08『事故』
それから一週間。相変わらず鶴ヶ谷と関わることのなかった日々を脱け殻のように過ごして一週間。やっと、俺は少しだけ立ち直れるような気がしてきた。ようやく諦めがついたのかもしれない。随分と時間がかかったものだ。
放課後。担任に押し付けられた大量のプリントを運びながら、足で雑に教室のドアを開け、教卓を目指してそのまま歩く。
「あっ!?」
ヤバい。教壇の段差が。
なんて思ったときには遅く、俺は既にハデに大量のプリントをぶちまけながら豪快に顔面を教壇にぶつけて床に倒れている。痛さのあまり声にならない。顔面が大変なことになっている。鼻がおれたかもしれない。泣きそうだ。いやもう泣いてるかもしれない。
「……ついてねえ」
なんとか痛みから立ち直ったところで、俺は教壇に座りげんなりと呟く。この大量のプリントを順番通りにしてまとめなければいけないのか。もう俺ではない誰かのせいということにしてバックレてしまいたい。逃げたい。
『……もう、バカ。大好き』
『俺もだよ。いや、愛してる』
現実逃避をしようと壁に寄りかかったら隣の教室からそんな声が聞こえてきた。耳を当ててるわけでもないのに聞こえてくるなんてどれだけでかい声で話してるんだ。或いはどれだけ教室の壁が薄いんだ。……いや、重要なのはそこじゃないな。
「いちゃついてんじゃねえよ、くそがぁぁぁぁ!! 家でやりやがれぇぇぇぇ!!」
魂の叫びと共に渾身の力を込めて、隣の教室でいちゃつく男女への憎しみを込めて、教室の壁を蹴る。ズダンッと中々激しい音がした。
俺の魂の叫びから少し間をおいて、隣の教室からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてくる。良かった。伝わったようだ。何が良かったのかよくわからないけど。
「はあ……虚しい」
どう考えても今のは八つ当たりだ。きっと今まで通りの日常を送っていれば、或いは俺が鶴ヶ谷と付き合えていたならば、こんな激しい壁ドンをすることはなかっただろう。八つ当たり。または嫉妬だ。そう、羨ましいんだ。羨ましくて妬ましいから苛々するんだ。
なんて冷静に考えてみたら余計に苛々してきて「クソッ」と毒づきながらもう一度壁を蹴った。足に衝撃が伝わって痛いだけで特になにも起こらない。何をやっているんだ、俺は。
「……随分と荒れてるね」
虚しくなってごろんと散乱したプリントの上に寝転がってみたら女子のスカートを下から眺める形になった。もう少し近かったらスカートの中身を見ることになっていただろう。いや、スカートの中身なんてどうだっていい。このアングルから見る脚が中々……じゃなくて。そうじゃなくて。
「つ、鶴ヶ谷!?」
俺の目の前に現れたスカートの正体、鶴ヶ谷咲は心底呆れたような口調で俺に言う。
「壁を二回も蹴ったりして、破壊衝動的な何かが疼いて抑えきれなくなったりでもしたのかな? そのお陰で哀れなカップルが慌てて教室を飛び出していったんだけど。いやあ、君の魂の叫びは廊下にまでバッチリ響いてたよ。あんな声も出せるんだね」
まずい。全部見られてた。否、全部聞かれてた。
「い、いや、違うんだ、鶴ヶ谷。あ、あれはだな」
しどろもどろになりながら、慌てて立ち上がり俺は弁解を試みる。しかし弁解の余地はない。カップルに苛立ったから壁に八つ当たりしたという事実に弁解もなにもない。
しかしこのままなにもしないというのは何か嫌で、俺は久しぶりに鶴ヶ谷と向き合おうとする。
「いっ!?」
そこで、グリッと嫌な感触が足首を襲った。鶴ヶ谷の驚いている顔が、プリントに足をとられて滑っていく感触が、視点が勝手に動いていく様子が、全てがスローモーションに見える。まずい、このままだと鶴ヶ谷に激突しそうだ。鶴ヶ谷が怪我をするという最悪の事態はなんとか免れたい。そう思い、俺は両腕を伸ばした。
「…………」
「…………」
両腕を伸ばしたのは間違いだったかもしれない。いや、ある意味正しかったのかもしれないが、これはどう考えても最悪だろう。
右手と顔面が触れる、柔らかい感触。
「……いつまで鷲掴んでるつもりかな?」
鶴ヶ谷の声が突き刺さる。
「いや、これは事故なんだ。だから、その」
夢の感触から慌てて顔面と右手を離す。ジト目の鶴ヶ谷と目があった。
「申し訳ありませんでしたッ!」
俺は誠心誠意の土下座で謝罪するしかなかった。事故とはいえ、女の子のおっぱいに顔面を突っ込み更に鷲掴みにするなんてどう考えても最悪だ。