強い日差しの中で、僕はどんどん黒くなる
糞みたい強い日差しが僕に突き刺さる。
小麦色をとうに越えて、これ以上黒くなるとは思えない肌が赤黒く染まっていくのが分かる。
坊主頭から流れ落ちてくる汗が僕の目に鋭い痛みを感じさせる。
空を見上げる。
雲一つない糞みたいに綺麗な青空が僕の頭上にはあった。
声はもうガラガラだ。
両手を挙げた僕に監督は一瞥をくれ、ゆったりとしたスイングから、ありえないぐらい伸びる打球を放ってきた。
カーーン。
心地よい音が聞こえる。しかし僕にとっては地獄への架け橋としか思えない音だ。
乳酸が溜まって満足に走れない僕の頭上を真っ白なボールが飛行機雲を描くように超えていく。チームメイトの揶揄する声が聞こえ、慌ててボールに縋りつく。
頭が真っ白になり、今一瞬自分がどこにいるのか、なにをしているのか分からなくなる。
疲れは優にピークを過ぎて、頭を使って行動することはもう出来ない。
だが、酷使し続けている体は脳の命令がなくても反応するのか、縋りついたボールを握り、すぐそこまで迫ってきていたショートの太田につんのめりながら送球する。
あっ
気づいた時にはもう遅かった。
ボールは大きく太田から逸れた。
太田はそんな僕に侮蔑の念を込めたような視線を一瞬し、すぐに逸れたボールを拾いに走った。僕はその場に棒立ちになり、太田の背中にある「6」という数字をただ見つめていた。蝉の声が遠くに聞こえる。まだ練習は始まったばかりである。
突っ立っている僕に向かって監督が意味の分からない言葉で怒鳴る。僕もそれに対して意味のない音を発して、罰である腿上げジャンプをその場で100回行う。
息切れしながらレフトの定位置についた時に後輩の永田がバカにするような目で僕を見る。僕はその目にいらつくことも放棄して、ぼうっとした顔で永田を眺めた。そんな僕に興味すら失ったのか永田は大きく手を挙げ、監督の打球をいとも簡単に処理して、ダイレクトでキャッチャーまで投げて見せた。
僕の後ろに回った永田は鼻の穴を大きく広げ、フガフガと興奮したような荒い鼻息を上げていた。真黒な顔にぎょろっと動く白い目玉、そして鼻息と共に上下する団子っ鼻。お世辞にもカッコイイとも言えないし、どちらかと言うと不細工な顔だ。けど、僕にはなぜかその顔が光輝いてカッコ良く見えた。無論、汗もドバドバかいているわけで物理的にも汗が光を反射しているのだが、それだけではなく彼の顔から、いや表情から、光り輝く物質が出ているようだった。
僕はその永田の顔に苛立ちながら、ノッカーである監督に顔を向ける。きっと僕の今の顔は、全く光り輝いてはいないだろう。そんなことを少し自嘲しながら考えていると、またボールが飛んでくる。
そのボールはまた僕の頭の上を通過していく。
慌てて追いかける僕に、また怒声と冷ややかな目がぶつかる。
振り返って走る僕に、永田はどんな視線を浴びせているのだろうか。
一体僕はいつから、こんなに自嘲しながら野球をするようになってしまったのだろうか。
日も沈み、辺りが暗くなりはじめ、街灯の下で虫がギチギチと鳴き出した頃にやっと今日の練習メニューが終わった。
やっと、やっと、辛いとしか言いようがない練習が、野球が、終わった。
チームメイト達は制汗剤と汗の臭いにまみれた部室の中で、監督への愚痴と仲間たちへの他愛もない雑談で大きく盛り上がっている。臭いはキツイし、しゃべっている中身も低俗で汚い笑いが鳴り響いている。
汚くて臭くて、低俗で最低で、だけど僕にとってはかけがえのない最高の場所で、最高の時間だ。いつもなら、ここでのバカ話で今日の出来事は全て忘れて、明日頑張ることが出来るはずだった。
でも今日はその時間すら辛かった。
今日の話の中心にいるのは、あの永田だった。
永田はガハガハと最近、良い仲になっている、女の子の話を得意げにゆうゆうと話している。申し訳ないが、あの顔のどの部分に彼女が惚れたのかは理解しがたいが、それでも永田にそういう仲の女の子がいる、というだけで今の僕は劣等感しか持つことが出来なかった。
永田の話が女の子の話から、野球の話になった時にチラッと皆の視線が僕に集まったのが分かった。
僕は気恥ずかしさを紛らわせるために首を下げスマートフォンを弄る。
