Bright Light
びょう、と唸りを上げてサインボードが鼻面をかすめていった。
のけ反って躱した直後、イズマのそれが旋回して運動エネルギーを高め、軌道を変えて落ちてくる。
痛烈な足払い。
ボクは必死に、そして即座に横転してそれを躱す。
キツイぞ、こいつは。
甘くみていたわけじゃない。
舞台上の稽古であるからには、事前にアリバイとしてのウォームアップが欠かせない。
そんな理由で、ボクらは小一時間かけ、アップを行った。
開店の準備を進める店のコたちが、仕事が手につかない様子でそれを見ていたのを憶えてる。
イズマは着崩したスーツの上着だけ脱ぎ、ワイシャツにベスト、革靴のパンツルックでヤるつもりらしかった。
ハンディキャップでもつけているつもりなのか、とボクはいぶかったが、たぶんそれは違う。
こういう服装でも、十二分以上の戦闘能力を発揮できるよう訓練された、そういう職業なんだ。
ジャケットをガルニエさんに預けるとき、左脇からホルスターを外すのが見えた。
護身用のスタンガン――なんてちゃちなもんじゃない。大口径ハンドガンと予備マガジン。それから、小さいけれど殺傷目的としか思えない形状のナイフ。
そのときになって、ボクは背筋に冷たい戦慄が走るのを感じた。
このヒト、裏社会の人間じゃない。
裏側を装っているだけの――表側の明らかな暴力を生業とする――つまり、軍人なんだって。
PMSC――民営化された戦争代理人たち。
時代が望んだ新しくも古めかしい職業の男たち。
「どうしたい、坊や。やめるならいまのうちだよー?」
ワイシャツの袖から豪奢なカフスボタンを外しながら、イズマが言った。
手近なテーブルをバーに見立てて身体を伸ばす。
恐ろしく柔らかい。
シオンと、もしかしたら張りあえるくらい。
ボクは知っている。
スーツや制服のままサインスピニングの挑むのがどんなに困難か、を。
ボクもル・クロ・デ・フェのスピナーでいるときは、そこの給仕スタイルで踊るからだ。
ワイシャツ、黒のタイトなスラックス、それから腰巻きのエプロン。
だから、そのウォームアップを見ただけでわかる。
このヒトは戦争の職業代理人であるだけじゃない。
プロだ。サインスピニングのプロフェッショナル。
「サインスピニング――経験があるんですか」
ボクは、聞いた。
「んー、むかしむかし、熱を上げてたことがあってさ。まあ、いまでも戦技訓練に取り入れたり――いっけね、こいつはダメな話題だったか」
キミィ、なかなかに尋問のプロだねえ。
そう言って浮かべたペラペラの笑顔の裏側に、経験に裏打ちされた確かな自信がうかがえた。
「ストリートネーム(通り名)。もしよかったら」
「聞きたいの?」
「はい」
どうしてだろう。
シオンにぶちかまされたあと、ボクは、変わってしまっている。
こんなに他者が、いや、サインスピニングに関わることが、無視できなくなってしまっている。
「そうだなあ、いろいろ名前を変えたからねー。あー、いちばん長く使ってたのは『ラダメ』だったかな?」
「!」
ラダメ、サクラコ、シルヴィス、ライカ――フィフス・クローバーに君臨した伝説の四人の王。
そのひとりだと、いうのか。
「あなたは――それじゃあ」
「あー、だれのこと言ってんの? ラダメ? フィフス・クローバーの四人の王?
バッカバカしい。そんなのはまわりが騒いで出来上がったヨタ話だよ。
ボクちんたちは若い頃、仕事がないから看板持ってただけ。
さらにそれが退屈でしょうがないから、廻してただけ。
クソみたいな人生を、ちょっとでも楽しもうとしただけのことさ」
過ぎていった連中を尊敬するのはいい。
でも崇めすぎんのは、百害あって一利なし、だぜ? イズマが言った。
「まあ、ただ、その意味では忠告しといてやるよ、若造。オマエがいまから相対するのは、そういうカビの生えた噂話の残滓だってつっても――たしかにそのとき、ストリートの伝説だったってことは」
ストレッチを終え、上体を起こす一瞬、ふたりしか聞き取れない間合いで、イズマはそう言った。
そして、ボクらは、いま、たった三メートル四方しかない戦場で互いの技と意地をぶつけ合っている。
「へえっ、ボクちんのコンビネーション躱すかー。《ダブルムーン・コンフェクション》――糖菓:双月――とでも訳せばいいのかなあ、ロスト・ランゲージであるところの日本語に倣えば。急激な旋回と上下への揺さぶりが一体となった華麗でスイートな技だろう?」
どこがだ、とボクは思う。
たしかに見ている分にはそうかもしれない。
イズマの手足はとても長い。
だから、そこから生み出されるスピンはストロークが長く、観るものに雄大な印象を残す。
大きく溜めが作れるからだ。生まれる軌跡の美しさは半端じゃない。
だが、バトルの相手として正対したとき、その印象は一変する。
間合いが、掴めない。
緩急のある長い手足から繰り出される重たいサインボードが、まるで嵐のように襲いかかってくる。
腕力でムリに軌道を変えているんじゃない。
流れに肉体を沿わすことで、いや、己が流れそのものになることでイズマは重いボードを自在に操っているんだ。
取り扱いに馴れるため行った試技で、頭ではわかっていたつもりでも、実践では違う。
さっきのコンビネーションも、実は躱しきれてない。
わずかに軌道に被った右足がダメージを受けていた。
たぶん、服の下は打撲と摩擦で、内出血し、いい感じに皮が擦りむけているはずだ。
だけど、立ち止まっているヒマはない。
痛みを知覚の外に置け!
