5 香気残して紅梅は散り
インフルエンザの猛威が支局から去ると、博は早速BBの正体を知るべく、彼が在籍していたと言う小学校や中学校の卒業生たちを調べ始めた。アンジーや本部の協力で資料を送ってもらい、総当たりで調べるがそれでも何とか人数を50名程度に絞れた程度だった。現在どこにいて何をしているか解らない人間が多すぎて、そこまで絞るのが限界だった。
その間も、BBは何も仕掛けてこない。クラップスの№2にのし上がり実質的に権力を握ったことで、ストレスも無くなりリフレッシュの必要が無くなったのかもしれない、とさえ考えたくなってくる。
今後、彼から何もされなくなったとしても、こちらの気持ちが治まる筈は無いのだが。
博は、そこで一旦調査を終えた。また新たな情報が入れば先に進めるだろうし、クラップスの№2ともなれば本部も目を光らせている筈だ。彼が動けば、こちらにも連絡が来るだろう。
そんな風に考えた時から、油断が始まったのかもしれなかった。
ひと雨ごとに暖かくなるような2月下旬のある日。
空と豪は、珍しい組み合わせで支局の近くのショッピングモールに来ていた。
ひと月余り続いた本部からの捜査依頼が漸く落ち着いて、久しぶりに6人一緒にランチタイムを過ごしていたのだが、話題が何故か子供時代の校外活動になり、真が言い出したのである。
「遠足とか林間学校とか色々あったけど、俺はやっぱ飯盒炊爨が一番思い出に残ってるな」
「ハンゴウスイサン?」
聞き慣れない言葉に、空が呟いた。日本語には堪能で普段の会話で困ることは無く、日本生まれの日本人で充分通る空だが、たまに知らない言葉にぶつかる。
「あ~~、なんつぅか・・・学校から離れて皆で飯を作るって感じの行事かな」
「バーベキューのような感じですか?」
「う~~ん、俺の時は飯を炊いて、カレー作ったぜ。あれは美味かったなぁ~」
うんうんと1人頷きながら、親父臭く思い出を語る真に、小夜子はいささか不機嫌になる。普段の夕食は食堂でとるこの夫婦なのだが、一昨日珍しく小夜子が部屋でカレーを作ったのだ。
「ふ~~ん、それじゃ作ってよ。みんなも食べてみたいわよね~~」
そんなこんなで結局、何故か男性陣がカレーを作り、女性陣に振舞うという計画が持ち上がってしまった。翌日の午前中、真と豪が材料の買い出しに行ったのだが、福神漬けを買い忘れてきてしまった。そこで豪がもう1度買いに行くことになったのだが、丁度ビートにあげる果物を切らしていたので、空も一緒に行くことにしたのである。
ショッピングモールの地下にあるスーパーで、果物と福神漬けを購入したが、結構時間が掛かってしまった。何しろ福神漬けなるものが、どんな物でどのようなパッケージに入っているか知らない2人だったのだから。取り敢えずスマホで調べ、形状は解ったが、スーパーは混む時間帯で店員も見つからず、買い物客に聞いて発見した時には、かなりの時間が経過していた。けれど、カレー作りそのものに必要な材料でもないので、焦ることもなく1階に戻る。
「あ!すみません、ちょっと2階の本屋に行って来てもいいですか?今日発売の雑誌があったのを思い出して。すぐ戻りますから、ちょっと待っててください」
「はい、それではあの辺りで待っていますね」
空はエスカレーターの近くにある出入口を指して答えた。
低い段差のステップが数段あるその上に自動ドアがあって、休憩できるベンチもあった。出入りする買い物客は多いが、隅に居れば邪魔にはならないだろう。
豪と別れた空は、ステップを上がって壁際に寄って待つことにした。
10分ほども待っただろうか。空のスマホに、豪から通話が入った。
「すみません、レジがトラブってもう少し時間が掛かりそうです・・・」
空が返事をしようと口を開きかけた時、近くで銃声と女性の悲鳴が聞こえた。
咄嗟に荷物をその場に落として視線を巡らせると、エスカレーターの傍に銃を持った女がいて、近くに女性が倒れている。太腿を撃たれたらしい女性はロングヘアの若い女性で、床を這って必死に逃げようとしていた。
「コイツじゃないっ!」
銃を構えた女が叫びその顔と銃口をこちらに向けるのと、空が1歩ステップを降りのは同時だった。
視線が合う。
女の眼は血走り髪は乱れ、口元から涎を垂らしている。
まともな精神状態ではない事が、ひと目で解った。
周囲にいた人々は悲鳴を上げながら逃げ始めるが、腰を抜かしたらしい老人や転んだ人もいる。
そんな中、女は震える手で銃を構え、叫びながら引き金を引いた。
「オマエだぁ!」
弾は空の足元のステップに当たり、その跳弾が近くにいた中年女性の背後の壁にめり込んだ。女は引き金を引く瞬間、ギュッと目を閉じていた。
(あれはベレッタナノ・・・装弾数6)
