第三十六話 葛陂の悟り
降り注ぐ長雨で話す声も聴き取りづらいが、咳の音だけは妙にはっきりと城内に響く。
兵士達の間に、疫病が蔓延しているのだ。
晋朝の残党が布陣する揚州九江郡の寿春――かつて三国時代に袁術が都を置いて称帝した――がまであと少し、というところで石勒軍の足は完全に止まっていた。
この葛陂と寿春の間には湿地帯が広がり、さらにこの長雨で湖のようになってしまった。
やむなく葛陂で天候が回復するまで逗留していたところ、湿気や城内の狭さから疫病が蔓延し、とても進軍どころではなくなった。
股肱として仕える刁膺は、和議を提案した。
「ここは一旦、寿春の司馬睿の軍に和議を申し入れ、晋の軍が退くのを待ってから、じっくりと計画を練りなおすのがよいろしいかと」
石勒十八騎の一人、天竺人の夔安もまた消極策を言う。
「とにかく、なんでもいいから高台に逃げましょうや。いま水攻めをされたらひとたまりもない」
石勒はいらいらしてきていた。
「お前たちは何をそんなに怯えてるんだ」
孔豚、支雄ら豪壮の十八騎の諸将が進み出て言う。
「もはやこれは水戦のようなものです。船を作って歩兵を乗せ、夜半のうちに寿春を襲撃いたしましょう。そこで喪った兵糧を補給し、軍を立て直します。今年の内には、江南をことごとく平定し、司馬家の小僧どもが立て篭もる建業さえも陥としてみせます」
「それは勇将の計略だな」
手を叩く石勒を、謀士の張賓はあくまで冷静に見つめている。
「張賓、お前の考えは違うようだな。聞かせてくれよ」
「まず、和議ですが、問題外です。閣下は帝都洛陽の陥落に加担し、天子を捕え、王侯を殺害し、姫嬪を略奪して妻妾としました。司馬睿からすれば、閣下の罪状は閣下の髪の本数全てよりも多いくらいに思っているでしょう。晋の他姓の将軍ならともかく、司馬一族の者とは交渉が不可能です」
言われてみればそうである、と石勒も思う。
「じゃあ、寿春に攻め入ろうぜ! 夜襲だ、夜襲」
張賓は首を横に振る。
「それも、疫病が蔓延し、多くの兵と兵糧を喪った今となっては、勇敢ではなくただの無謀な行いです。それに草の者を放って寿春を探らせましたが、誰も帰ってこなかった。司馬睿という者、他の司馬一族と違って、中々に優れた将のようです。夜半に奇襲をかけたところで、周到な防御の前に撃退されるだけでしょう」
「和議も夜襲もダメって、他になんかあるかよ?どうするつもりなんだ」
「撤退します」
「えぇー?」
「そもそも、王弥を誅殺したあと、この地に拠点を築くべきではなかったのです。天は長雨を四方数百里にわたって降らせることで、閣下がここに駐留したことが誤りだったと知らせています。やはり、鄴を拠点とすべきなのです。鄴には堅固な三台があり、西は平陽に隣接し、四方は山河で囲まれ、要害の地勢をそなえています。急ぎ戻って、鄴を拠点として割拠すべきです。晋が寿春にこもっているのは、閣下の進撃を恐れているからにすぎません。ですから、いま、我々が軍を転進させたと知っても、敵が去ったとの喜びが先に立ち、追撃にまで頭が回らないはずです。輜重だけをまずまっすぐに北進させ、本軍は寿春に向かってしばらく睨み合い、輜重が十分に離れてから、本隊も引き上げるのです。そうすれば、進退きわまることはありません」
「撤退……か」
「閣下が、大志を抱いておいでならば、この策をもって他にはありますまい」
石勒はにわかに立ち上がり、耳を澄ませた。
遠く鄴の方向から、角笛の音が聞こえた。
「よし。張賓の計略が正しい。俺は鄴に戻る。撤退の準備だ!」
石勒が張賓を右長史とし、目上の者に対するように常に彼を右に座らせ、右侯と呼び習わすようになったのはこの事があってからであった。
◇
輜重が十分に離れ、本隊が撤退を始めると、寿春に布陣していた晋軍からは歓声が上がり、笛や銅鑼の音さえ聞こえた。
しかし、しばらくすると城門が開き、小舟に乗った兵士達が追撃をかけてきた。
「ちょ、右侯?」
予想外れたじゃん、という顔で見てくる石勒を、張賓は難しい顔をして見返す。
「司馬睿という者、私の予想を上回る傑物のようです。後々に大敵として立ちはだかるやもしれません。今回、討ち取る機会に恵まれなかったのは残念でした」
背後から甲高い声が響く。
「アニキッ! 俺が役に立つときがきた! 殿、やらせてくれ」
後ろにいたのは、戎装して馬に跨った、フー改め石虎だった。
「お前、殿は一番危険なんだぞ」
「わかってるよ。だからこそ、やるんだ。みんなに俺を信用してもらう」
石勒が石虎を許してからも、仲間を傷つけられた兵士達は石虎に冷ややかな態度を取っていた。
確かに、良い機会かもしれない。
「よし、石虎将軍。汝に殿をまかせよう」
「ははぁッ!」
本隊が退いていく中、船で晋軍が浸透してくる。
石虎の馬は水飛沫を上げながら馬脚の半分まで水に浸かる。
石虎は馬上で弓を引き絞り、矢を放つ。
弾弓で磨かれた石虎の弓の腕は若年ながら名人の域に達しており、その矢は晋兵の目を的確に貫いた。
石虎はさらに馬を進めると、その背から晋軍の船へと飛び移った。
動揺する兵士達が反撃をする前に、凶刃が振るわれる。
血飛沫の中で少年の笑い声が響く。
「ぎゃはははは! こんなに楽しいことを大人はやってたのかよ」
船から船へと飛び移る妖怪のような石虎に追撃の勢いが鈍る。
「石虎殿、もう十分です。お戻りを」
若い兵士が石虎を呼ぶ。
「なにぃ、まだまだぶっ殺すんだ俺は」
「周り、周り見てください」
殿として石虎とともに残された兵士達のほとんどが既に死体となって水面に浮かんでいた。
押していたのは、石虎その人だけだったのだ。
「ね、わかったでしょ。もう逃げましょうぜ」
「負けたのか、俺たちは」
「十分に役目は果たされました。私が石虎殿の働きぶりの証人になりましょう」
石虎は悔しがって唸り声を上げたが、すぐに落ち着くと馬を返して戻り始めた。
「あんた、名前は」
「麻秋です」
「覚えておくよ。俺がエラくなったら、引き立ててやる」
麻秋はなんて生意気なガキだと思ったが、その内心を隠して微笑んだ。
いくらかの犠牲を払いながらも石勒は撤退に成功し、鄴に向かって進軍していった。
その進路は完全に漢、そして皇帝劉聡の命を違えており、石勒はますます独立の風を強めることとなった。





