第三話 郵便物
バルガルネ鉱山地帯を巡る多国間の戦闘が続くシューグリス王国北部の戦線とは異なり、ヴァンハイム要塞、激流と名高い長大なオルポト川が流れる西部では緩やかな膠着状態が続いていた。開戦初期こそは国境が接するフォルマ帝国軍が西部からの進攻を試み激戦が続いたが、フォルマ帝国軍が手痛い損害を受け後退した今、北部に比べれば天国のような地域だ。
そんな地域で兵站地や軍事施設の建設を行う第三工兵連隊から派遣された第四戦闘工兵中隊の隊員が道幅に広がりながら兵舎への帰路についていた。隊員達が一日の作業の終わりを喜ぶ中、2人の男だけはまだ作業を行っている。
「あぁ、この匂いは溜まりませんね。中隊全員分ですよ」
2人のうちの1人であるオルトマンは口と鼻にスカーフを固く巻き、涙目になってその容器を見ていた。その容器は人体からの廃棄物である屎尿が貯められている。
同様にスカーフで顔面を覆った2人の内もう1人であるウォルターも「ああ」と短く返事をして同意した。
中隊規模の人員になると一日に出される排出物の量は莫大になる。畑の肥料にもなる人糞だが、使用するまでにはそれなりのプロセスが必要だと元農民であるハンナがウォルターに力説してくれた。時間を掛けて十分な発酵が成されていない屎尿は、畑に根腐れを起こす。中隊全員分の屎尿を発酵させるには、管理する人員も時間も足りなかった。
最前線では屎尿の処理には水属性魔法持ちのマジックユーザーが使われることが多い。勿論進んでこの作業をするものなど皆無だったが、衛生面から感染症を防ぐためにも重要な任務であったために続けられており、そんな作業をウォルターが所属する中隊でも行っていた。勿論、作業従事者にはそれなりの手当てがあったが、当人であるオルトマンもウォルターは乗り気ではない。
普段であれば水属性魔法持ちと兵の2人で担当するのだが、『小隊を率いる士官たるもの率先して部隊の前に立つ』という風潮を強引に捻じ曲げられ、士官であるウォルターも一度きりという形で、この作業にあたる事になってしまった。兵に信用されない士官は現場では悲惨な末路を辿ることを、身を持って知っているので、ウォルター自身も乗り気はしないが納得はしたことだ。
大型の容器の蓋を持ったウォルターもこの臭いには顔を歪める。戦場では嘔吐をもたらす様なはらわたの臭いを何度も嗅いで来たが、それとはまた異なる方向性を持った激臭だ。
「ウォーター少尉はいいですよね。土属性で、俺なんか水属性の魔法が使えたばかり、水を出させられ、水の浄化ばかりやらせられる」
今最も出会いたくないものと対面し、文句を言い出したオルトマンだが、結局は愚痴を言いつつも仕事をすることをウォルターは知っているから何も言わない。
蓋を地面に置き、ウォルターは一歩引いた。オルトマンは上半身シャツだけになると、悲痛な顔で容器に手を伸ばしていく。諦めにも似た表情だ。
「うっ」
容器内のモノに触れた途端、オルトマンは呻き声を上げた。何度行ってもこの感触には慣れない。何時までもこんなものに手を突っ込んではいたくない。詠唱を唱えて浄化を始めた。浄化した水は飲料水に使えない事も無いが、隊内の満場一致で生活用水には用いられていない。主な使い道は畑や作業中の放水などだ。
浄化の済んだ水はオルトマンの反対の手を伝って別の容器へと満たされていく。搾りカスから火薬を作る硝石を作り出すこともできるらしいが、ウォルターの中隊では製造は行っていない。
実際は30分ほどだが、数時間とも感じられる長い時間をオルトマンは体感していた。無駄な事は考えないで、浄化だけに集中する。スカーフ越しからの臭いがオルトマンの意識をかき乱すが、懸命に集中する。
長い格闘の末に、作業を終えたオルトマンは別に用意していた水で両腕を洗い出した。浄化の際に手の汚れも纏めて行っているので、洗う必要は無いらしいが、精神的な問題で作業後には別の水で洗うようにしているそうだ。その気持ちはウォルターも理解していた。
蓋を閉め、作業中に地面に垂れた汚水をウォルターの土属性魔法で地面ごと地中と入れ替え、作業は完了だ。オルトマンとウォルターは顔に巻いていたスカーフを取るとため息を付いてから深く息を吸った。
「ああ、やっと終わりました」
「よくやったよ。兵長」
項垂れるオルトマンにウォルターが声を掛けると、捲くし立てるようにオルトマンは喋りだした。
「何が悲しくて強面ハゲ中年やむさ苦しい筋肉達磨の黄金水やら汚物を処理しなくちゃいけないんですかね。美少女なら考えてやらないこともないですが」