あと4発。
空は女の小型拳銃を見て取り、残りの弾数を頭に浮かべるが、その位置から前に跳んでも女の近くには届かない。
「空さんっ!何かあったんですかっ!すぐ行きます!」
手に持ったスマホから、豪の声が響く。けれど2階の奥にある書籍売り場からでは、間に合わないだろう。これ以上の被害は、防がなければならない。
「目を開けて!しっかり狙いなさい!」
空の声が鋭く飛ぶ。
そして両手を広げ、ゆっくりとステップを降り始める。
1段・・・2段・・・
銃声が響いた。空の右肩から赤い花弁のように、血が宙に舞う。
一瞬よろけた空だが、女から視線を外さずもう1歩踏み出す。
続けざまに銃声が響き、女の指が掛かる引き金がカチカチと空虚な音を出した。
全弾撃ち尽くした。
それだけを確認し、空の身体はステップに崩れ落ちた。
急激に落ちてゆく意識の中で、手の中のスマホに気づく。
まだ通話が続いているのなら・・・
空は細い吐息と共に唇を震わせた。
けれど直ぐに、コトンと小さな音を立てて頭がステップに落ちる。
白い指から離れ、滑り落ちたスマホが無機質な音を立てて転がった。
4つの銃声が響いた直後、警備員と豪が現場に到着する。へなへなと座り込んだ女の方は警備員に任せ、豪は跳びつくようにステップに倒れた空に駆け寄った。
「空さんっ!」
辺りには散り落ちた花のような赤が大量に飛んでいる。身体の下からは血だまりがその面積を増やしていた。豪は空を抱き上げ、階段下の平らなところにその身体を下ろすと、胸に耳を当てる。
「・・・AED!早くっ!」
豪は顔を上げ、周囲に向かって大声で叫んだ。
その頃、支局には警視庁から緊急連絡が入っていた。
「すぐそこのショッピングモールで、銃の乱射事件発生ですっ!」
春の声に、全員がギョッとした。空と豪が行った場所ではないか。
次の瞬間、博のスマホに豪から通話が入る。
「空さんが撃たれました。今、救急車が来て、FOI病棟に搬送するよう指示しました・・・」
「空の様子はっ⁉」
「・・・モールのAEDがなかなか来なくて、救急車の中で行うと・・・」
豪の言葉に、博は足元が崩れ落ちてゆくような感覚を覚える。
(・・・AED・・・それは・・)
心臓が止まっていていて、蘇生措置が必要ということではないか。
「また、BBかっ!直ぐ、車を出す!小夜子、現場に行って豪と交代してくれ。おい!ナニ呆けてるんだ!病院に行くぞ!」
真は立ち尽くす博の腕を強く掴み、引きずるようにして駐車場に向かった。
(・・・空・・・・・)
手術室の前の廊下で長椅子に座る博は、心の中で彼女の名前を呼び続けていた。
看護士に、救急車の中のAEDで心肺蘇生が出来たことを聞かされたが、手術中のランプは点灯したままだ。どれほど時間が経ったのか、それすらも解らず、博は震える手を握りしめずっと俯いていた。
傍に付き添う真も、掛ける言葉もないまま立ち尽くしている。
そこに小夜子と交代して貰った豪が来た。
こんな事になったのは、自分の責任だと痛感する豪は、2人に駆け寄るなり深く頭を下げる。
「すみません、空さんを1人にしたばっかりに・・・」
そんな豪に、顔さえ上げられない博に代わって、真が言葉を掛ける。
「お前さんだけのせいじゃねぇって。それより報告しろよ」
そこで漸く豪の存在に気づいたらしい博が、顔もあげないまま小さく呟いた。
「・・・彼女だったらきっとこう言うでしょうね。『悪いのはBBじゃの方じゃありませんか』と」
それでも、心が軽くなるわけでは無い。豪は、辛そうな表情で報告をする。
銃を乱射した女は、完全な薬物中毒になっていたようで、連行されるときもブツブツ言っていた。
「あの女が盗ったのよ」「アタシのあの人は、帰ってくるかしら」などという台詞から、空を憎い恋敵だと信じ込んでいたらしい。拳銃の所持理由や薬物の出どころを考えると、誰かが女にそれらを与え、長い黒髪の女性をターゲットとして実行させたのではないかと推測される。
警察もその線で、捜査を始めるようだ。
「犯行が起きる直前から、空さんと通話していました。通話記録、聞かれますか?」
豪は持ってきた空のバッグから、スマホを取り出して差し出した。FOI捜査官のスマホは、通話を常時録音している。博はハッとしたように顔を上げ、スマホを受け取った。
拭き取った跡らしい血の汚れが付いていた。
途中まで聞いて、博が独り言のように呟いた。
「・・・空は・・・自分から撃たれにいったんですね・・・」
「あの状況では、そうする以外に周囲の人たちを守る方法は無かったと思います」
彼女だったら、そうするに違いないのだ。
博はそう思いながら、通話記録の続きを聞く。