手元の画面がバッキバキに割れたスマートフォンから光が屈折しまくりながら僕の目に入ってくる。目の前がチカチカするような錯覚に陥り、スマートフォンを映る映像が全く頭に入ってこない。
制汗剤をたっぷり使って体を冷やしたはずなのに、体の芯が火照り、内部の臓器からベタつく酷く臭い、液体がドバドバ出始めてくるのが分かる。その匂いが誰かの鼻を刺激し、顔を歪ませるのではないかと、考えながら、この時間が過ぎるのをじっと待つ。
ありがたいことに話の内容は、最近の永田のプレーを褒めるだけで終わった。いつもなら多少誰かを弄って笑いにする、チームメイトも僕の不甲斐なさにはなにも触れず、永田だけが調子に乗る時間がただただ過ぎて行くだけだった。
チームメイトは散り散りに帰路についていく。僕はいつもの帰るメンバーと共に、ゆっくりと自転車のペダルを漕ぐ。
家に帰る時ぐらいは、このメンバーから離れて、たった一人で居たい。
たった一人で自分のことを見直したい。
たった、一人で、自分より年下の
だけど僕より、上手いあいつを、下に見下したい。
でも僕には、その権利すらないだろう。
簡単な話がある。
あいつより練習して、あいつより本気で取り組んで、あいつより努力をすれば、絶対にあいつの上に立てるだろう。
もうあいつにあんな目で視られることもないだろう。
練習して、努力して、上手くなれば、僕の前をいつもと変わらないペースで、自転車を漕ぐ、このチームメイト達に心配した目、小バカにされた目、冷ややかな目、目、目、目、を向けられることもなくなるだろう。
そんなことはいくらでも分かっている。
そんなことを考えられないぐらいバカな頭でもない。
でも、出来ない。もう努力が出来ない。
いやもしかしたら、努力をしていたことすら僕が歩いていた、道にはなかったのかもしれない。
わざと、ゆったりとしたペースで自転車を漕ぐ。前にいるチームメイトとは、徐々に距離が開いていく。いつの間にか真っ暗になっている世界に、僕の自転車から伸びるライトの光が、僕の目の前だけをぽっかりと照らす。
僕は後ろを振り向く。
後ろには墨を溢したような真っ黒の世界しかない。目を凝らしてもなにも良く見えない。
慌てて、自転車のペダルを強く踏み込む。前に追いつこうと、追いつこうと、ペダルを漕ぐ足に力を入れる。尻が上がる。息も上がってくる。足の筋肉が今日の練習も相まって、悲鳴を上げる。汗が額から頬をつたり、顎から地面に落ちる。
まだ追いつかない。
焦る、焦る、汗る。
やっと追いついた時の僕の姿は、それはそれはみすぼらしいものだっただろう。
ハアハアと息は絶え絶えで、顔は汗まみれで、ギョロッギョロッと目玉が定位置を定めるように動いて、だけど目は死んでいて…
チームメイトは僕に浮いたような笑顔を一つ向け、
「いやお前どこ行ってたんだよ。探したわ」
と茶化すような声色で僕に話しかけた。
僕はその言葉に当たり前のように
「すまん。すまん。ちょっとぼうっとしてたら道を間違えたんだよ(笑)」
と、明るい声色で返す。茶化す声色には、そこぬけの明るい声色で返す。これが僕の学んだ生き方だ。しかも、言葉の最後に少し笑いを入れ、自分の行動を笑いでなんとか済まそうとする。
きっと皆気が付いているだろう。
だが、それがどうした、こう生きるのが今の僕の全てだし。これが僕が導きだした正解だ。
チームメイトは僕のそのいつもと変わらない雰囲気で納得したのか、僕に納得したように見せたのかの真相は藪の中だが、その件ははそれで終わった。
いつもと変わらない帰り道を、いつものメンバーと、いつもと変わらないようについていく。毎日がそれの繰り返しだ。
その繰り返しについていくのが、精一杯の僕がどうすれば、成長できるんだろうか。
どうすれば野球が上手くなるんだろう。
どうやれば、ライバルを蹴落として、レギュラーになって、試合で活躍して、相手チームを倒して、『勝つ』ことが出来るのだろうか。
家に帰っても毎日、毎日、毎日こんなことを考えてしまい。すぐ明日が来る。
普通の高校野球部の部員なら、そんなことを考えないで、ただただ我武者羅に素振りを何百回もやり続けたり、ウエイトトレーニングをして己の能力をひたすら、ただひたすらに磨きあげるだろう。昨日より今日、今日より明日、そうやって成長し続けるだろう。
