10. 新しい人生のために
「シグルドも縋ってくるかもね」
「どうかしら。今は愛人とお楽しみ中だけどね。たとえ縋られたとして許すつもりはないわ。どのみち夫婦を続けるのは生理的に無理だもの」
(もう体がシグルドを拒絶してしまう)
夫は、元婚約者たちとは重みが全然違う。
ずっと一緒にいた。一番気を許した異性だった。
ギフトのことは知らなくても、私が苦しんでいた時に手を差し伸べて、友として支えてくれた人だ。大事な人だった。
その信頼の大きさは彼らの比ではない。
だからこそ、彼の裏切りは私の心を突き刺した。
政略と関係なく、私自身が彼を男性として愛して、結婚を望んだ。彼となら、この忌まわしい精霊のギフトに苦しめられる日々を乗り越えられると思った。
シグルドとなら、幸せになれると思った。
(それなのに──)
その信じた愛と幸せは、
二年であっけなく崩れ去ってしまった。
「──シグルドの話はもういいわ。せっかく吐き気が治まったのにまたぶり返しそう。それより仕事の話がしたい」
「わかったわ。じゃあ早速、外交の仕事を手伝ってもらおうかしら。三日後に竜王国の要人たちが視察に来ることは知っているわよね?」
「ええ。精霊樹に祈りを捧げに来るのよね?」
各国の使者たちは、我が国に滞在する際、ほとんどの方々が加護にあやかりたいと精霊樹に祈りを捧げる。
国によって崇める神はそれぞれだが、精霊と自然が深い結びつきにあることは創生神の神話で語られ、絵本になるほど世界中で有名な話だ。
「それもあるけど、主な目的は貿易条約の締結のためよ」
竜王国はその名の通り、遠い昔に竜人が建国したと言われ、大陸の中でも長い歴史を持つ国だ。時を経て純血の竜人は姿を消し、今は人間と変わらない容姿をしている。
「確か鉱山に囲まれた国で、宝石と魔石産業が有名だったわね」
「そうなの。実は今年から新たな産業として宝石カット技術のライセンスを売り出すことにしたらしくて、その契約者第一号として我がディファイラ王国が選ばれたってわけ。ウチは水晶産業が盛んだから、竜王国のカット技術は是非取り入れたいと思っているのよ」
「竜王国産のジュエリーは各国の王族が欲しがるほどの逸品だと聞くものね」
「ええ。そして私たち側は食物の輸出と農業の技術提供を求められているわ。鉱山地帯は食物が育ちにくいから、栽培に適した食物の苗の提供、または開発を依頼されているの。そのための人材や商品にかかる関税、運送費などを踏まえてお互いの利が平等になるように交渉しなければならないのよ」
竜人の血を引いている彼らは戦闘能力が高く、大陸の中でもトップの軍事力を誇る強豪国だ。彼らとの交渉は緊張感が高まる場となるだろう。
精霊信仰の我が国を食い物にするような取引はしないだろうとは思うけれど、決して油断できない相手である。
「イリスはギルア語が得意よね。交渉の場にはお兄様とお義姉様と私の三人で挑むんだけど、貴女も交渉人として同席してくれない?」
「わ、私が? 仕事が欲しいとは言ったけれど、そんな責任重大な仕事をくれとは言ってないんだけど!?」
「でもオルタンシアの主な産業は果樹農業でしょう? 温室栽培の技術なんて交渉にうってつけじゃない。専門家としてお兄様たちをサポートしてほしいのよ。ね?」
「……わかったわ。それなら資料を作りたいから、王宮図書館の利用許可を取ってくれる?」
「ありがとう! 手配しておくわ」
思いがけずに大きな仕事をもらい、緊張感が走る。
そして万全の体調で交渉に挑むためにも、しっかり休憩を取ることを約束させられた。
仕事を根詰め過ぎてまた倒れては保護した意味がないと言われ、お目付け役として補佐を一人つけられた。
働いている間はシグルドのことを忘れられるから、本音は休みなんていらない。でも国益のかかった交渉の場でくたびれた姿を見せるわけにもいかないため、そこは素直にマルシェに従った。
幸いにも資料作りの間はギフトが発動することはなかった。
王家ファミリーと食事を共にし、打ち合わせをしながら資料を仕上げていく。最初は責任重大すぎる仕事に恐れ慄いたけど、むしろそれが良かったのかもしれない。
当日まで無事に条約を締結することで頭がいっぱいで、シグルドのことを考える余裕はなかった。
そしてあっという間に時間は過ぎ、竜王国の要人を迎える日がやってきた。
明らかに緊張している私に、麗しい兄弟が声をかける。
「イリス、準備はいい?」
「どうしようマルシェ、緊張で膝がガクガクしてる」
「やれることは全部やったし、イリスの提案した事業計画なら、きっとこちらの要望も飲んでくれるはずさ。自信を持ちなさい」
「レイブン兄様……」
「わたくしもしっかりフォローしますから、安心してくださいな。お互い頑張りましょう」
王太子妃のユリアンナ様にも鼓舞され、気合いを入れ直す。
この大きな仕事をやり遂げたら、きっと私の自信に繋がる。その実績はマルシェと共に向かう隣国で、私の最大の武器となるだろう。
隣国の王子妃になるマルシェについて行くなら、彼女の足を引っ張るわけにはいかない。
(必ず、成功させてみせるわ)
シグルドとの離婚で、『寝取られ令嬢』だと再び馬鹿にされるなんて真っ平ごめんだ。私は道理に反することなど何もしていない。
嘲笑されるような生き方などしていない。
それでも私を傷つけるというのなら、夫も、精霊も、社交界も、全部要らない。
誰にも馬鹿にすることなど許されない武器を手に入れて、新しい人生を生きる。
もう恋なんて一生しない。
愛なんていらない。
そう思っていたのに──