ステップに倒れ込んだらしい音の後で、密やかな吐息に混じる微かな音。
おそらく博の耳にしか、聞きとれないような、断続的な小さな音。
『・・・ひろ・に・・・つた・・・ぁ・・・』
豪との通話が繋がっていると気付いていたのだろう。『博に伝えて・・・』の後に続く言葉は何だったのだろうか。
最後はすぅっと消えてゆくその音を追いかけるように、彼はスマホを額に当てて目を瞑った。
豪は、警察の事情聴衆があるからと言って帰って行った。
そして、博は考える。
自分が甘かったのだ、と。
BBが№2の地位を安定させるのに忙しいということは、これまでの周囲の敵を清算することでもある。リフレッシュする相手が必要なくなった現在、これまでの事で報復を受ける可能性があるなら、それを排除しておこうと思うのは彼にとって当然の事なのだ。
予測して対応しなければならなかった。
それをしなかった事が、今に繋がっている。
いくら自分を責めても、責めたりない。
そんな彼の心情を理解したのか、真は自分の兄の肩をポンポンと叩いた。
どのくらい待ち続けたのだろう。
やがて、手術室のドアが開いて医師が出て来た。
「ご説明します。こちらへどうぞ」
パッと立ち上がって口を開こうとする博を制し、医師は2人を集中治療室へと案内した。
ガラス越しに、空の姿が見えた。酸素マスクを着け、沢山のチューブやコードが周辺の医療機器に繋がっている。バイタルサインを示すモニターが、忙しくその表示を変えていた。
「本部のドクター・ヴィクターと連絡を取って、彼の指示通りに対応しています」
医師はそう言ってから、怪我の状態を説明し出した。
右肩に1つ、左脇腹上部に1つ、腹部右側に1つ、左大腿部に1つ、計4発の銃弾を浴びていた。
腹部と大腿部は貫通していたが、肩と脇腹に弾が残っていたので、それを摘出した。幸いなことに、口径の小さな銃だったお陰で臓器への損傷は少なかった。けれど大腿部は血管損傷が酷く、出血が多かった。救急車内のAEDで、心肺蘇生はできたが、それ以後状態は安定していない。
「ドクター・ヴィクターによれば、明日の朝までもてば、それ以後は回復に向かうはずだということですが、目が離せない状態ですね」
その説明も終わらないうちに、ガラスの向こうで付き添っていた看護師からコールがかかる。
医師は急いで中に入り、何かを細かく調節している。
目が離せないというのは、こういう事なのだろう。
「真、支局へ戻ってください。後は、お願いします。何かあったら、必ず連絡を入れますので」
博が漸く口を開いた。
「・・・おう。空にとって一番大事な人間がいれば、それで大丈夫だろ。こっちは任せたぜ」
真はそう言って、静かに出て行った。危険な状態の空と、憔悴した博を残していくのは気掛かりではあったが、こう言っておけば少なくとも彼の方は大丈夫だろうと信じることにする。
そして、夜は更けていった。
長い夜の間に、医師は何度か集中治療室に入り、その都度状態に対応していた。博はその度に立ち上がってガラス窓の中を覗き込み、眉を顰めて唇を噛む。
時間はノロノロとしか進まないように思えて、こんな状況が永遠に続くのではないかとさえ思える。
けれど、いつしか夜は明けていた。
空は集中治療室を出て、以前と同じ特別室に移動することが出来た。
意識が戻った空は、身体中包帯だらけで痛むはずなのに、眼を開けてそこに博の顔を見つけると、ふわりと笑って見せる。
「・・・また、心配させて・・しまいました。・・・ごめんなさい」
酸素マスクの中から、聞き取りづらい言葉を途切れ途切れに紡ぐ。
博は泣き笑いのような表情で、彼女の頬に掌を添わせた。
「・・・良かった・・・君を失わずに済んで・・・」
『すみません』ではなく『ごめんなさい』と言う彼女の言葉が、嬉しさに拍車をかけるようだ。
あれほど辛かった時間が、蒸発して消えてゆくような気がする。
博は、彼女の酸素マスクを少しだけ外し、その唇にそっとキスをする。
「・・・でも、私は・・・何だか安心していました。・・・これで終わるとは思わなくて。死ぬかもしれない、とも思いませんでした」
「心臓、止まったんですよ? 蘇生できましたけど」
「そうなんですか?・・・それでも、助けてもらえると・・・思っていたんでしょう。再起動できて良かったです。・・・止まったままにならなくて」
どこか他人事のように話す空に、もう1度酸素マスクを着けなおし、博は苦笑交じりのため息をつく。
取り敢えず、支局に連絡を入れよう。皆、待ってるはずだから。
けれど、その前に、大事な言葉を告げよう。
「生きていてくれて、傍にいてくれて、ありがとう、空」
そして、何よりも大切な気持ちを伝えよう。心を籠めて。
「君を、愛しています」と。