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短編集・散文集

図書館員の非日常

作者: Berthe

 (よう)()はふっとパソコンの画面から目を切るとともに瞳の渇きをおぼえてパチパチさせながらゆっくりと深呼吸をし、それから回転椅子の肘置きに腕をのせたまま手をぶらぶらさせたのち、椅子を右へ九十度動かしてすっくと立ち上がり後ろ手に歩きだす。


 そのまま考え事をしながら部屋を何周かするうちに目がまわりだしてちょっとした頭痛になり、庸子はそれを覚まそうと冷蔵庫へ向かう。


 やがて目的地へ着くと片足をやや後ろへひきつつ前かがみになって冷蔵庫の一番下をひいて開け、冷やしていた緑茶のペットボトルの黄緑のキャップ部分を指先でつまんでぬきだすと、その場でキャップをあけて口をつけるとともにほっと吐息をつく。


 ──もうひと踏ん張りしなきゃ。あと少しで完成だ。


 庸子は三ヵ月ほどまえからシナリオライターの仕事をしていた。とはいえそれは副業であり本業は私立図書館の司書。日常的な図書館員としての仕事と非日常のシナリオライターの両立が庸子の今の生活だった。


 庸子は高校卒業とともに上京して入学した大学では経営学を専攻し、そこで会計学や企業戦略などを学んだが、電卓を左手でカチカチ打ちながら、シャーペンを持った右手を紙に走らせる簿記にはちょっとした楽しさもあったものの、マーケティングの講義などはまだ消費者でしかなかった庸子にはさっぱりで、退屈するあまり知らぬうちに頬杖をついていた肘ががくんとテーブルからすべり落ち、途端に周囲の視線が一斉に自分にあつまるままにぽっと顔を赤らめながら眠気覚ましに首を横に振ったのも二三回のことではない。


 せっかく経営学部に入ったものの、自分には商業色の強い職業はむいていないと感じた庸子は二年生の時に大学が提供している図書館司書の課程を受講し、やはりこっちの方が性に合っていると感じるままに就職試験では図書館をいくつか受けて、私立図書館の一つに採用された。


 もともと本が好きで、就職してからももちろん司書の勉強はつづけて資格を取得し、今では給料こそ高くないものの高い倍率を勝ち抜いて就くことのできた職業に少なからぬ誇りを持っているし、私立図書館とはいえ世間の営利企業にくらべるとストレスは少なくて労働環境も良く、職場にはおだやかな人が多い。


 ──だからすこしも不満はないけれど。


 でも著作物に毎日ふれる仕事に就いているとやっぱり自分でも創作したくなり、試しに日常や恋愛のスケッチのようなものを書いてみて小説サイトに投稿してみたのはいいものの、読み手はそれほどいない。それでもそれなりに満足感はあったけれど、庸子にはみずからの個性を思い切りぶつけた作品で読者をアッと言わせたい気持ちもなかったし、自分だけのアイディアで面白い作品がつくれる気もしない。


 そんな時にふとクラウドソーシングサービスの広告を見て、企業が要望するライティングを提供して対価を得る道に出会った。前々から気にはなってはいたけれど、フリーランスの仕事は自分には関係ないものと思って手をつけなかったが、実際に始めてみると意外なほどに面白くてやりがいもある。


 庸子が主に受注しているシナリオライティングは企業からテーマを反映したタイトルを受け取り、提示された最低限の構成のもとに物語やキャラクターを展開させて毎回似たような幸福な結末へと持っていく。すべてを一から考える必要はないものの、ある程度創作意欲は満たされるし、納品したシナリオには対価がつくのも大きい。


 小説投稿時代には作品の商業的な可能性については考えもしなかったけれど、シナリオライティングについて言えば、お金が発生しない限り一行たりとも執筆する気がしない。小説、脚本、詩、批評と言った文学活動の中では脚本、すなわちシナリオライティングは例外的なほど容易く金銭に結びつきやすい。


 昨日のお昼休憩中、たまたま一緒になった同僚の藤崎(ふじさき)さんにその辺りの経緯を話してみると、テーブルをはさんで向かいに座る彼からこんな反応が返ってくる。


「へえ、庸子さんはそんな活動してるんだ」


 三十歳の彼は庸子より三つ年上で、額を覆うおろした前髪の下に今日は黒縁のハーフリムの眼鏡をかけている。もっとカジュアルな眼鏡のときもあるし、コンタクトレンズの日も度々。ちょっとくしゃっとなった前髪がおしゃれで、眼鏡も似合っていて落ち着きを感じさせるが、彼の何よりの美点は肌がすきとおるほどに白くて少しの傷もないこと。その理由について庸子は何度か尋ねたことがあり、市販の安い化粧水を使用していることは聞きだせたものの、それだけとはとても信じられぬ庸子がいくら問い詰めてみても、彼は毎回のようにそれだけだよと言って笑った。


