3. たった一度の裏切りで
よりによって使用人と関係を持つなど、私を馬鹿にしている。
使用人の管理はシグルドの仕事だ。
自分好みの女性を雇える立場にいる。
ローラとは、いつから関係を持っていたのだろう。
彼は毎日のように私に愛を囁き、執着していた。
閨だって断ったことなんかなかったのに。
重たいほど愛されていると思っていた自分は、なんて滑稽なのだろうか。同じ邸に夫の愛人がいるなど、微塵も気づかなかった。
シグルドは優秀だ。
巧妙に隠していたのだろう。
いつ心変わりしたのだろうか。
(私の何がいけなかったの──?)
それとも、私への執着は公爵家に婿入りするための演技だったのだろうか──
疑いだしたらキリがない。
もうシグルドのことが何も信じられない。
過去の二人の婚約者が裏切った時よりもショックが大きい。
男性不信になっている中で、幼馴染の彼だけは側にいても平気だった。彼のことなら全部知ってると思ってた。でも、それは私の驕りだったのだろう。
ギフトで見せられたシグルドは知らない男の顔をしていた。あんなに激しく女性を抱くなんて知らなかった。
あの映像を思い出したら、また吐き気が蘇る。
「イリス!」
マルシェが素早く桶を用意してくれたおかげで、粗相をせずに済んだ。
「王女に介抱させるなんて、臣下失格だわ……侍女を呼ぶから、貴女はもう王宮に戻って……」
「嫌よ、戻らないわ。今、目を離したら貴女は何をするかわからないもの。手のかかる従姉妹をもう少しここで見張っているわ」
マルシェは、この忌まわしいギフトで私が自害でもするのかと心配しているのだろう。
実際に、ギフトによるストレスで食事が喉を通らなくなり、栄養失調で死にかけたことが数回ある。それくらい、このギフトの精神攻撃は鋭利なものだった。
「死なないわよ……」
「でも、突発的に亡命するかもしれないじゃない。貴方は精霊がいるこの国が嫌いでしょう?」
(……さすが従姉妹。私の考えはお見通しらしい)
もう、すべてが嫌で仕方ない。
今ある地位も何もかも捨てて逃げ出したい。
三度目の正直だと信じて結婚に踏み切れば、この様だ。
女としての幸せを諦めきれず、二度あることは三度あるという言葉を見ないふりしたツケが回ってきたのだろう。
(もう、人生諦めるしかないのかもしれない)
このギフトがある限り、自分は死ぬまで気持ち悪いものを見せられる。心を開いた人たちの裏切りを、強制的に脳に刻み付けられる暴力に、もう耐えられないのだ。
だったらもう、二度と恋なんてしない。
恋人も夫も要らない。
誰のことも愛さない。
「何がギフトよ。何が精霊の祝福よ。こんなもの、ただの呪いだわ……」
ただの気まぐれで私にこんな人生を強いた精霊が憎い。
滅びてしまえとすら思ってしまう。
神様でも、悪魔でも、なんでもいい。
精霊の呪縛から、誰か私を放って。
それが無理なら、私はもう——
再び私から何かを感じ取ったのか、瞳に涙を浮かべたマルシェが私の手を両手で包み、祈るように額を寄せた。
「イリス……お願いだから私に黙って消えたりしないで。ねえ、このまま私と王宮で暮らさない? お母様もお父様もお兄様も、イリスなら大歓迎よ。王宮で体調を整えて、イリスにその気があるなら、私の侍女として働いてほしいの。貴女は語学が堪能だし、外交を手伝ってくれたらとても助かるわ」
侍女か……もうこの邸にもいたくないし、それもいいかもしれない。
「それで、もし貴女が了承してくれるなら、私の嫁ぎ先についてきてほしい。それなら大手を振ってこの国を出られるし、私も貴女が側にいてくれるなら、とても心強いわ」
従姉妹の優しさと親愛に、涙が零れた。
左手を包む彼女の手が温かい。
私は一人ではないのだと、必死に伝えられている気がした。
「マルシェ……私を連れ去ってくれる?」
「ええ、もちろん。シグルドなんて捨てて、私を選んで」
「そうね。さっさとシグルトとは離婚するわ。もう生理的に無理。だから証拠を集めなきゃ」
「それなら王家の影を貸してあげる」
「ありがとう。離婚して国を出るなら、お父様も呼び戻さなくちゃね……話し合いの結果によっては、爵位を王家に返すことも考えなくてはならないわ」
今のオルタンシア公爵家の当主は私だ。
シグルドはオルタンシア公爵家の婿養子。
まさかその立場で愛人を作るなんて、思いもしなかった。
急速に熱が冷めていく。
もう誠実だったシグルドはどこにもいないのだろう。
十年以上、一緒に過ごした時間が、築いてきた信頼が、たった一度の裏切りで黒く染められ、霧のように離散していった。