7 春光天地に満ち、風密やかに薫る
FOI病棟の廊下に、こちらに到着していたドクター・ヴィクターが姿を見せた。
来た途端に、空の治療をしなければならなくなった彼としては、不機嫌になっても仕方がない、と博は覚悟する。けれど、ヴィクターは冷静な態度で、博を別室に誘った。
「先に、今の彼女の容体について話しておこう」
机を挟んで、パイプ椅子向かい合って座ったヴィクターが、話を切り出した。こんな風に面と向かって、彼と話すのは初めてかもしれない。
「傷は全て開いていたから、縫合しなおした。手足の骨折も処置した。『SPNA』の方は、嚥下していないし解毒薬のお陰で口内の損傷だけで済んだようだ。2度目なので耐性もあったんだろう」
ヴィクターの説明に、博は胸をなでおろす。
しかし、続いた言葉に博は息を呑んだ。
「だが、このままだともって48時間くらいだろう」
「・・・どういう・・・ことです?」
博は、それだけ言葉を紡ぐのがやっとだった。
「今まで彼女の怪我は、回復が早いと思ったことは無いかね?」
急に振られた質問にどんな関連性があるのか解らないまま、彼は頷いた。
確かに、空が怪我をすることは多かったが、治って職場復帰するのは早かったと思う。けれどそれは、彼女の回復力や気力が高いためだと思い喜んでいたのだが。
ヴィクターは説明を続けた。
回復が早い要因は様々だが、彼女の場合、細胞分裂の速度が一般の平均より大きいという事がある。それによって、傷が塞がるのも早いという事だ。
けれど、細胞は無限に分裂するというわけではない。DNAの末端にあるテロメアと言う部分は分裂を繰り返すごとに短くなり、予定された回数以上は分裂できず消滅する。テロメアは細胞の寿命を支配している部分なのだ。
細胞分裂の速度が速いという事は、細胞の寿命、ひいてはその個体の寿命にも関係があるのだろう。
「勿論、彼女の身体の細胞全てがそうだと言うわけではない。臓器の種類や身体の部位によっても、細胞分裂の速度は違うのでね。彼女のそんな特異性に気づいたのは、最初に彼女を担当した時だった」
A国で空がまだ新米捜査官だった頃のことだ。それ以来、強く興味を引かれてヴィクターは彼女のデータや組織などを入手し、私的な研究を行ってきた。そして、その結論を本人に告げる。
「君の寿命は、あまり長くはないと行った時、彼女は『私の耐用年数は、あとどのくらいですか?』と答えたんだ。冷静と言うか、落ち着いてと言うか。まるで手に入れた品物の使える期間を知りたいと言うようにね。とりあえずその時は、10年くらいだと言っておいたんだが」
その時ヴィクターの答えに対して、空は瞳に安堵の色を浮かべて言ったのだ。
「それなら、充分間に合います」と。
当時の空には、やる事があった。父親の借金返済と遺骨の埋葬だ。その為に資金を貯めていて、それらだけが彼女の生きる意味になっていた。けれど10年あるなら、達成できると思ったのだろう。
「当時はもう、iPS細胞の研究も始まっていて、僕自身も完全な臓器の幾つかは作れる程度に研究を進めていたんだ。だから彼女に提案した。臓器を交換していけば、寿命は伸ばせるとね」
ヴィクターの提案を聞いた時、空は表情も変えずに答えた。
「任務中の怪我などで、それが必要な時はお願いします。けれど、心臓だけはそれを行わないでください。自分が色々と普通でない事は解っています。だからせめて、死くらいは普通に迎えたいので」
不自然な心臓交換で、寿命を延ばしたくはない。そうでなくても、不自然な自分なのだから。
もしかしたら空は、心のどこかで「普通」や「自然なこと」に憧れていたのかもしれなかった。
「脳は未だに不可能だが、それ以外は何時でも交換できるようにしてあるんだ。プライベートの研究室のほうにね。それで今の彼女の状態だが、負荷をかけ過ぎたんだろう、心臓の方があと2日程度しかもたないという事なんだ」
長い説明が終わっても、博はその話を受け入れることが出来ずにいた。
あんな状態にも拘らず、彼女は自分の傍に来てくれた。そして、BBとの決着も、最終的につけてくれた。あの時は、もうダメかと世界が真っ暗になったけれど、それでもここに来て、何とか助かると胸をなでおろしたばかりだと言うのに。
そんな博の様子も無視し、ヴィクターの話は続く。
「何故こんな話をしたかと言うと、要は君に丸投げしたいという事なんだ。医師は基本的に患者の希望を尊重する。その立場で言うなら、これ以上の事は出来ない。でも本人に現在の気持ちを確認できない状態なら、家族や近しい間柄の人間の意向を受け入れることが出来る」
そういう事か、と博は顔を上げた。
確かに空は、どこか生き急いでいるような感じがあった。
