晴天の霹靂
図書館へ潜り、汗を拭う。
ここまで走ってきた訳ではないのに、服の首元は汗を含んで黒く変色していた。
今年はまだセミの声を聞いていない。つまり夏の序の口で、これからもっと暑くなるわけだ。私は落胆に両肩をガクリと落とすと、ゾンビのようにふらふらしながら図書館の深部を目指した。
天井の四角い空気口からは、冷気と共に低い音が絶えず漏れ続けている。
冷房がきいた図書館。この季節である。それだけで毎日通う価値はあった。けれども私は涼みに来たわけではない。
私は大学から電車で2時間ほどのところに住んでいる。つまり、下手を打てば毎日大量の無駄時間が生じる。私はその時間を有意義なモノに変えるため、いつも小説を持ち歩いていた。
そう。図書館に来た目的は、これから数日間、私に持ち歩かれる哀れな小説を探しに来たのだ。何を借りるかは決まっていない。けれどもジャンルは決まっている——推理小説だ。
私は推理小説が大好きだ。名探偵よりも早く犯人を推理し、その後に推理を完成させる名探偵を、心の中で小馬鹿にしながら小躍りするのが私にとって最大に価値ある瞬間だった。
ゾンビのように死んでいた目に、血が滲むようにジワリと光が生まれる。そして光は、深夜に得物を探す梟のような、あるいは鷹のような猛禽類のものへ変化した。
口元を吊り上げ、瞳を爛々と輝かせて、私はスキップをしながら推理小説の棚を目指し始める。
通路で母親に手を引かれて歩く幼女に出会った。幼女は不意に私へ振り返ると、泣きそうな表情を浮かべて母親にしがみついた。幼女の母親は、私の方をちらりと見ると、般若の顔で私を威嚇して素早く幼女を背中に隠した。
2人が何を見たのか私は知らないが、きっと私の背後にお化けでも立っていたのだろう。けれども今の私は例えお化けに付きまとわれても止まらない。
喉の奥からこみ上げてくる笑いを堪え、服の裾をたなびかせながら、私は2人の前を風のように過ぎていった。
私は推理小説の棚の前に立ち、タイトルを見て直感的に面白そうなものを2冊ほど手にとった。表紙は黄ばんでいてボロボロだった。けれども大きな図書館の本はそんなものである。もうしばらくここで涼んでいたいところだが、電車の時間を考えればそんな時間はなかった。
私は自動貸し出し機の前まで歩いていくと、財布からメンバーカードを取り出してバーコードを読ませた。
ピ、という電子音と同時に表示画面が変化する。貸し出しのボタンにふれ、本のバーコードを読ませる。自動貸し出し機には、黄色い紙が張り付けてあり「音がしたらバーコードが読み込めた合図です。次のバーコードを読み込ませてください」と書いてある。その紙のとおり、読み込ませる度に自動貸し出し機は音を発する。それも電子音ではなく、自動貸し出し機の装甲をゴムのハンマーでぶったたいたみたいな、腹部に響く鈍い音だ。
これは明らかに読み込み完了の合図ではなく、メカニズム的な問題で意図せずに鳴っているだけだろう。
貸し出しを終えて図書館を後にする。
赤信号を前に足を止めた。頭上では太陽が燦々と燃え輝いて、私の黒い髪は健気にも周囲の日光を拾い集めて温度を上げていく。アスファルトが熱せられ、道路のはるか向こうでは蜃気楼が揺れていた。ラジオの割れた音が、窓を開け放した車から聞こえていた。
『今年は従来の平均気温を0・5度上回っており、かつてない孟夏になることが予想されます』
去年も聞いたような言葉を、ニュースキャスターが告げる。その後は地球温暖化が云々という話に変わっていった。
私は肩を落としながらため息を付く。口から二酸化炭素と共に魂が抜けていきそうだった。
地球が暖かくなっているのは、確かに温暖化が原因なのだろう。しかし直射日光が殺人的なのは、地球温暖化とは違う次元の話な気がする。
「太陽の神はアマテラスだったか……。一生、天岩屋戸に引きこもってくれてりゃいいのに……」
私はグチる。誰も聞いてないだろうし、言葉遣いも気にしない。
そのとき何処かで雷音が聞こえた。
私は手のひらで日光を遮り、空を見上げた。
——晴天。
——快晴。
雲一つなく、私にとっては不快な天気。
雨は愚か雷など来そう様子もない。
気のせいだろう。
信号機が青に変わり、ピヨピヨと鳥の鳴き声が再生される。
私は特に気にも止めず、歩きだそうとした。
その瞬間、雷が落ちる前置きのようなピシャッという音が響いた。同時に青空を横断するように真っ白の亀裂が走る。それが雷だと認識したときにはすでに遅かった。雷は上空から私の頭上へ移動すると、一直線に落ちてきた。
直撃だった。
私を中心に爆発したかのような雷鳴が周囲へ轟いた。視界は一瞬で白に染まり、私はなすすべなく膝から崩れた。
薄れゆく意識の中、周囲のざわめきが聞こえた。
驚いたような声に、悲鳴。救急へ連絡する慌てた声。我関せずで走り去っていく車の音、それに——
(——おい! そこで笑ってる奴、誰だ!)
私の意識は途切れた。