prologue
ゴーン…ゴーン…
丘の上の教会の鐘が街中に響き渡る。
普段ならば、教会には街に住まう人々が集い、祈り、憩うところであった。しかし今は、誰の姿もなかった。
それは教会だけのことではなかった。近くにある街にも人の姿はない。街の様子だけを見れば、活気のある街そのものではあった。しかし、まるで人だけが忽然と消えてしまったかのようだった。
ただ、人の気配のない教会に、一人の男の姿があった。十字架の刺繍が左胸にある黒い神父服を着ている。この教会の神父だろうか。
窓や入り口の扉がぴったりと閉じられている暗い教会に、唯一の光がステンドグラスから差し込んでいる。その光は床のある一点を照らしていた。
ギィィィ
閉ざされていた扉が僅かに開き、誰かが入ってきた。目深くフードを被っていて、顔はよく見えない。性別も判断し難い。
「気は済んだか」
振り向くことなく、低い声で男は問うた。
「ええ。我が儘を言ってごめんなさい」
少し高めの声の主はフードをのけた。女だ。彼女は男に近付く。
「行く前に、ここに来ておきたかった。…全ての始まりであるここに」
「気にするな。俺も来るつもりだった」
そう呟くと、二人は黙り込んだ。
二人の間の沈黙を満たすかのように鐘は鳴り響いている。
「……鎮魂の鐘ね」
「ああ」
女は長椅子に座り、目を閉じて鐘の音を聞いている。
お互いの呼吸さえ聞こえない静寂の中に鎮魂の鐘の音だけが響く。
「ごめんなさい」
女がポツリと呟いた。男は女を見る。
「ごめんなさい」
女はもう一度呟いた。
何も映していない彼女の目は硝子玉のようだ。あの時以来、嘗ての輝きがその目に現れるのを見たことは一度もない。
「何がだ」
「貴方を巻き込んでしまったこと」
「気にするな。お前がしなくとも俺はやっていた」
男の言葉に女は小さく笑った。
「嘘だわ。私が言わなければ、貴方は平穏な日々を過ごしていたはずだもの」
男は僅かに眉を顰めた。
「俺が、協力者が居なければ何も出来ないような男だと言っているのか?」
「優しい人だと言っているのよ」
「俺がか?」
「ええ」
「俺は優しくなんてない」
「いいえ、あなたは優しい人よ。私の我儘に付き合ってくれてる。あなたに、そんな義理は無いのに」
「…………」
「本当にごめんなさい。でも、どうしても、私はあの男が許せない」
女はきつく手を握り締め、深く俯いた。ぎり、と歯を噛みしめる。
あの男が引き起こした惨状を今でも鮮明に思い出せる。
それは目の前が真っ赤に染まりそうなほどの憎しみを伴っていて。
あの男が理解していない己の罪の重さを知らしめてやりたい。
あの男を同じ目に合わせてやりたい。
あの男をこの手で……
あの時、力が無かった自分が苛立たしい…
「血が出る」
女が気づいた時には、男が目の前で膝をついていた。握り締めていた手は優しく開かれた。
男は心配そうな表情で、下から女の顔を覗き込んでいた。目が合うと男は少しほっとしたようだった。
「…………」
女は力を籠めすぎていつも以上に白くなった手の平を見た。爪の跡がくっきりと残っている。
「何もお前が責任を感じる必要はない。奴が悪いんだ」
「…………」
「あまり思いつめるな」
「………そう、ね…」
息を吐き出すと女は立ち上がった。
「行きましょう」
「ああ、そうだな」
男は女について歩き出す。
再び閉ざされていた教会の扉が開いた。
けれど。
二度と、その教会の扉が開くことは無かった。