例えば、クーデターに関する密命を受けた時も。エリィがいて丁度いい機会だと思ったのもあるだろうが、あんな任務を引き受けなくてもBBの正体を知る方法はいくらでもあった筈だ。けれど彼女は、より早く情報を得ることを選んだ。自分にそれほど時間は無いという事を、解っていたのだろう。
彼女は、自分の愛情表現を素直に受け入れてくれた。けれど、自分からそれを求めることは無かった。そして彼女は自分以外の誰かを、彼に勧めるような言葉さえ口に出していた。エリィをあっさりと受け入れたことも、そこに起因していたのではないだろうか。
それらは彼女が愛されることに慣れていないせいかと思っていたのだが、時間に限りがある自分を自覚していたからなのだろう。
けれど、と博は考える。
空がそんな答えをヴィクターに告げたのは、彼女が自分と知り合う以前の事だ。
出会ってから、彼女は変わっていった筈だ。ヴィクターに前言を撤回するほど積極的では無かったとしても、『やりたい事』が出来た今なら多少なりとも未来を望んでくれるようになっているのではないか。
過酷な運命から逃れる望みを絶たれたとしても、諦めてそれを受け入れてくれるくらいには。
これは、自分のエゴだ。博はそう思う。
けれどエゴならエゴで良い。それを通してしまおう。何しろ自分は、一番欲しかった彼女からの言葉を、まだ貰っていないのだから。
「愛しています」と言って貰っていないのだから。
「僕の強い要望、という事で、お願いします」
博はきっぱりとそう言って、ヴィクターに頭を下げた。
「解った。実はもう、新しい心臓は作ってあるんだ。ただ、やはり元は彼女の細胞だからな、それ自体も耐用年数は長くない。だが、彼女が幼少期に受けた負荷は負わずに培養できているわけだし、医学は今この瞬間も進歩を続けている。次に同じようなことが起こったとしても、今よりももっと上手く対応できるだろう」
ヴィクターはそう言って立ち上がる。
「アンジーにも連絡はしてある。彼女の搬送ルートは確保済みだ。直ぐに移送するが、彼女が戻るまで・・・そうだな、2か月くらいは待ってもらおう」
何もかも準備済みだったという事は、彼もそれを望んでいたという事なのだろう。意欲を漲らせたヴィクターの背中を見送って、博は壁の向こういる彼女に向かって呟いた。
「・・・待っていますからね、空」
そして、ひと月の時間が流れた。
「あと半分、ですか・・・」
博は毎日、日付を確認しては空が戻る日を待ち続けている。
それでも、あの時よりはだいぶマシだ。少なくとも、彼女が今どこにいてどんな状態かは解っているのだから。先日の連絡でも、手術は無事に終わって、まだ低温スリープ状態だがそろそろ目覚めさせるという連絡が入っていた。目が覚めたら事情を説明して、しっかり療養させた後に帰国させるとヴィクターは言っていた。
「空の目が覚めたら、帰国前に彼女と直接連絡が取れれば良いのですが・・・」
そんな事を考えている時、アンジーから連絡が入った。
「急だけど、空がそちらに戻るわ。到着は15:23の予定よ。アクシデントが起きたの・・・」
そろそろ空の覚醒準備を始めようと思っていたヴィクターの元に、医局の自称彼の弟子と称する人物から連絡が入った。
今までヴィクターが行っていた彼の私邸での研究が、本部のうるさ型のお偉いさんにバレたという。査察が入って証拠が押収されるだろうという事だった。
これは拙い、とヴィクターは本気で焦った。法制化前の実験データなどは仕方がないとしても、今その確たる証拠が家の中で寝ているのだ。見つかれば、証拠品と言うわけでは無かろうが、彼女は厳重に医局の管理下に置かれいつ帰国できるか解らなくなるだろう。言い逃れや誤魔化しなど、一切できなくなる。
彼は迅速に行動した。
先ずは、タクシーを呼ぶ。
事前に日本から送ってもらっていた彼女の衣類と荷物を持ち病室に駆け込むと、急いで覚醒処置をして彼女を無理やり起こす。
まだぼうっとして状況など何も解らない彼女を着替えさせ荷物を持たせると、抱えるようにして呼んだタクシーの座席に押し込む。運転手に空港へ行くように告げると、ヴィクターは空の耳元にきっぱりと言った。
「君の行きたいところに行け!いいな!」
そしてタクシーを見送ることも無く家に飛び込むと、アンジーに連絡を入れた。
「何ですって!ちょっと待って。私、今出張先よ・・・いいわ、何とかする」
そして彼女も、出来ることを迅速に行った。
空は、ぼんやりと空港ロビーの片隅にある椅子に座っていた。
徐々に覚醒するはずだった深い眠りから無理やり叩き起こされたせいで、頭も体もまだ正常に動いていない。思考も、途切れがちで纏まらない。
行きたいところへ行け、と言われたが、行きたいところはどこなのだろう。
数時間はそのまま座っていただろうか。
空港清掃員の制服を着た中年女性が、彼女に気づいて近づいて来た。
「どうしたの?ここで、誰かを待ってるの?」
