4 余寒厳しき折の色々
12月の超小型原子炉事件で、クリスマスを祝えなかった支局のメンバーたちは、せめて大晦日から正月にかけては盛大に楽しもうじゃないかと張り切っていた。
空は、日本の正月行事は初めて経験することだし、博と豪も幼少期に日本を離れているから馴染みが無い。小夜子と春は、真を引っ張り込んで計画を練り始める。
年越しそばはどうしようか。カウントダウンはどこでやろうか。
初詣はどこが人気か。おせち料理はどうしよう。
暇さえあれば賑やかに計画を練る2人と添え物の1人だが、結局一般的なものが良かろうという結論になる。最初が奇抜なものだと、それが普通だと判断される場合もあるからだ。特に、空の場合は。
大晦日の年越し蕎麦は、人気蕎麦屋の年越しセットをリビングスペースで用意して、ビートも加えて全員で食べる。そのままカウントダウンして乾杯し、一同は初詣へと繰り出した。流石にビートは留守番になったが、快く送り出してくれた。眠かったのだろう。
M神宮は大晦日から元旦にかけてずっと開門されているので何時に出かけても大丈夫だが、何しろ初詣参拝者数が日本一と言われているので、その混雑ぶりは物凄い。
公共交通機関を使うしかないのだが、地下鉄ならさほど遠くないのでそれを利用することにする。
けれど、駅の構内からして相当の混雑ぶりで、短時間とは言え車内は満員になると予想された。
「空、大丈夫ですか?こっちの地下鉄は初めてでしょう?」
手術後退院して内勤まで復帰しているが、まだトレーニングまでは出来ずにいる空の体調を心配して、博が尋ねた。
「はい、向こうの地下鉄には任務で何度か乗車したことはありますが、こんなに混雑しているのは初めてです。乗車率はかなりオーバーするのでしょうね」
けれど彼女は、珍しそうに周囲を見回して興味深そうな眼をしている。そこに、列車がホームに入ってきた。
案の定、車内は完全に『満員電車』になって駅を出る。
博と空は一緒に車内に入ったが、真ん中あたりで身動きできない状態になってしまった。仲間たちもバラバラになってしまっている。彼は出来る限り彼女を守ろうと、片手を彼女の背中に回し離れないようにしていた。
これから初詣に行く人々が多いと思うが、こんな時期や時間でも出勤したり仕事明けで帰る人間はいる。電車の揺れで多少動ける時もあるが、赤の他人とこんな風に、身体を長時間密着した状態で我慢が出来る日本人は凄い、と素直に感心する空である。
そんな時、ふと尻の辺りに誰かの手が触る感覚を覚えた。
(・・・?荷物じゃないようですが・・・偶然?)
しかしその手は、サワサワとコートの上から彼女のヒップを撫で始める。
(え?・・・ええと、これはいわゆる痴漢?)
その知識はあるが、被害者になるのは初めてだ。どうしようかと彼の顔を見上げてみるが、他所を見ているようで空の状況には全く気付いていない。
参拝者が多い筈だが、そんな車内で何とも罰当たりなことだ。
それにしてもこんな満員の車内で、誰も言葉を発せず、変に静かなのはある意味凄いことかもしれない。
(声を上げるのも憚れらます・・・)
痴漢の対処法は知識としてはあるが、それを適用すべきかどうか空は悩む。
(この程度なら、我慢しておきましょうか・・・怪我する訳でもないですし)
未だに自分の身体に関心が無い空は、そんな風に思ってしまった。それが痴漢を助長させる事になるという事にまでは、思い至らない。
列車が少し揺れた。僅かにできた隙間を利用した痴漢は、少し足を開いて立つ彼女の両足の間に自分の片足をねじ込む。そして彼女のコートのスリットから手を入れて、気持ちよさそうに臀部を揉み始めた。
(・・・ヒッ!)
