未来図
ダンダンと体育館に響き渡るバスケットボールが、床に打ち付けられる音。体育館から溢れ出す、至る所から発せられる掛け声。放課後の体育館は、喧騒に包まれている。その光景を一望できる二階の観客席から、柵に腕を掛けて眺めている二人の男子高校生。
「あーなんか、青春だねー」
「優、お前はジジイか!」
黒縁の眼鏡を掛けて明るい髪色の小柄な男子の言葉に、素早くツッコミを入れる背の高い細身で黒髪の男子。
「奏太、だって、ほら。あそこ」
優の指差す方向には、汗を流して、素振りを繰り返している卓球部の姿があった。
「あー、あれね。今日は体育館が使用出来ない日なんだろうな。きっと」
「青春だよなー」
「だから、どこがだよ。弱いから体育館の使用を制限されてるんだぞ。体育館の隅で、こそこそと素振りするしかないんだぞ。それのどこが青春なんだよ」
呆れ返った奏太はクルリと体をひねり柵を背にする。いい加減、飽きてきた。気になる女子がいるわけでもなし。クラスメートであり親友の優と、時間つぶしに眺めていただけなのだから。
「いいか、奏太。これは人生の縮図なんだ。花形のバレー部やバスケ部には群がる女子の声援がある。体育館の使用も当たり前に毎日あるんだ。それに比べて弱く目立たない卓球部は、交代制でやっと居場所を確保出来ている。弱いのは、毎日存分に練習出来ないからなのに。弱い者はいつまでたっても弱いままだし、強い者は更に強くなる。強者は女子の好意を向けられ、弱者は見てもらうことすら出来ない。いつまでたってもこの関係は崩れない。これこそ人生の縮図だろ?」
「じゃあ、その人生の縮図とやらを、高みの見物みたいに眺めているが、実は強豪のサッカー部の練習に耐えきれずに、入部早々に退部して、帰宅部やっている俺たちはどういう位置にいるんだよ」
天を仰ぎ、大袈裟にため息をつく奏太。二人はいつもここで下界を眺めているわけではない。
今日は懇談があって、母親との合流の為、ここで時間を潰していただけだった。優ももちろん右に同じである。
詩人ぶって世の中を嘆いて見せているけれど、本当の底辺は俺たちかもしれないと奏太は思っている。成績も並、部活は帰宅部、彼女がいるわけでもない。気になる女子がいないわけでもないが、そこまで熱くなっているわけでもない。上手くいって彼女が出来たら上等だと思っているだけで、自らアクションを起こしたことなどない。
こういう奴はどこにでもいて、さとりだなんだの言われて非難されようが、素知らぬ顔して世の中を渡って行くんだろう。
今日の懇談だって明るい話が待っているわけでもない。希望する大学はC判定。そこだって自らの成績の少し上を選んで、様子を見ていただけで、切望しているわけでもない。きっと担任は少しレベルを落とすように言うだけだろう。そこに光輝く未来があるわけでもない。
この先には、ただただ平凡な大学生活があるだけだった。こうやって汗を流し、黄色い声援を当然のように受けている一部の人たちを横目に、自分の人生を歩んで行くだけだろう。
「俺たちはー、まあ平凡な人生をコツコツこなして、ソコソコの幸せを噛み締めて終わるんだろうな、一生を」
優も天井を仰ぎ見る。そこには輝かしい未来図などないかのように。
「夢ねえなー」
奏太も夢などないが、そう言い切られると反抗心が芽生えてきた。
「だろ!?」
急に、優のテンションが上がる。それぞれの部活に汗水流して、青春を謳歌している人達に、すっかり背を向けていた奏太の両肩をガシリと掴んで、優は奏太の瞳を見つめる。
「な、なんだよ。突然」
「それだよ。このまま何気なーく、ダラーっと人生を終わらせていいのか?」
「いや、まだ終わりじゃないし、これから先も長いんだし」
確かに思い描いた人生は、ダラーっと何気なく過ごすことになりそうな気はするが、面と向かって言われると否定したくなる。
「んなこと言ってる間に、人生なんてあっという間に終わちゃうんだよ。いいか、今なんだよ。今しかないんだ。青春だぞ。ジジイになってやろうと思ったって出来ないぞ」
「そりゃまあ、そうだけど。まだ大学生活もあるし……」
そうだ、何も急ぐことはない。それに高校生はまだ子供扱いだ。自由度なんて大学生の比ではないだろう。第一、もう高三が終わる直前だ。ここにきていきなり青春を持ち出されても、何をするんだ? というか、何が出来るんだ。
「大学生になれば大学生なりの青春があるんだ。ということは高校生には高校生なりの青春があるはずだ!」
優は奏太の肩をブンブン揺さぶりながら力説する。声にも力がこもっていて、声の大きさも体育館の喧騒に負けないぐらいだ。
「はずだ、って言われても、今更何をするんだよ。もう卒業間近だぞ」
すでに体育館にいるのは三年を除いた一、二年だけ。三年は受験に向けてすでに部活から身を引いている。
「それは……ノープランだ」
ガクッと奏太の肩が下がる。なんだよノープランって。
「はいはい。わーったよ。なんかいいプランがあったら聞いてやっから。そん時に話しようぜ」
「じゃあ、考えとくな」
優は熱く語った割にアッサリと引き下がった。
と、そこに奏太の携帯の着信音が鳴り響く。携帯の画面には母の文字が。
「もうこんな時間か。じゃあ、優、また明日な」
優にそう言い残して奏太はその場を離れて携帯に出る。
「もしもし。今、どこ?」
「また明日か……」
奏太の背中を見送る優は呟いた。その声はあっという間に周りの音にかき消された。
