第四十三話 程遐
姫澹率いる十余万の軍勢が坫城の地に集結し、劉琨は広牧に駐屯してその声援となっていた。
石勒もまた軍を率いて坫城の目前に集結している。
敵の大軍を見て十八騎の一人である張越が言う。
「あれとまともにぶつかっちゃ生命がいくつあってもたりませんや。ここは一旦引いて拠点に戻りましょう。堀を深くし、塁を築いて、敵の鋭意を挫く。重要なのは万全を期すことですよ」
張越は石勒の姉の夫ということもあり、彼が石勒に接する態度にはどこか気安さがあった。
石勒は眉をひそめて静かに言った。
「姫澹は遠方から大軍でやってきた。軍勢は立派に見えても、兵士達の身体は疲弊し、力は尽き果てている。一戦してどうして打ち払えない道理があろうか。また、目の前に集結した敵を捨て置いて退却し、いまから築城だと?そんな暇があるか。これは戦わずして自滅する道だ。今から退却を説くものは斬る。皆もわかったか」
石勒がそう言うと、張越は小さく舌打ちをした。
「おい、張将軍。今度そんな態度を取るならば、斬るぞ。姉貴のことなど関係なくな」
「おっかねぇな。わかりました。わかりましたよ」
張越がすごすごと引き下がると、代わって右長史の張賓が進み出る。
「野戦をかけるにあたり、いくつか策がございます」
◇
姫澹将軍の天幕に兵士が駆け入る。
「前方の台上に動きあり。石勒軍が集結しています」
天幕を出ると、確かに台上にいくらかの部隊が移動しているのが見て取れた。
「ふん、騙されんぞ。この坫城に至る二本の道のうち、台上を通る道に敢えて集まるのを見せて、主攻撃の方向を見誤らせる策に違いあるまい」
姫澹は敵影のないもう一本の道に向けて進軍を開始した。
果たして平野の道には軽騎兵を中心とする石勒の精鋭部隊がおり、姫澹の軍と接触すると算を乱されたと見えて、狼狽しながら退却していった。
泡を食って逃げ出す中には石勒その人の姿もあった。
「ははは、私の読みが当たったようだな。石勒の参謀は、たしか張賓と言ったか。所詮は蛮族に寝返るような浅はかな男の出す、底の浅い策だ」
呵呵大笑する姫澹とその軍は勢いに乗って前進し、街道を抜けたところで孔萇が指揮する大量の伏兵に両側面から圧殺され、消滅した。
◇
大勝利の後、石勒は再び軍議を開いた。
程遐という謀臣が報告する。
「広牧に駐屯している劉琨は鮮卑の段部の元へ逃げ込んだようです」
程遐は石勒の妻の一人の兄であったが、張賓には及ばないものの頭のよく回る男であり、石勒の信任をしだいに受けつつあった。
「わかった。引き続き動向を注視してくれ。あれ、張越はどうした」
「は、声はかけたのですが……」
石勒は目をいからせて天幕を出ると、張越を大声で呼び、探した。
張越は自身の天幕の前に毛皮を広げ、数人の同僚と樗蒲を打っていた。
樗蒲とは白黒の札を用いて行う双六のような遊戯であり、この時代は賭博として盛んに行われていた。
「張将軍、俺がこの前言ったことを覚えているか」
「え、なんです?いま、良いところなんだ」
石勒は剣を抜くと、張越を一刀のもとに斬り捨てた。
石勒が剣の血振りをして振り向くと程遐が立っていた。
「ふん、こいつの席には明日からお前が座れ」
「ははっ、ありがたき幸せでございます」
石勒の後ろを颯爽と着いていく程遐の腕を掴む者がいた。
張賓であった。
「はて、右侯殿。どうされましたか」
張賓は石勒が十分遠ざかったのを見届けると、険しい顔で言った。
「張越を軍議に呼んだというのは、偽りだな」
程遐の顔から愛想笑いが消えた。
「……だったらどうしたというのです。いずれは処断せねばならぬ男だった」
「私が咎めているのは、閣下を欺いたことだ。そんなことをしていては、真の信頼を得られん」
張賓は咳き込んだ。
ぜろぜろという湿った音が喉奥から響く。
「ぐっ、私が……去ったなら……お前を後任にと考えていたのだ。……妙な振る舞いはよせ……がはっ……」
張賓はその場に膝をついた。
「わ、わかりました。おい。誰か、誰か医者を」
張賓はこの頃から頻繁に病に伏せるようになっていった。