自分のマックスを、天井を、上限により、近づいて、それすらを超えようと努力が出来るのだろう。
残念ながら、僕にはそれが出来ない。
負け犬と呼ばれるのは、仕方ない。逃げ癖があり、嫌なことからすぐ目を背ける奴。そう言われても仕方がないだろう。出来ないのだから、なにを言われても仕方がない。
勝負の世界に生きる人間としては、致命的かもしれない。こういう人間がチームに一人いるだけで、チームの士気が下がり、迷惑をかけるかもしれない。そういうとは、勿論分かっている、だけど野球を辞めるという選択肢も僕にないのが事実だ。
こんな本当にどうでもいいことを考えていると、某テレビ局が流している、深夜の甲子園特集が流れた。あーそうか、今日甲子園は決勝戦だったんだ。
もうそんなことすら分からなくなっていた。
自分に自嘲しながら、テレビから流れてくる高校球児の映像を眺める。昔はこれに出てくるお兄さんたちに憧れていたことをふと思い出した。
憧れを持つことは、出来た。でも憧れを与えられるような選手にはなれなかった。
この決勝戦の後に流れる、タイアップ曲と今回の甲子園の総括の映像が僕は一番好きだ。
こんな自嘲して、生きている割に芯は単純なのだろう。
この年になっても、かっこいいものには憧れるし、泣ける演出をされると、心にグッとくる。
曲と映像が完璧にシンクロしている。
高校球児の煌びやかな表情がピックアップされる。
かっこよさと、そして泣ける演出が、僕の琴線に触れる。美しい高校球児の表情が今日の永田の表情と重なる。画面の向こう側の高校球児には、僕のような顔の選手は一人もいない。全員、一人一人が光り輝いている。
憧れと、リアルは違う。
僕がどれだけ努力しても彼らのような表情は浮かべられないだろう。
彼らのように光り輝けないだろう。
そんなの分かっている。
でも、でも、でも、僕も高校球児だ。
彼らとの肩書は一緒だ。
立っている、見ている場所は違えど、同じ「野球場」という場所でプレーしている。
野球が上手くなるのは、苦手だ。
努力は、苦手だ。
練習は、嫌いだ。
ミスした時にされる周りからの目は怖いし、嫌いだ。
暑いのも好きではない。
罵声しか起こらないグラウンドも、嫌いだ。
でも、野球は好きだ。
高校野球は好きだ。
野球をやるのが好きだ。
野球を見るのも好きだ。
昨日より今日、今日より明日、という未来志向を、僕は出来ないし、やらない。
けど、今日に精一杯しがみつくのは出来るし、やれる。
某番組が終わり、テレビの画面は真っ暗になる。
そのテレビに、真っ黒な僕の顔が映る。
光り輝けない真っ黒な僕の顔だ。
もうすぐ、日が変わる。
明日になる。
今日から、明日になる過程で僕はなにも変わってないだろう。
野球も上手くなってない、自嘲癖も治っていない、きっと明日もみんなに迷惑をかけるだろう。
あの後輩は僕をバカにした目も変わらないだろうし、僕が自分が下手なことを棚に上げて、あの後輩にイラつくことも変わらないだろう。
でも、でも、でも…
少しでも、少しでも、少しでも…
今日に、明日にしがみ続けることは出来るだろう。
いや、もしかしたらそれしか出来ないのかもしれない。
やはり僕の自嘲癖は治らないな。
でも、それでいい。
そう思うとともに、体は睡眠を求めて、意識はあの真っ暗の世界を求めて、落ちていった。今回の真っ暗な世界は怖くはなかった。
また、明日が来る。
朝、早く起き、仕度して、家を出る。
いつもと全く変わらない。
これが、THE高校球児の夏だ。
出かけざまのテレビから、音が聞こえる。
「夏の終わりが近づいてきましたが、今日の気温も30度を超えます。熱中症には、注意して、外での活動は控えてください」
その言葉を背中に聞きながら、蝉が五月蠅く泣き叫ぶ、外に飛び出す。
もう日は昇っており、辺りは明るい。
僕は、自分の自転車にまたがり、勢いよくペダルを踏み込む。
タラッと額に汗が伝う。それを袖で思いっ切り拭い、より強くペダルを漕ぐ。
今日も一日練だ。
また熱いあの時間が始まる。
糞みたいに強い日差しが突き刺さる。
僕はゆっくりゆっくりと黒く黒く、染まっていく。
ああ、夏だ。
糞みたいに暑い夏だ。