「……」
強面ハゲ中年を誰を指しているかウォルターは何と無く理解していた。憎しみからでは無く親しみと冗談と愚痴が入り混じった結果がその単語だろう。普段のウォルターはそんなオルトマンの愚痴やブラックジョークの一つや二つは見逃していた。
オルトマンがいけなかったのは作業後気が抜けた事で、周りを見なかったことだ。ウォルターが黙り込んでいることを怪訝に思ったオルトマンが容器から顔を上げると、そこに立っていたのは夕日によって脳天が輝くワーランド大尉がいた。
「ねぇ、ウォルター少……尉?……お疲れッ様です。ワーランド大尉!!」
地面に座っていたオルトマンが飛び起きて、敬礼をした。眉一つ動かさずワーランドは尋ねた。
「オルトマン兵長、何をしている?」
逡巡するオルトマンはワーランドとウォルターの表情から最善の道を探ろうとした。結果、現在していた作業を伝えることにした。ここまで来たら同じことだ。ならばバレていないに掛けることにしたのだ。
「はっ、貴重な資源である水の再処理を行っておりました!」
ウォルターが視線を伏せた事によりオルトマンは失策だったと悟った。解答の時間が直ぐに来た。
「それはご苦労なことだ。ついでと言ってはなんだが、出来たての新鮮な黄金水があるからその再処理を頼む。残念ながら美少女のものではないぞ。オルトマン兵長」
「……了解しましたッ」
ワーランド少佐は言うが早いか踵を返して兵舎に戻っていく。
「オルトマン」
彼を慰めようとするウォルターは名前を読んで肩を叩いた。
「少尉、言わないでください。泣きたくなる」
肩を叩くウォルターの手を摑んだオルトマンは悟った顔で言った。
追加分の仕事後、ワーランド大尉は今度こそオルトマンに労いの言葉と、作業手当であるウィスキーを渡し、疲れ切っていったはずのオルトマンはウィスキーを片手に意気揚々と兵舎に帰っていった。
それから数日後の昼過ぎ。ウォルター達が宿舎周辺で待機していると、太陽によってできた巨大な影が地面を走った。
ウォルターが空を見上げるとそこにいたのは大鷲よりも遥かに巨大な生物。目の良い者ならその背中に人が乗っている事が分かる。
「あれは……飛竜郵便ですね」
太陽からの直射日光を避ける為に、目の上に手を当てて空を見つめるハンナが言った。兵士達が軽く手を振ると、手を振り替えしながら飛竜は降りてくる。風圧により着地地点の近くに居たハンナの茶色い髪が揺れた。
「見ろよ。腰に回転拳銃を2丁も付けてる」
背中にも片手でも操作ができる騎兵銃を背負っていた。個人の装備にしては過剰とも言えた。尤も、それだけ飛竜は貴重な存在なのだとウォルターは考える。
最近出来た制空権という概念は、飛竜無しでは実現できない。飛竜による爆撃、ブレスは装甲兵を初めとする全ての兵種にとって驚異一言だ。南方の国家群では飛竜の他にグリフォンを使う国もあるが、基本的には飛竜無しでは空の戦いは語れない。
ウォルターは行った事がないので分からないが、上空は全身が凍えるほど寒いらしく、目の前の竜兵もゴーグルをしっかりと付け、防寒対策に分厚い防寒具で全身を包んでいた。
「ふはぁ――」
息苦しそうにマフラーをズラした竜兵の顔は若い。続いて彼女は防寒具の中に収まっていた髪を引き出した。その髪は肩甲骨の辺りまで伸び、紐により左右二つに纏められている。
「郵便物の回収に来ました。一時間ほど滞在します。それまでに手紙を書いていない方は出して下さい」
不定期で郵便物の回収にやって来る竜兵だった。従来の馬よりも格段に早く手紙が回収されることで、兵達からは人気が高いが、あくまで操縦訓練の一環で行っているので、竜兵に手紙を回収して貰えるのは幸運だと言えた。
「それとお願いがあるのですが、飛竜に水をやりたいのです。頂けますか?」
飛竜乗りの視線は士官であるウォルターに向けられていた。整備用の服装であり、階級の分かるようなものは無かったのだが、雰囲気と周りの者の対応で士官だと竜兵は判断していた。
竜兵に選ばれるだけあって、流石の洞察力だとウォルターは感心させられた。
「ああ、そのぐらい任せてくれ。オルトマンはいるか?」
名前を呼ばれたオルトマンが渋々と返事を返した。
「ここにいます少尉。……もう嫌な予感しかしないのですが」
「この2人の戦友が飲み物を御所望だ。新鮮なヤツを頼む」
やはり予感が当たったと嘆くオルトマンだが、周りの雰囲気も手伝い、断る事も出来ずに水属性魔法を使い出した。
