逃走劇の始まり
――殺されてしまう! はやく、はやく、逃げなければ。
「あんのっ、くそ親父!」
高校の制服に身を包んだまま、日向は恨めし気に言葉を吐き捨てる。
絶対、後世で呪ってやると、強く心に誓った。
つっかえそうになる足をどうにか制して見知らぬ道をひたすら休む間もなく走る。
――逃げなければ、殺されてしまう‼
「どうしてわたしがこんな目に合わなきゃいけないのよっ!」
沸き立つ怒りを込めて大きな声で叫んだ。これも全て、自分の駄目な父親のせいである。
表通りから裏路地へ転がるように滑り込むと、中学から高校で鍛え上げた足を使って駆け抜けた。こんなところで脚力が発揮されるとは思わなかったが、それが幸いしてなんとか追っ手を撒く。
人生なにがあるかわかったもんじゃないと、日向は心底思った。
「なんで……わたしが『警察に殺されそう』になってるのよっー!!!」
振り返れば壮絶な人生だったと思う。そりゃあもう苦難、困難の連続だ。
母は若くして亡くなり、父と子、二人だけで育ってきた。ただでさえ父親は平社員のサラ―リーマンで給料が安くて贅沢はできな生活なのに、誰にでも優しい父親の性格が祟って、よく騙されてまがい物を交わされ、生活はとても苦しかった。
いつも赤字状態で、なんとか中学時代までを母の貯金でしのいだが、高校からはバイトに通いづめて生活費を稼いだ。
しかし父の騙されぐせは直らず、やっと黒字のめどが立ったと思うと、どかんと大金を騙され盗られる。そして一気に生活困難になるのだ。そんな一歩先は崖っぷちの生活を十八年やってきた日向は、それはそれはたくましい子へと育った。
だが悲劇はつい一昨日、起こった。
父が残した、たった一つの手紙から自分の人生が狂うなんて思ってみなかった。
「これから、どうしよう……」
途方に暮れて壮大なため息を一つこぼす。浮かんだ汗で張り付いた前髪を左右にわけながらポケットに突っ込んだままくしゃくしゃになった手紙を取り出した。
その手紙には「親愛なる日向へ」と父親の字で書かれている。
「馬鹿親父、残すならもっとお金になるものを残しなさいよ。こんな手紙一枚残されても、なんにもできないじゃない……」
全速力で走ったため上がった息を整え、座り込みながら小さな声でつぶやいた。ふいに一粒の雫が手紙に落ちる。稀な現象なので最初は呆然としていたが、それが涙であることに気づいた。
「うそっ……。まさかわたしが泣くなんて」
自分でも信じられずに流れる涙を手ですくうが、涙は溢れてきて止まらない。日向は知らずに自分が疲れ切って弱っていることを今さら自覚した。
(そっか……だってもう、この世界にわたしを助けてくれる人なんていないんだもんね)
凍りつくような淋しさが心の奥から這い上がってくる。
日向に親しいと呼べる友達は学校にいなく、親戚は両親が駆け落ちをしたため疎遠状態。加えて唯一の家族であり、日向を想ってくれる父親が二日前交通事故で死んでしまった。
家に帰りたくとも実家と呼べる、おんぼろアパートは警察に押さえられてしまってるだろうし、今は無一文だ。
「一人ぼっちになっちゃった…………あはは」
乾いた笑い声が虚しく響いて、千夏は壊れた人形のようにこてりとうつむく。
「もう……だれか……――たすけてよ」
すがるような切ない声でポツリとつぶやいた。その時低いブーツの音と共に影が日向の上に落ちた。
「いいぜ、助けてやるよ」
日向は跳ねるように顔を上げて眼を見開く。視界の先には真っ黒なスーツに身を包んだ二人の男性が立っていた。
一人は黒髪を短く切りそろえていて鋭い目つきでこちらを睨んでいる。もう一方は輝かしいばかり金髪が目立ち、芸能人のような整った顔をしていた。日向と目が合うと優しく微笑みかけてくる。
日向は一瞬にして警戒の色を眼に浮かべると、いつでも逃げられるように立ち上がって数歩下がる。手紙はしっかりポケットへしまいなおした。
「あなたたち、警察の人……?」
泣いていたのが嘘だったかのように険しい目つきで睨みつける日向に、黒髪の男はにやりと笑った。
「いや、俺らはそれと正反対のもんだ。ていうか、さすが総長の娘。なかなか……おもしれえ目つきしやがる」
この低い声は先ほど「助けてやる」と言った人だろうか。しかしそれよりも気になる点を見つけて日向は眉を寄せた。
「総長の娘ってどういうこと? わたしのお父さんは平社員のへっぽこサラリーマンなんだけど。到底、なんらかの総長ができるような人じゃないわ。勘違いよ」
「言われ放題だな、蒼梧さん」
金髪の男性がくすりと笑う。日向はその言葉にぴくりと肩を動かした。
「蒼梧って、わたしのお父さんの名前……」
「うん。そして信じられないかもしれないけど僕らマフィアの総長でもあるんだ。親分みたいな感じかな?」
「マフィア……?」
「うん」
子供に言い聞かせるように金髪の男性は話す。しかしどうにも日向はその話が信じられなかった。
父親がそんな性分でなかったこともあるが、いま、こんな状況に置かれているせいもあるだろう。自分以外の人を信用できない。
「そう警戒されると困っちゃうな。僕らはただ、蒼梧さんの娘さんである君を守りに来ただけなのに」
困った顔で金色の髪をかきながらも、日向へ向かってそっと手を差し出した。
「僕らは、関東総合組合マフィアの一部を束ねる十六ファミリーで、マフィアの総長である蒼梧さんの遺言のもと、君を警察の手から守りに来たんだ。いわば救世主ってみたいなものかな?」
