8. 夫も地位も捨てるために
父は何も言えなくなったのか、肩を落として書類にサインをした。
「ありがとうございます。今日中に王家に提出して承認してもらいますわ」
「──イリス、私の愚かな行いがお前を傷つけたことは理解している。そして許されないこともわかっている。それでも、お前は私のたった一人の娘だ。娘の不幸など望んでいない」
「…………」
「お前がこの国から解放されることで人生の希望を見出せるのなら、好きに生きなさい。家のことは私がなんとかする」
「……ありがとうございます。では、私は荷物を整理して、夕方には王宮に行きますね」
真摯に謝罪していることも、父親としての情も感じるのに、私の心は何も動かない。精霊のギフトに散々甚振られて、やはりどこか壊れているのだろう。
「今日行ってしまうのか?」
「ええ。一応引継ぎ資料は執事に渡してありますけど、内容はお父様が現役の時とほとんど変わっていないので問題ないかと。何か不都合があれば王宮へいらしてください」
事務的な親子の会話に、父は寂しそうに視線を伏せた。
「それからお父様には、できればシグルドが戻るまでこの邸にいてもらいたいのです。そして彼が戻ったら王宮に向かわせて下さい。マルシェたちに招待されたとでも言えば怪しまれないと思うので、私を迎えに行くように言って下さい。その際、離婚等の話は彼に一切悟られないで」
逃げられたり、愛人と口裏合わせるのに時間を使わせたりしない。速やかに事実関係を詳らかにして、その日のうちに離婚届にサインをしてもらう。
「……わかった」
シグルドに過去の自分を重ねているのか、複雑な表情を浮かべた父が力なく頷く。
そうして私は、夫と公爵の地位を捨てるために、邸を後にした。
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「よく来たね、イリス」
「レイブン兄様」
王宮に着いて馬車の扉を開けると、王家の色である銀色の髪と、サファイアブルーの宝石眼を持つ麗しい兄妹が出迎えてくれた。
ディファイラ王国王太子──レイブン兄様と、その妹である王女マルシェだ。
そして彼らの後ろには、私と同じミルクティーブラウンの髪と桃色の瞳を持つ女性──私の伯母である王妃の姿もあった。
従兄のエスコートで馬車を降りると、伯母に抱きしめられる。
「ああ、イリス。話は聞いたわ。辛かったでしょうに」
「伯母様……」
母の面影がある伯母の顔を見た途端、涙腺が一気に緩んだ。その温かいぬくもりに我慢ができず、涙が零れる。
「顔色が悪いわ。貴方の部屋を用意してあるから、夕食まで少し休みなさい」
「いえ、父から復位するための書類にサインをいただきました。すぐに陛下にお渡ししたいのです」
「それなら私が預かって宰相に処理するよう指示しておくよ。父上の許可は取れているから安心しなさい」
「ありがとう、レイブン兄様」
兄様が私の頭を撫でてくれる。
五歳年上の兄様は『魔眼』のギフト持ちで、人の嘘を見抜く能力がある。彼もこのギフトに散々苦しめられた経験から、幼い頃から私の良き理解者だ。
ちなみに、ギフトは遺伝ではないため、王族なら誰もがギフト持ちなわけではない。国王と兄様はギフト持ちだが、王妃とマルシェは持っていない。
祝福を受ける対象に建国王の子孫という共通点はあれど、その全ての子孫が祝福を受けるわけではない。ランダムで規則性がなく、本当に精霊の気まぐれとしか言いようがないのだ。
私も選ばれない側が良かったと、何度思ったかわからない。私が大人の男性で信頼できる親族は、兄様と国王陛下だけだ。
赤の他人で信頼できた唯一の人が夫のシグルドだったけれど、もうその席は空席になってしまった。