ウォルターは服の下から懐中時計を引っ張り出す。今となってはショートソードとこの懐中時計が残り少ないクロムウェル家の遺産だ。時間は11時20分を指していた。
「まだ早いが繰り上げて休憩にする。手紙が出したい奴は早くしろ」
各員は作業道具を片付けると手紙を出す為に散らばって行った。半数以上の兵は字を書くことも出来ないので、代筆を探し回っている。中でも字の綺麗なハンナに人気が殺到し逆ハーレムとも呼べる状態になっていた。
「ハンナ伍長!!」
「伍長殿ッ」
「自分の手紙もお願いします!!」
筋肉質の十数人の男に囲まれたハンナはうんざりした顔で叫び声を上げる。
「あー!! 書くから触るな、群れるな、群がるな。それじゃ椅子とテーブル、あと筆記用具持って来て」
指示を出された野郎共は一斉に兵舎へと駆けて行く。幼少期に一通りの教育を受けていたウォルターも字は書くことができるのだが、流石に士官に頼むほど図太い神経の持ち主はいなかった。
オルトマンがバケツの中に用意した水を飲み、リラックスしたのか飛竜はトグロを巻く様に丸くなると、イビキを上げて寝に入った。
「飛竜もイビキをかくんだな」
隊員が散らばる中、飛竜を観察していたウォルターは1人呟く。基本的に飛竜は爆撃や偵察を行った後は後方に下がるため、友軍と言えども飛竜を間近で見た事の無いウォルターは、飛竜がどのような体勢で寝るのか知らなかった。
「飛竜も馬とそう変わりないです。少尉殿」
視線をずらすとそこにいたのは、飛竜の操縦者である竜騎兵がいた。
「えーっと君は」
「第二竜騎士団第四隊所属のセリシア伍長です。とは言え、見習いが取れないので飛行訓練を兼ねて郵便配達を任されていますが」
地図を片手に新人の竜兵が郵便物を回収するのは、戦場で良くウォルターが聞く話だ。空爆や偵察で敵陣に侵入する竜兵が地図も読めず、迷ってしまったら一大事。1人で帰還することもある竜兵には地図の読み方が徹底されていた。
「第四工兵中隊第二小隊長のウォルターだ。よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ウォルターが手を差し出すとセリシアはしっかりと握り返して来た。
「少尉殿は飛竜は近くで見たことがないようですね」
「ああ、分かるか? 戦場じゃ急降下してくる飛竜しか見たことがなかったからな」
郵便を出そうにも祖国ごとクロムウェル家は滅亡している。親しかった者も何処にいるかもわからない。そう言った理由でウォルターは飛竜郵便には関わる機会がなかった。
「私も最初は飛竜の大きさに驚かされましたが、世話を目にしていくうちにようやく慣れました。どうでしょう。触ってみますか?」
セリシアの好意に頷き答えたウォルターは飛竜へ距離を縮めて行く。間近で見る飛竜は肉を裂く牙と爪により肉食という事を再確認させてくれた。無機質な装甲兵とは違う圧力が飛竜にはある。
そっと手を伸ばし背中の鱗に触れた。低音動物らしく冷んやりとした冷たさだ。感触は硬く、軽くノックすると生物の肌とは思えない響きが手に返って来る。鉄に近い強度があるとウォルターは踏んだ。
「退化した飛竜ですらこの硬さか、本物の龍は凄いんだろうな」
飛竜の機動性とブレス、土竜の体格と鱗を持った最強の生物だ。例えどの様な兵器を持ったとしてもアレには敵わない。人間が技術と知識を手に入れ、災害に対抗出来る様になったものの、決して天災には勝つことができない。バルガルネ鉱山地帯唯一の非戦闘地域は主に龍によるものだ。かつてフォルマ第六装甲師団が総力を持って龍を討伐しようとしたが、4日間の戦闘の末に待っていたのは師団の壊滅とすっかりと腹を満たした龍だった。
「装甲兵や大砲を使ったとしても、あの鱗を突破する手がありません。縄張りから出てくる事が無いのが救いです」
苦笑したセリシアが頭をかいた。
ウォルターとセリシアが他愛も無い話を1時間もするうちに手紙を出したいものは、どうにかこうにか書き終えたようだ。トップスピードで文字を書き続けたハンナは右手を押さえて、呻く。
「はぁ、手が……」
中隊の希望者からの手紙を纏めたセリシアは郵便を鞄の奥底に押し込み、念入りに口を閉めた。
「では、また会いましょう。お水、ありがとうございました」
力強く両翼を羽ばたかせ、砂塵を舞い上げながら飛竜は空中に浮くと、そのまま大空高くに飛び去って行った。
その様子を見えなくなるまで見守り、馬鹿みたい晴れた青空を最後に一瞥したウォルターは作業へと戻る。