 そんな藤崎さんを目の前にしてほのかな羨望をおぼえながら庸子は聞き返す。


「活動って言うんでしょうか?」


「うーん、趣味とも仕事ともつかないんじゃない? でもうちの図書館が副業に寛容でよかったね」


 藤崎さんの言う通りだった。お金が発生している以上趣味とは言い兼ねるけれど、いただく対価ははっきり言って割に合わない。ただそこに楽しさや成長があるからこそ続けられるのだ。副業を始めるまえにちゃんと上司に確認し、業務に支障を(きた)さないことを条件に認められている。


「はい、そこはホントに。公立だったら難しいと思いますし」と庸子は返しながら私立図書館勤めで心底良かったと改めて感じる。


「公立は公務員だからね。小説を出版するとかだったら別かもしれないけど、庸子さんはその都度お金を貰うんだよね? そういう形式は公務員には難しいと思う。ちなみにどれくらいの文字数を書くの?」


 庸子にそう尋ねながら藤崎さんは白い袋からコンビニのおにぎりをとりだし、三角形の一つの頂点の「下に引く」と書かれているところをつまんでその通りにし、それを上手くやり遂げるとともに透明な包みを丁寧にはずすや否や、ぱりっと乾燥した海苔につつまれた端整なおにぎりが完成した。庸子はそれを見届けるとともに、不意に黙ったまま彼の手元を見つめていたことに気づいてちょっと恥ずかしくなりながら、ふっと彼の問いを思い出すままに答える。


「今は一万五千文字です」


「え? そんなに? 納期はどのくらい?」


「四五日です。あ、でもわたしは十日にしてもらってますけど」


「四五日と十日じゃ全然違うね。それは君に本業があるからってこと?」


 専業の人の中には一日二日で仕上げる人もいるようだし、十日という長さは企業側からすると明らかに例外的なものだろう。本業のある身としてはそれでもきつきつなのだが、庸子はその特別待遇を思って、きっと自分の書く脚本の品質が良いのだろうと自惚れたりもする。しかしその度に自戒して首を横に振り、あまり調子に乗りすぎないよう努めてもいた。


「そこはとても融通してもらっています」


「いいね。どんなものを書いているの?」


 藤崎さんがおにぎりに威勢よくかぶりつく。庸子は取り上げた箸をもったまま目をしばたたき、やや口ごもり気味に口を開く。


「えっと、恋愛チックなものです。男性視点の」


「そうなんだ。じゃあ男主人公とヒロインを描くんだ?」


「はい」と頷きながら庸子は藤崎さんを観察すると、その穏やかな笑みの奥にからかいの成分がほの見えて思わず、「え? おかしいですか?」


「いや、全然。君は僕よりも男心を分かってそうだもん」と藤崎さん。


「それって褒めてます? ちょっと馬鹿にしてません?」


 庸子は微笑を浮かべてやや歯を食いしばりつつ小首をかしげながらそう訊いたのち、弁当のだし巻き玉子を箸でとって口へ運び、口元を押さえてもぐもぐしてからペットボトルの緑茶へ手をのばし、その黄緑のキャップをあけてひと口飲むとともに藤崎さんを見つめる。


「言っときますけど、藤崎さんの心はすこしもわからないです」


 そう返した庸子は普段から男主人公の気持ちを理解して脚本を書いているわけではない。けれどそれ以上に藤崎さんの胸のうちは自分から遠いところにあるような気がする。


「ははっ。僕の心を知ってもしょうがないさ。それにしても、君みたいに創作する側にまわれる人が羨ましい。僕は創作しようと思い立っても、すぐに偉大な作品たちのことが浮かんできて、心が折れちゃうタイプだからね」


 気になった本は時間さえあれば気軽に手に取る庸子とは違い、藤崎さんは本当に好きな本を熟読する人らしい。それはここへ勤め出して間もなく気づいたことで、図書館員も本を借りることができるが、毎週のように新しい本を借りだして読んだ後には大方の内容を忘れ去る一時の逃避としての読書を愛する庸子とは反対に、藤崎さんは分厚い本や皆があまり借りない難解そうな本をよく自宅に持ち帰っている。図書館員としては特別なことではないけれど、庸子にはそれは高踏趣味に見えるし、ちょっと羨ましい一方、彼に決して追いつけない自分を情けなく思うこともある。


「それは……藤崎さんが悪いです」


「え、どうしてさ?」


「だって藤崎さん、それって自分を……」


 そのまま口ごもった庸子の言葉を藤崎さんが引き取った。


「高く持ち上げすぎかな。でもね、こればっかりは仕方ないんだよ。大学時代は英文学に打ち込んでいたからね。その時に出会ったジョイスからは未だに離れられない。君には何度か話したかもしれないけど。実際、『ユリシーズ』を読んでしまったらそうそう小説なんて書けないよ」