ボクは自身に命じ、反撃を試みる。
「《ラス・オブ・サンダードレイクズ》ッ!」
「おっほっ」
「《ブレイズ・ウィール》ッ!!」
「うわっぷうわっぷ!」
楕円形のサインボードをもっとも長く使う突き込みから、手首の返しと重心移動を組み合わせた広範囲の斬撃――そして、一瞬でボードの重心位置に滑り込み、ミキサーのように回転させる。
広告戦略としてのこのふたつの技は、まず《ラス・オブ・サンダードレイクズ》で店名とアドレスに注目を集め、それを一瞬の斬撃で隠してしまい、そこから《ブレイズ・ウィール》の素早い回転で注意と興味を引き出し、釣り込んでおいて、最後にもう一度、店名を明示することで集客力を高めるものだ。
実際の格闘技と、バトルスピニングの違いは、連続性のなかに絡められた“魅せ技”としての意図的な“間”にあるだろう。
これは、暴力を行使しあう戦闘としての側面と、相手に己の技量と気迫を見せつけ圧倒するという芸術性の――類い稀なる融合を果たした競技なのだ、とボクは戦いながら理解に及んでいた。
それとも――極められた闘争は、こんなにも美しいものなのだろうか。
ボクたちは技を駆使しあう。互いが無傷ではいられない。
打撲、裂傷、擦り傷。
玉のような汗が、とめどなく吹き出し、流れ、飛散してライトに輝く。
酷使された肺が、酸素を求めてあえぐ、軋む。
全身の筋肉が、いつ果てるともわからぬ全開戦闘に酸欠を起こす。
消耗に供給が間にあわない。
いつ、痙攣が来て、立てなくなるか、続けられなくなるか、わからない。
ボクたちは、まるで鎖で繋がれたまま、己の生命と意地とプライドを賭け戦う古代の戦士たちのようだ。
矢尽き、刃折れ、それでもなお、己に残された最後の武器、盾と《意志》とで戦士たちは戦う。
そして、中世に生きた騎士たちの家紋は、この盾に描かれたものが始まりだとする説がある。
戦場で戦う騎士たちは、己の身分証明をそこに刻んだ。
サイン。
奇しくも、ボクたちの振るうボードにも同じものが刻まれている。
ああ――ボクは戦いながら、舞いながら、傷つけ、傷つけられながら、さらなる理解に及んでいる。
シオンの言葉の意味。
わたし自身を消し去ってやる、そして、わたしは、サインそのものとなる――ノーバディ、だれも、無視できないものに。
存在証明そのものに。
いまならわかる。
サインスピニングは、ただの競技じゃない。
ただの、退屈しのぎの遊戯じゃない。
いや、仮に、きっかけがそうであったとしても、スピナーたちの気づかぬ無意識の領域で、それはずっと囁いていたのだ。
ここだ、ここに、いるぞって。
証明しろ、己の実在を――無視を決め込もうとする世界に、って。
「ちぇーい、しゃらくせえめんどくせええええ――、キミィ、ほんとに一度見たら、憶えちまうのな。天才なんて、ビッグマウスだと思ってたよ。この短時間で、次々と技を見切られる。半端ねえ面倒くささだ。決まらねえじゃん」
背筋を伸ばし、ボードを脇に抱えた状態で、油断なく位置取りを変えながら、イズマが言った。
いったい何分、ボクらは戦ってる?
五分? 十分? やってみたらわかると思うけど、ほんとのリアルファイト、タイマンのセメントは、長くは続けられないものなんだ。
三メートル角のリングには、逃げ場なんてない。
息つくヒマさえ、ない。
だから、ボクはイズマの姿勢に彼の意地を感じた。
敬意も。
荒い呼吸。彼だって恐ろしく疲弊している。喋るのだってつらいはずだ。
だが、それを相手に見せるのは屈辱だ。
それは意地だ。スピナーとしての。
その証拠に、ボードでの攻撃は苛烈なのに、肉体的接触は一切ない。
ぜったいに相手に触れないまま、勝つ。
その気迫が、プライドが、互いの鼻先、数センチで回避しあう状況で、ひしひしと伝わってくる。
そして、同じく、ボクにも意地がある。
「おまけにそんだけ見えてるくせに、ボクちんの技ァ、ひっとつもコピーしてきやがらねえ。可愛くないねえ」
「ボクは、あなたから与えられた技で勝つ気はない」
「ついこないだまで空っぽだったヤツが、生意気言ってんじゃねえぞ。オメエのなかに、どれだけのオリジナルがあるってんだ」
「ボクは、これまで与えられ生きてきた。己の生まれの幸福、才能の、その意味をよく考えもせず生きてきた――《意志》を不在にしたまま」
その陽の当たる場所から立ち去ることが、特権を投げ出して逃げることが、せめてもの償いだと考えてきた。
「だけど、もう逃避行は終わりだ。終わりにする。ボクは、ここから始める。創出する。それを証明する」
「うっぜえーぞ、若造ッ!! できるもんならやってみやがれッ!!」
トサカに来たぜッ、とイズマは言った。
ガキだと思って、もう容赦しねえ、と叫んだ。
「学ぶまもなく、そのいい感じにヌルまったノーミソ、吹き飛ばしてやンよ!! よっく目に焼きつけろッ!! 次に目が覚めるときは病院のベッドだッ!!」
イズマがついに、彼の真情を吠えた。
そして、スポットライトを浴びながら、超高速で回転するサインボードが消えたようにしか、ボクには見えなかった。
描かれていた蝶の群れが、そこから飛び立って――。
「いいか、ボーヤ、こいつが伝説だ――《ムーンシャイン・フェイヴァー》」
その囁きを、ボクは最後まで聞き取れなかった。