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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【第一部 東京の海】  『第一章 終わらない校正』


雨だった。


三上遼は、窓ガラスを流れる雨粒を見ながらため息をついた。


午後十時四十分。


東京都千代田区。


出版社「双葉文芸社」編集部。


フロアにはまだ十人ほど残っている。


誰もがパソコンの画面を睨み、キーボードを叩き続けていた。


締切前の編集部は、いつも戦場だった。


遼は赤字だらけのゲラを閉じる。


目が痛い。


肩も重い。


朝から何杯目か分からない缶コーヒーを口にした。


冷めている。


それでも飲む。


眠気をごまかすためだ。


「三上」


後ろから声がした。


編集長の岩城だった。


五十代半ば。


常に不機嫌そうな顔をしている。


「例の原稿、どうなった」


遼は振り返る。


「修正依頼は送りました」


「返事は」


「まだです」


編集長は眉をひそめた。


「またか」


その一言だけで十分だった。


失望。


苛立ち。


評価。


全部が含まれている。


遼は黙る。


編集長は机へゲラを置いた。


「今期、数字が厳しいのは分かってるな」


「はい」


「売れない作品を抱える余裕はない」


雨音が強くなる。


窓が震える。


編集長は続けた。


「来月の会議で判断する」


その意味は分かっていた。


打ち切りだ。


遼が二年間担当してきた新人作家のシリーズ。


売上不振。


部数減少。


在庫。


数字。


編集者の世界は残酷だ。


作品への愛情だけでは守れない。


編集長が去ったあと、遼はしばらく動けなかった。


パソコン画面には原稿データ。


作者が魂を削って書いた文章。


それを守れない自分。


無力感だけが残った。


スマートフォンが震える。


恋人の由香からだった。


《今日も遅い?》


遼は少し考えてから返信する。


《ごめん》


数秒後。


既読。


さらに返信。


《もう三週間会ってない》


遼は目を閉じた。


分かっている。


仕事ばかりだ。


休日も原稿。


夜も原稿。


電話すら満足にできていない。


だが今の遼には、それ以外に余裕がなかった。


《落ち着いたら連絡する》


送信。


すぐに返事が来る。


《その言葉、何回目?》


胸が痛んだ。


だが何も返せなかった。


編集部の時計は十一時を回っている。


雨はまだ止まない。


窓の向こうには東京の夜景が広がっていた。


無数の灯り。


無数の人間。


それなのに。


遼は時々、自分が透明になったような気がしていた。


誰とも繋がっていない。


誰の記憶にも残らない。


ただ締切だけを追い続ける毎日。


その時だった。


机の引き出しから、一枚の写真が落ちた。


古びた写真。


瀬戸内の海だった。


青い空。


白い漁船。


防波堤。


そして笑っている祖父。


三上恒一。


遼が小学生の頃、一度だけ会ったことがある。


無口な老人だった。


会話らしい会話もしていない。


それなのに。


写真を見ると、なぜか潮の匂いを思い出す。


東京にはない匂い。


波の音。


ゆっくり流れる時間。


遼は写真を拾い上げた。


そして知らず知らずのうちに呟いていた。


「……帰りたいな」


どこへ。


何に。


それすら分からない。


ただ、今いる場所ではないどこかへ。


その時、スマートフォンが再び震えた。


知らない番号だった。


遼は出る。


受話器の向こうから聞こえたのは、聞き覚えのない年配の男の声だった。


「三上遼さんですか」


「はい」


短い沈黙。


そして男は言った。


「おじいさんが亡くなりました」


雨音だけが聞こえた。


東京の夜が、静かに遠ざかっていくようだった。


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