少し肩をすくめながら軽い口調で言うと、ティアラの手を取る。とっさに奪われた手を引き抜こうとしたがそれは許されなかった。
「ごめんね。ちょっと乱暴な扱いになっちゃうけど、君を保護させてもらうよ」
言葉の意味を考える間もなく、日向の意識はそこでぷつりと途絶えるのだった。
「こちら、追跡第六部隊。大通りまで追い詰めたものの裏道へ逃走され、追跡者、本郷日向を見失ってしまいました。現在付近を捜索中ですが追跡者らしい人物は見つかりません」
堅苦しい言葉で正確に報告する部下に、志乃は机を指で弾きながら笑顔でにらんだ。
「どうして見失っちゃったのかな、ね? 君たちは本郷日向を女子高生だからとなめていたのかな?」
「決してそんなことはありません」
見えないヘルメットの下で汗をかく部下へ、さらに志乃は追及を深める。口元は上がっているのに、眼は寒々しい色を映していた。
「じゃあなんで女の子一人捕まえられなかったんだろうね。足の腱でも撃ってしまえば走れなくなって、容易く確保できるのに」
部下は志乃の言葉に恐ろしさを覚えて息をのんだ。
無垢な子供に銃を構えろと言うのだろうか。
「まあいいさ。明日は違う班も導入させるから。彼女はおえらい国家様の要注意人物なんだ。……次は頼んだよ?」
可愛らしく首をかしげる志乃に、すばやく敬礼をして頭をさげると、部下は震える腕を必死に抑えながら辞退した。
「はあ? 薬を嗅がせて気絶させたですってえ!? 女の子に何てことしてくれちゃってるのよ、あんた達! 地獄に落ちなさいっ」
女性の強烈な罵声に意識が起こされていく。懐かしい香りが鼻孔をくすぐってゆっくり瞼を開けた。
「だから乱暴な男どもは嫌なのよ、まったく…………あらっ、目を覚ましたのね」
女性の声が一変して嬉しさをまとい、どんどん近づいてきてぴたりと頬へ手が伸ばされた。そのまま額や頭を容赦なく触って女性は安堵の息をつく。
「顔に傷はついていないようだし、何かしらの衝撃の跡もなし。少しすりむいていた膝は、念のため消毒してあるから」
いきなり顔をぺたぺたと触られ、日向はまだぼーっとしていた意識を無理やり叩き起こすと、後ずさった。
「あら、こんなに警戒しちゃって……ふふっ」
なにが楽しいのか怪しい顔で女性は笑う。眼鏡の奥に隠された瞳が舐めるように日向を見つめていて、頬をひきつらせた。
再度、指をくねらせて手を伸ばし手くる女性に、日向はさらに後ろへ退却するが、壁にぶち当たってしまう。
どうすることもできず硬直していると女性の手が捕まれ引き戻されていった。
「ちょっとー、なにするのよ、凪。少しぐらい触ったっていいじゃない」
「駄目です。彼女が怖がってるでしょう、蓮華さん」
どうやら女性を止めてくれたのは凪と呼ばれたあの時の金髪の男性らしい。少し眉を寄せた顔で女性を押さえると、日向へ向かってもう片方の手に持っていたカップを差し出した。
「ミルクティーです。体が冷えていたようなのでどうぞ。ああ、別に毒なんて入っていませんから」
確かに肌寒さを感じたので、おずおずと日向はカップを受け取る。じんわりとした温かさが掌に広がった。
それでもまだ警戒を解かない日向に、金髪の男性は苦笑交じりの笑みを浮かべると、では自己紹介からしましょうか、とつぶやく。
「僕の名は凪。こっちの仏頂面の人が正宗で、変態めいた女性が蓮華さん。それと……ああ、そこの隅でパソコンをいじってるのが梓馬ね。以上四名が十六ファミリーのメンバーです」
「誰が仏頂面だよ、元からだ」
「そうよ、あたしは変態なんかじゃないんだから! ちょっと少女が好きなだけで……」
「それを変態っていうんだろう」
黒い短髪の男性、正宗と髪を一つに頭上で束ねた女性、蓮華が言い争う。
しかし言い争いのきっかけを作った発言者の凪は、二人を無視して、日向を連れてきた説明を始めた。
「先ほども路地裏で話した通り、僕らは総長である本郷蒼梧さんの部下なんだ。今回は警察に追われる身となった総長の娘、本郷日向、そう、君を外部から守るため任務を任せられている。蒼梧さんには昔からお世話になっているから、君も大事な人だよ」
混乱気味で凪を見つめる日向を落ち着かせるように静かな声音でゆっくり話す。
「まだ蒼梧さんが総長だって信じられないなら、これを見てごらん」
凪は壁にかけてあった一枚の大きな写真を指さした。写真には総勢四百人はいるであろう黒スーツを着たいかつい男たちと、その真ん中に、確かに父親が笑顔で写っている。
「嘘、どうして……。だって、お父さんからそんなこと一言も聞いたことなかったわ‼」
「蒼梧さんは自分が総長であることを隠していたんだよ。まだ幼い君を裏の社会に引きずり込むわけにはいかないからね。蒼梧さんはサラリーマンのフリをして、ずっとマフィアの総長をやっていたんだ」
「そんな…………」
思考が停止したように日向は空を見つめた。喉から出てくるのは息苦しさをともなった空気だけだ。
「蒼梧さんが亡くなってまだ二日しか経っていないし、困惑したり信用できない点もあるだろうけど、今はこのアジトで身を潜めていてほしいんだ。手紙の件は何とかするから」
手紙、その一言で考えることを放棄した脳は激しく脈打った。きっと凪の言う手紙とは、いま手元にある、父からもらった最後の手紙の事だ。
「手紙の事を知っているの……?」