『ユリシーズ』の話は何度か聞かされていたし、軽く調べてみたこともある。けれどその時の庸子にはジョイスの文学が恐ろしく難解なものとして迫るとともに、大した興味も湧かぬままにそれきりになっていた。文学部出身の彼と経営学部出身の自分とでは読書傾向や文学への熱情に温度差があるのも仕方ないのかもしれなかった。だけど今はその頃とは違うかもしれない。


「確かに『ユリシーズ』を読んだら……まあ、わたしはページをひらいたこともないですけど。でも今だったら読めるかも」


 庸子はそこで言葉を切り、その理由までは語らなかったが、『ユリシーズ』は中年男性が主人公らしいから、毎週のように男主人公のシナリオを書き続けている身としては今が手に取るにはちょうど良い機会かもしれなかった。


「ほんとに? 挑戦は勧めるけど無理強いはしない。ところで君が書いているのは小説じゃなくて脚本だったね? ストーリーをつくるのは僕には無理だな。描写ならまだしも」


「藤崎さんはそうなんですね。わたしは描写を始めると色々と描きたくなっちゃって周りが見えなくなるので、物語に取り組む方が気楽です。ある程度計画的に進められますから。あ、でも、小説の物語と脚本の物語は別物だとも思いますけど」


「何だか楽しそうだね。生き生きしてるっていうか。僕も活動した方がいいのかなあ」


 藤崎さんが丸めた拳で顎をささえながら目を細めつつそうつぶやく。彼から感心の眼差しを向けられた庸子はにわかに誇らしさと嬉しさを覚えつつもその気持ちが表にでないよう抑えながら彼の近況を訊いた。


「だけど藤崎さん、ジョイスの批評とか書いてないんですか?」


「うん、実はね、ネットに上げてる。でも専門性は保証できない趣味的なものだよ。読者にとってはいかがわしいものなんだ」


「自分でそれを言っちゃうんだ」


 庸子は思わず吹き出してしまう。と同時に彼の批評を読んでみたいと思った。ジョイスを読むよりもずっと楽しいに決まっている。


「だって事実だもの。もちろんネットのページにもそのことを書いている。だけど、文学はそもそも嘘っぱちだからね。小説やドラマのようなフィクションへの批評は、あまりに正確すぎてもかえってつまらなくなったりもするし。面白さを失っちゃ駄目なんだよ。それは必ずしもエンターテインメントを意味しないけどね」


「わたしよりも藤崎さんの方が楽しそう」


 庸子は心からそう思っていた。自分の作品よりも偉大な他人の作品に惹かれるというのはわかるし、庸子自身もシナリオを書きはじめてからテレビドラマにひさびさに夢中になった。売れっ子の脚本家の思考や気持ちが少しは想像できるようになったし、映画監督が中心の映画とは違ってテレビドラマは脚本家が優先されるから、シナリオライターの身としては学ぶものがとても多い。


「僕の場合はただの愛好家だよ。文学が好きすぎるんだ。君はそういう感じじゃないよね」


「うん。たぶん、違いますね。わたしは何なんだろうなあ」とつぶやきながら庸子は小首を傾げる。


「でも脚本だって文学だね。例えばチェーホフの戯曲とか。いや、シナリオ全般がそうかもしれない。だけどこの話はやめよう。長くなっちゃうから。早くご飯食べないと」


「あ、そうでした」


 彼の話をもっと聞きたいと思いつつも庸子は大人しく箸をとった。これからもきっと今日のような機会はあるし、こっちが尋ねさえすれば彼も喜んで答えてくれるだろう。そう思った途端、でも藤崎さんって彼女はいるのだろうか? との疑問がふっと沸き起こる。ひょっとして休日の彼を独り占めする人がいたりするの? そんなことは聞けない。聞けるわけがない。それは無理だけど、でも、どうしよう、と延々とつづきそうな庸子の逡巡のまえで藤崎さんはさらりと言う。


「でもまた聞かせてよ。面白かった」至極さわやかな微笑みとおだやかな声。


「はい」


 従順に頷いた庸子はそのまま大人しく弁当のおかずを口に運ぶうちに昼休みが終わり、午後の仕事をこなしていつものように帰途についた。


 昨日は金曜だったから明けて土曜の今日、冷えた緑茶をひと口飲んだ庸子は、その後、薄緑のマグカップに紅茶のティーバッグを落としてケトルからお湯を注ぎ、温かな飲み物を啜りながら、シナリオの男主人公と藤崎さんとの類似を考え、すぐに似てはいないと思ったものの、彼を意識して描けばもっと楽しくなるかもしれないと密やかに思いつつ、月曜にまた話せたら良いなと微笑みながら回転椅子にもたれると、今度はにわかに引き締まった表情になってパソコンに両手を添えた。

読んでいただきありがとうございました。

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