月は真ん丸、橋も真ん丸
祠が取り壊されていくのを、千茅はただ見ていることしかできなかった。
人間たちの間では、徳川の世が終わり明治時代が幕を開けたのだが、そんなことは千茅にとってはまったく与り知らぬこと。
四年ほど前、この近くでも大きな戦があり、雷のような音が幾度も聞こえてきたのと、巻き込まれそうになって逃げて来た仲間から、血なまぐさい話を聞かされた程度だ。
千茅は、ここから半里ほど北にある伏見稲荷大社に仕える稲荷狐の眷属――の端くれである。
彼女のねぐらである祠は、とある寺の鎮守社で、その寺の境内の片隅にひっそりと佇んでいた。
その祠が取り壊されることとなったのは、まったくのとばっちりであった。
千数百年の昔、海の向こうから伝わった仏教は、この国に元から存在していた神道と混じり合った。
仏教のお寺に神道の神が祀られる、というのもありふれたことで、千茅のねぐらが寺の境内にあったのも、何ら珍しいことでも奇妙なことでもなかった、のだが。
徳川幕府にとってかわった明治政府は、神仏を分離し国家神道を仏教の上に置こうとした。
その政策に、これまで仏教の下風に立たされていたと考える神職者の恨みや、徳川幕府の下で既得権益化していた仏教への民衆の反発、さらにはこの機に寺の財産や寺宝を手に入れようという個人的欲望など、様々な思惑が入り混じり、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのだ。
千茅の祠があった寺も、村人たちによって破却された。
その背景には、強欲で鳴らしていた住職への反感も大きかったのだろう。
その巻き添えでねぐらを失うこととなった千茅にとってみれば、傍迷惑極まりない話であるが。
ねぐらを失った千茅は、七瀬川という小さな川沿いにある寺の本堂の縁の下に間借りすることにした。
この寺が破却を免れたのは、住職の人徳の差なのか、あるいは他の事情があったのか。
もちろん千茅にそのようなことがわかろうはずもなかったが、勝手に住み着いた狐を追い払おうとした小坊主を、住職が止めてくれたことは事実である。
――何かむしゃくしゃするわぁ。
新たなねぐらを得たとはいえ、鬱屈した思いを抱えていた千茅は、ある日、ふと懐かしいにおいを嗅ぎつけた。
彼女が長年暮らしていた寺に染みついていたにおい。
誘われるままにそちらへ行ってみると、人間たちが小川をせき止め、干上がった川底を掘り広げて、石を敷き詰めているところだった。
そこで使われていた石のいくつかが、千茅が元いた寺の石垣を再利用したものであったようだ。
寺のすぐ前を、一本の街道が通っている。
伏見(伏水)街道、あるいは奈良街道と呼ばれるこの道は、京都から伏見を経て奈良にまで至り、かつては参勤交代の通り道ともなった主要街道である。
この街道に架かるいくつかの橋を、木の橋から石橋に架け替える事業が進められていたのだ。
この事業を中心になって推し進めたのは、当時京都府副知事であった槇村正直という人物。
彼は、長州藩の指導者であり明治の元勲の一人となった桂小五郎こと木戸孝允の腹心であり、京都府の実質的な最高権力者として辣腕を揮っていた。
彼の下、急進的な廃仏毀釈運動が推し進められる一方、京都の近代化に大きく貢献したことも事実で、今行われている架橋事業もその一つ。
そして、そこに破却された寺の廃材が再利用されていたのだ。
「わ、狐か? 魚のにおいにでもつられて来たんか? しっしっ!」
立ち働いていた男の一人が、千茅を追い払おうとする。
それを別の男が制した。
「やめとき、やめとき。狐はお稲荷さんのお使いやで。いじめたら罰が当たるわ。ほれ、おにぎり食うか?」
そう言って、男は握り飯を差し出した。
千茅は警戒してしばらくためらっていたが、恐る恐る近づき、ふんふんとにおいを嗅いで毒ではなさそうだと確かめると、握り飯にかぶりついた。
「清三はほんにお人好しやなぁ」
握り飯をくれた若い男は、清三という名であるらしい。
年の頃は二十歳過ぎ、どことなく狸に似た顔つきの、見るからに柔和そうな男だ。
それ以来、千茅は清三たちが働いているさまを、のぞき見するようになった。
――何をやってるんやろ。
川に橋を架けるということ自体、千茅にはよくわからない。
川を渡りたければ多少濡れても浅瀬を渡っていけばいいし、それができないほどの大きな川なら、そうまでして向こう岸に行く必要もないだろうに。
