【1日目】霧の道-霧の中の目覚め
目を覚ますと、そこは静かな霧の世界だった。
風もなく、鳥の声もなく、ただ白い靄が果てしなく漂っている。
足元を見れば、地面は確かにあるようなのに、踏みしめても感触はなく、身体は宙に浮いているかのようだった。
彼は自分の手を持ち上げた。
しかし、その指先は淡く透き通り、霧と溶け合っていく。
何度握っても掴むものはなく、皮膚の温もりも血の脈打つ気配もない。
――ああ、私は死んだのだ。
そう悟った瞬間、胸の奥に冷たいものが走る。
残してきた家族の顔が浮かぶ。
あの人は泣いているだろうか。
あの子は、父の不在に気づいているだろうか。
彼は声をあげようとした。
「ここにいる」と叫ぼうとした。
だが喉から出るのは、音のない吐息だけ。
その声は届かず、霧に吸い込まれて消えていく。
遠くでかすかな鈴の音が鳴った。
耳を澄ますと、それは声へと変わっていく。
「……色即是空 空即是色……」
古い響きが、どこからともなく霧の中に広がった。
身体がないはずなのに、胸の奥が温かく震えた。
その言葉に応えるように、足元の霧が少しずつ晴れていく。
彼の前に、細い光の道が浮かび上がった。
そのとき、霧の中から無数の影が現れた。
老人、子ども、男も女も、皆同じように透き通った姿で列をなし、静かに歩いていく。
彼らは互いに目を合わせず、ただ黙々と同じ方向へ進んでいた。
「これは……どこへ続くのだろう」
彼はその列に加わり、一歩を踏み出した。
遠くの闇に炎がちらついて見える。
そこからは呻き声と叫びが絶え間なく響いていた。
地獄の火だろうか。
胸がざわめき、足がすくむ。
けれど、反対の空には金色の光がかすかに射し、花びらが舞っていた。
蓮華の香りが漂い、楽の音が風に混じる。
そこには、安らぎの世界があるのだと直感する。
炎と光のはざまに、自分は立っている。
どちらに行くのか、まだわからない。
そのとき、彼の耳に馴染み深い声が届いた。
それは遠く離れた地上から、僧侶の読経と家族の祈りだった。
「どうか安らかに」
「ありがとう」
懐かしい声の温もりが、霧の中で彼を包み込む。
涙があふれた。
消えたはずの手に、確かに光が宿った気がした。
「私は……一人ではない」
彼は祈りに導かれるように、再び足を前に出した。
四十九日間の旅の始まりだと知らぬままに――。