(・・・待ってる?・・・いいえ・・)
空は、ゆっくりとかぶりを振った。
「それじゃ、どこに行きたいの?どこに帰りたいの?待っている人は、いないの?」
女性は静かにゆっくりと、迷子の子供に問いかけるように優しく話しかける。
(・・・行きたいところ・・・待っている人・・)
空はゆっくりと口を開いた。
「・・・・日本・・」
「それじゃ、一緒に行きましょう。歩けるわね?」
女性は掃除用具を片隅に置くと、空の手を取って歩き出した。
空港清掃員の制服を着た彼女は空港常駐のFOI職員で、アンジーから連絡を受けていた。
空の搭乗手続きを一緒に済ませ、搭乗口まで彼女を連れてゆくと、優しく声を掛けて送り出す。
「きっと、待っている人に会えるわよ」
彼女は、アンジーの頼みを細やかな気遣いで遂行してくれた。
機内で時々ウトウトしながら、けれど目が覚めるごとに思考が再開してゆく。
BBとの決着については、朧気ながら思い出していた。
そして、起こされた場所がヴィクターの私邸だったことも。
(・・・リセットされたんですね)
空は掌を左胸に当てて、静かに考える。
あれで終わるのだと思っていた。最後に眼に映ったのは、1番好きなものだった。そして、1番安心できる彼の腕の中にいた。だから、これで充分だと思った。
いつの間にか、心臓が止まる時が、自分にとって自然な終わり方だと信じていて、変えようとは思わなかった。それは、ヴィクターに告げた昔の望み。けれど、それは叶えられなかった。
だが今、何故か残念だとは思わない。不思議なほど。
やがて、機体は着陸する。
空は、ゆっくりと歩を進め、到着ロビーに続く自動ドアを出る。
(・・・この前は、アンジーと一緒でした・・・)
クーデター事件の後、やはりヴィクターの手術を受けて、ここに戻ってきた。
『やりたい事』の残り半分を実行するために、区切りを付けようと思って。
(あの時は、あの先に博がいて・・・)
思い出を辿りながら顔を上げる。
そして、彼女は彼を見つけた。
(夢・・・でしょうか?起こされたところから全部・・・)
空の足が止まる。
走り出したら、この夢から覚めそうな気がする。
覚めるくらいなら、この瞬間がいつまでも続くと良い。
そんな思いが頭を支配する。
立ち止まって動かない空を目指して、博が駆け寄ってくる。
差し出された両手に向かって、彼女は無意識に自分の両腕を差し伸べた。
強く抱きしめられた感覚に、空は眼を閉じた。
ここで、夢が覚めても構わない、と思いながら。
「・・・お帰りなさい」
優しい声が、耳の奥に沁み込む。
「・・・・・はい・・ただいま・・戻りました。・・・本物、ですよね?」
彼の背中に回した空の手が、彼の上着をギュッと掴んだ。
「それは、こっちの台詞です。・・・それより、勝手にヴィクターに交換を頼んでしまいましたが・・・怒ってはいませんか?」
自分のエゴで、彼女の望みを絶ったのだから、と博は少し腕を緩めて彼女の表情を窺った。
「いいえ・・・寧ろ、嬉しいのかもしれません。だから、ちゃんと言わないと、と思って」
博は、彼女の言葉を待つ。
「・・・あ」
それに続く言葉は、と瞬間的に期待に胸を膨らませる。
「ありがとうございます」
(やっぱり、そっちでしたか)
自分が1番欲しいと思っている、彼女からの「愛しています」は、まだ先の事になりそうだ。けれど、彼女はこうして、これからも彼の傍にいることを、自分自身に許したのだ。
「それもこっちの台詞です。空、許してくれて、戻って来てくれて、ありがとう。愛しています」
そして彼は、思いを込めた口づけを贈る。
到着ロビーの真ん中で、美女と美男の熱いキスは注目の的だったが、それは珍しくも無い光景だっただろう。空港は、出会いの場でもあるのだから。そして、再会の場でも。
やがて博は、名残惜しそうに唇を離すと、ニッコリと笑って空に告げた。
「さぁ、帰りましょう。カレーが待っています」
さっき仲間たちからラインが入っていたのだ。
彼女が食べ損ねた、あのカレーを作ってリビングスペースで待っている、と。
空の眼が、パッと輝き笑みが浮かんだ。
そして二人は、ロビーを出てゆく。
彼は彼女の肩をしっかりと抱き、これからも続く日常の中へと。
これからもきっと、FOI捜査官の空と局長の博の未来には、多くの事件や困難が待ち受けていることだろう。まだまだ続く、2人の人生を、彼らはどうやって乗り越えてゆくのだろうか。
けれど、どんなことが起こっても、最後はきっとお互いが傍にいるに違いない。
今までずっと、そうだったように。
漸く、BBとの確執に終止符が打たれました。
リセットされた心臓と育ってゆく彼への愛を抱いて、空は彼の傍で生きてゆくことを、自分に許しました。
けれど、まだ彼女は発展途上。
これからも、そんな空の物語は続いていきます。