清三は、千茅を見つけるとたいてい食べ物を分け与えてくれる。
彼は京の町の北東にある白川村の石工で、内田徳左衛門という親方の門弟だ。
この架橋事業の、いわば現場監督的立場にある石工は三人。白川村の徳左衛門と小川権三郎、そして京の堀川通に住まう森下徳次郎。
彼らの指揮の下、彼らの門弟たちと、府によって動員された多くの人足たちが働いている。
元々白川村は、白川石と呼ばれる花崗岩の産地で、それゆえに多くの優れた石工を輩出しているのだ。
今、男たちは敷石の上に綺麗に切り揃えた白川石を並べている。
時おり木枠を押し当てて調整しながら、正確な円弧を描くように、石を積み上げていくのだ。
「どや、すごいやろ」
清三が誇らしげに胸を張る。
「普通の石橋は、上の方だけ輪石を組むんやけどな。この橋は輪石をまんぐるり組んで、拱環(アーチ)を完全な輪っかにするんや」
無論、千茅に理解できるわけもなく、首を傾げるばかりなのだが、清三の方も、狐が理解してくれるなどと思っているわけではない。
ただ、自慢話がしたいだけだ。
「京の大谷さん(大谷本廟)に、円通橋っていう橋が架かっとってな。真ん丸の拱環が二つ連なっとるんやけど、それも白川の石工が作ったんやで」
清三にもらった干し魚を生のまま齧りながら、千茅は彼の話を聞き流した。
年が明ける頃になると、輪石の下半分が組み上がった。
そこへ支保工と呼ばれる木枠を組み、上半分の円を形作る。
その上へ輪石を並べていけば、真円が出来上がるという寸法だ。
手をかじかませながら石を積んでいく清三たちを、千茅も寒さに震えながら眺めるのだった。
やがて輪石が積み上がり、最上部の最後の一個、要石と呼ばれる石を嵌め込む工程が行われる。
これが上手くいかなければ、これまでの苦労は水の泡だ。
門弟たちが固唾を飲んで見守る中、親方である徳左衛門が、さすがに緊張した面持ちで要石を嵌め込み、支保工を緩めても拱環が崩れないことを確認すると、大きな歓声が上がった。
――上手いこといったみたいやな。
自分にはまったく関係のないことながら、千茅もほっとした。
清三が悲しむところはあんまり見たくない、と思ったのだ。
輪石を組み上げて拱環が完成したら、その上に中詰をし、側面に壁石を積んでいく。
そして最後に、石畳を敷き詰めて路面を形作り、欄干を立てれば出来上がりだ。
そうして橋が完成したのは、桃の花が咲き始める頃。
ちょうどこの年、明治六年に実施された明治改暦で採用された太陽暦で三月のことだった。
「お前ともお別れやな。今、御所の西の堀川にこれより大きい橋を架けてるところでな。ここが出来上がったら、わしもそっちの手伝いに行くんや」
清三にそう言われて、別れの時が来たことを千茅も理解した。
思い返せば、彼には随分と食べ物を分けてもらった。
「わしもいつか、親方になってこんな橋を建ててみたいもんやなぁ」
しみじみと呟く清三に、千茅はこんと鳴いて答えてやった。
やがて春が終わり、夏が訪れる。
千茅は相変わらず寺の縁の下をねぐらにしていたが、橋の下に潜り込んで遊ぶのが日課になっていた。
石で組み上げられた管の中を走り回る。
川の土手から駆け下りて、管の中を螺旋状に走り抜けると、天と地がひっくり返る。
そうして、蛙たちを驚かせる。
いつしか日が暮れると、千茅に驚かされた蛍たちが一斉に舞いがった。
空にはまん丸い月が輝いている。
――あの人間、元気にしとるやろか。
ふと、千茅は清三のことを思い出した。
この時清三たちが架けた橋は、伏見街道第四橋、通称直違橋と呼ばれている。
川に対して直交していないことが名の由来だ。
世界的に見ても珍しいこの真円アーチ橋の技術は、しかしこの後受け継がれていくことはなかった。
鉄筋コンクリートといった新しい技術が導入され、あまりにも手間暇のかかる石積みアーチ橋は廃れていったのだ。
しかし、直違橋は百五十年経った今も残り、今日もその上を多くの人や車が行きかって、人々の暮らしを無言で支え続けている。
――了。
参考文献
『明治の橋:近代橋梁の黎明』京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課
鴨東様note記事『京都における明治石造アーチの謎(中間とりまとめ)』,『(用語解説)石橋各部の名称について』