「な、なんだよ。そんな話……聞いてない」
朝のホームルームが始まってすぐ、奏太は立ち上がり担任の吉岡に食ってかかった。
「高木の口から何も聞いてないのか?」
奏太が高木優と仲が良いことは担任も知っていた。奏太は優の身に起きたことを把握出来ずにいた。
「な、なんだよ。昨日もいつも通り……、普通だったのに……」
「そうか……、高木は何も言わなかったのか」
奏太はガックリと肩を落とし、机の両端を握りしめた。
「そんな事って、ありかよ……」
奏太は昨日の優の言葉を思い返した。『いいか、今なんだよ。今しかないんだ』優には昨日のあの瞬間の『今』しかなかったんだ。『高校生には高校生なりの青春があるはずだ!』これは優の心の叫びだったんだ。優にとって、青春は昨日までだったなんて思いもしなかった。
「高木は言い出せなかったんだ。田辺わかってあげろ」
「一言、言ってくれたら、なんだって付き合ってやったのに……」
「付き合う?」
静まり返っていた教室がざわめく。
「あいつは青春を……高校生らしい何かを最後にしたかったんだ。その言葉を俺は受け流してしまった。当たり前だと思っていた未来を語って」
奏太の頬に涙が流れる。流れ落ちた涙は机の上に水の粒を作っていく。
「そうか。本当に高木は何も言わなかったんだな。ご両親が交通事故にあって亡くなった事も。親戚に引き取られ、今日、引っ越す事になったのも。卒業後に就職するって話も」
「そんな事っ!」
急に言われて納得出来るかよ! という言葉を飲み込み、奏太は急いで鞄から携帯電話を取り出した。先生の前だろうと関係ない。この際、校則なんてこと言ってられない。すぐに優にLINEを送る。
『どういうことだよ! なんか返事返せよ』
LINEのメッセージが、既読にならない事にイライラする前に、担任がこちらに向かって来る。
「おいおい。お前な。田辺。いくらなんでも担任の前で、堂々と携帯出して来るなよ」
「ちょ、待って」
奏太は立ち上がり、担任から距離を取り、優に電話をかけてみる。
「出ろ。出ろよ。優」
「お前なあ」
耳に携帯を付けたまま、近づいて来る担任から離れ時間を稼ぐ。
ププッ……ププッ……ププッ……プッ
「おい! 優!」
『おかけになった……』
「う、嘘だろ」
奏太の耳に聞こえて来たのは聞き慣れた優の声ではなかった。もう優には連絡すら取れないのだろうか?
「こんな時に悪いが、校則だからな。これは没収だ」
呆然と立ち尽くす奏太の手から、担任は奏太の携帯を取り上げた。けれど、奏太にはそんな事どうでもよかった。頭の中には、優の顔とさっきの声がグルグルと回っている。どうやれば、優と話をする事が出来るのだろうか? その事だけが奏太の中に巡っていた。
「田辺。携帯は放課後に職員室まで取りに来るように……」
その時、奏太には一筋の眩しい光を見た。そうだ!
「なあ、優の新しい連絡先知っているんだろう。先生!」
そう、担任ならばもちろん知っているはずだ。なぜ気がつかなかったのか。焦っていた心がスーッと落ち着いていく。
「ん? 田辺。高木の携帯は? ……まさか通じなかったのか?」
先程まで、のんびりと規則を守る事を第一に考え、こちらの事情に割って入る事を、ワザとしなかったとしか思えない態度だった、担任の吉岡先生が、今度は少し焦っているようだった。
「通じないよ。だから、こんなに焦ってるんだろう?」
「でも、高木は携帯は使えるようにしておくから、友達やなんかはそっちに連絡出来るようにしているって……」
今度は吉岡先生が狼狽し始めた。
「通じないよ。ほら」
いつの間にか吉岡の手から奪取していた携帯で優の番号にかけてみる。もちろん答えは変わらない。だが、新たな道筋を見つけた奏太に焦りはない。だから、一層、吉岡先生の焦りに気がいく。吉岡先生は何をそんなに焦ってるんだろう。
優の番号へとかけた携帯を、吉岡先生の耳元に当てて奏太は様子を伺う。これでハッキリしただろう。あとは吉岡先生から優の新しい連絡先を聞くだけだ。全く焦らせやがって、優の奴め。言いたい言葉も、言わなければいけない言葉も、言いたくない言葉も、いろいろ浮かんでは消えていくけれど、言うべき言葉が見つかった事で頭の中の大混乱は少し沈静化したようだ。
「高木の連絡先は教えられない」
落胆した様子の吉岡先生はこちらを見て言った。
「はあ? どう言う事だよ?」
先程の焦りが先生の表情で募っていく。
「高木は携帯が使えるから、親戚の家の番号を教えたくはないって言っていたんだよ。親戚の家には少の間しかいないからって」
「どう言う事だよ! 別にいいだろ友達だったんだ。教えられないわけないだろ?」
「いろいろ法律上の事があって、本人の了承が取れない連絡先は教えられないんだ。すまない。田辺」
暗い表情になった吉岡先生はもう俺から携帯を取り上げようとはしない。それが何を意味するかは気づかないわけにはいかなかった。
担任の言葉にざわついていた教室が静寂に包まれた。ただそこには、奏太の咽び泣く声が響いていた。
『このまま何気なーく、ダラーっと人生を終わらせていいのか?』
奏太は優の歩みたかった未来図を想い描いてみた。
「優、何がしたかったんだよ。叶えてあげられないだろう。こんな別れってないだろう?」
涙の粒が大きな塊になっていく。いくら涙を流しても、奏太には優の願いは叶えてあげられない。昨日という日を取り戻すことは出来ないのだから。