四十四話 劉琨の最期
「何故だ、何故動かない、段部」
劉琨の策動は鮮卑の段部を巻き込み、大軍が石勒を襲う手筈になっていた。
しかし、決行の日、この時になっても段部の軍は動こうとしなかった。
頼みとしていた段部の首領、段匹磾が馬に乗って引き返してくる。
彼はかぶりを振って言う。
「……末波が兵を出さないと言って聞かない」
段部で最強の勇将と名高い段末波が石勒に恩を受けたというのは知っていたが、そこまでに懐いていたというのは予測できなかった。
利に聡い鮮卑族のことだから、略奪の報酬をちらつかせれば旧恩などかなぐり捨てて参陣するだろう、劉琨は内心でそう思っていたのだ。
「ともかく、末波なしでは今日の作戦は成り立たない。悪いが後日仕切り直しということで」
愕然とする劉琨を置いて、段匹磾は遠ざかっていく。
◇
劉琨は諦めず、足枷となった段末波を調略しようと長男の劉羣を送った。
しかし、段末波は劉羣を捕らえた上で他の段部の首領を攻撃し始めたので、調略どころか息子は人質になってしまった。
「偵騎が捕らえた敵が面白いものを持っていた。読むかね、劉琨」
段匹磾は机の上に一通の書状を置く。
その差出人は段末波、そして宛先は劉琨であった。
「これは……このような話に私が乗るはずがあろうか。私は公と盟を結んで晋室を助ける事を誓いあい、その力をもって国家の恥を雪がんとしているのだ。我が子のために公を裏切って義を忘れるようなことはない」
書状には段末波が段匹磾を攻めるに当たって劉琨に内応してもらいたい、この申し出を断れば長男の劉羣がどうなるかわからない、というような内容が書かれていたのである。
「そう言ってくれると思ったからこの書状を見せたのだ。君を疑ってはいないさ」
段匹磾は笑みを浮かべて劉琨の手を握った。
◇
朝廷からの使者が段匹磾の元を訪れた。
劉琨も面会を求めたが、段匹磾と使者は内密に話したいことがあると曖昧に笑って会議の場に入れてくれない。
異変を察知した劉琨は素早く一通の書状をしたためる。
そして、部下の一人に書状を託し、密かに放った。
事態はすぐに悪化した。
会議に入れてくれないばかりか、鮮卑族の戦士たちは劉琨とその家族を一室に閉じ込めてしまった。
劉琨は傍らに侍する息子に言った。
「あの朝廷の使者は、恐らく王敦の手の者だ」
「王敦。たびたび父上に嫌がらせをしてきた、あの男ですか」
「さよう。新しい都の建康では、王敦や王導といった琅邪王氏が天下を差配し、皇族たる司馬氏をしのぐほど。王と馬とが天下を共にす、などと言われるほどになっているとか。私は奴らにとって目障りな存在だ。会議から締め出したのは、段匹磾に偽りを吹き込んで、殺させるつもりなのであろうよ」
劉琨は愛用の胡笳を取り出した。
「生死のことは運命だから仕方ないが、石勒達を倒して恥を雪げなかったのが口惜しい。泉下で両親に合わせる顔がない」
劉琨はそのように言うと、南を向き一曲を奏した。
◇
その時、南方の河南の地で、ある男が布団をがばと払い除け飛び起きた。
「あなた、どうなされたの」
「いま、劉琨の笛の音が聞こえなかったか」
きょとんとする妻を置いて、男は庭に飛び出し、暗闇を見上げた。
夜空には見たことのない妖しい星が輝き、そしてすぐに黒雲に覆われて消えた。
「劉琨、ともに天下を救おうと誓ったではないか。乱世はむしろ我々の腕の見せ所だと、君はそう言ったじゃないか。なぜ、私を置いて先に逝った。何故だ」
この男、祖逖はがっくりと膝をついた。
数日後、祖逖の屋敷に、劉琨の部下が書状をもって半死半生で辿り着いた。
その書状には亡き劉琨の筆で、祖逖がこの書状を受け取るときには自分はこの世にいないであろうということ、親友の祖逖に北伐の継続を求めることが記してあった。
ここに鞭は託され、祖逖の暗い目に炎が灯った。