思わず息を詰めた空だが、痴漢の手は更に図に乗り、尻の割れ目に指を差し入れてくる。
(・・・っ)
流石に体が強張り、前にいる博の腕を掴んだ。
「・・・?・・・!」
どうしたのかと空の顔を覗き込み、直ぐに察した博だったが、丁度その時駅に到着してドアが開いた。
そのまま人の流れに乗って、ホームに出た2人だが、当の痴漢もどこかに紛れて立ち去った。
「空?もしかして、痴漢に遭いました?」
「・・・はぁ・・・初体験です」
あんな事までされるとは思わなかった空は、驚いたのだろう。流石に息が乱れている。
「辛かったんじゃないですか?直ぐに気づいてあげられなくて、すみません」
聴覚に問題がある分、触覚は鋭い空だ。その皮膚感覚で被害を受ければ・・・と、博は思う。
「いえ・・・痛覚と同じように、ある程度はコントロールできるので・・・」
空は深呼吸を繰り返し、嫌な感覚を逃がしている。
どこをどんな風にされたのか、一応小声で聞いてみた博は思い切り腹を立てるが、怒りをぶつける相手はもういない。空は、離れてしまえば大丈夫とばかりに落ち着きを取り戻していた。
結局彼はスマホで、先に行ってくれるようメンバーに連絡を入れ、次の電車を待つことにした。
地下鉄を降りて仲間と合流した2人は、車内の出来事を簡単に伝えておく。小夜子や真などは、日本の満員電車事情を申し訳なく思い空に謝ったが、彼らのせいでは全く無い。
気を取り直して初詣に向かい、そちらも相当な混雑ではあったが無事に参拝を終えた。
折角なので境内を見て回るとことにする。遠くからだと1本の木のように見えるが近くに来ると2本の楠は、夫婦楠で木の間に注連縄が張ってある。恋愛成就のご利益があるいうので、念のため博も熱心に拝んでおいた。今が恋愛の完成形であるとは確信できなかったのである。何しろ彼女から、1番欲しい言葉を貰っていないのだ。
元々、M神宮は夫婦円満や縁結びのご利益がある。ここを初詣に選んでくれた小夜子と春に、博は密かに感謝していた。
亀石という亀の形の岩にも触った。こちらは健康・長寿のご利益があるので、特に空には念入りに触らせておく。何しろここ10か月の間に、どれだけ危険な状態になって、病院の世話になっているかを考えると、神仏への信仰が無くても、岩の亀にでも祈りたくなってしまう。
最後は、帰りの道すがら屋台の食べ歩きだ。
どれも皆、物珍しそうに見て回る空に、仲間たちは面白がって色々と食べさせていた。
焼きそば・たこ焼き・イカ焼き・綿あめ・りんご飴・・・
ひと口ずつ食べても、いい加減お腹はいっぱいになる。そろそろ帰ろうかということになり、一行は再び地下鉄の駅に向かった。
帰りの車内も混んではいたが、来た時ほどでは無かった。運よく空いた席に、小夜子は空を座らせる。立っているより安全だと主張して無理やり座らせた形だが、空は思い切り恐縮していた。けれど、周りには席を譲るような相手はいない。仕方なく大人しく座っていたが、次の駅で沢山の乗客が入って来たために、仲間たちとは離れてしまう。
そして座る空の前に、1人の男が立った。
男は2つの吊革をそれぞれの手で掴み、前傾姿勢になる。覆いかぶさるようなその体勢に、不審に思った空が顔を上げると、目の前にとんでもないモノが出現していた。ちらりと見上げた男の顔は、ニヤニヤ笑いで彼女を見下ろしている。
男の開いたコートの影になって、空以外には見えないだろうそのブツに、空は大きな疑問符を頭の上に乗せてしまった。
(・・・いわゆる露出狂という方でしょうか?)
見たからと言って別にどうということは無い。医学部出身でもあるので、ホモサピエンスの♂の外見など百も承知だ。けれど、状況的には初めての経験である。
(生憎、この場合の対処法は知識にないです)
どうしたものか、と考え始めた時、隣に座っていた女性がそれに気づいた。
いかにも下町のおかみさんと言う雰囲気で、髪に白いものが混じっているその女性は、顔を出して男のコートの中を見た。
「アンタ!その小汚いモノをしまいなさい!」
手厳しいきっぱりとしたその声に、辺りの乗客も気づき始める。男はそそくさとソレを仕舞い込むと、次の駅で降りて行った。
行きも帰りもとんでもない目に遭った空だが、本人より寧ろ仲間の方が改めて不安になる。
毎日顔を合わせているとつい忘れがちだが、彼女は美人でプロポーションも良く、普段は穏やかで、一見大人しそうな雰囲気なのだ。
小夜子は、こういうことに関しては自分を一般女性だと考えて正しく対応するように、と空に説教する。泣き寝入りや放置は、寧ろ相手を助長させる事になるのだからと。
そして今後、彼女を公共交通機関に乗せることは、出来るだけ避けようと全員が思った。
ある意味、空は危険人物なのだ。痴漢被害に遭う危険が大きいという意味での『危険』である。
正月の三が日は、平穏に過ぎて行った。
支局の業務は、365日24時間営業のコンビニと変わらないのではあるが、本部からの依頼も無く通常の事務仕事で済んだ。食堂の花さんも年末年始は休暇なので、捜査官たちは仕事の合間に買っておいたお節料理やお雑煮などを食べていた。特に空は、お節料理のきんとんと伊達巻、そして小夜子と真が作ったお汁粉が気に入ったようだ。
そんな風に和やかに過ごした正月だったが、4日目に博と小夜子が熱を出して寝込んでしまった。
ふみ先生の診断でインフルエンザだと解り、さらに次の日は豪まで発症したので、各自自室での療養となる。医務室併設の病室ではベッド数が足りないからだ。
「参りましたね、予防接種は受けていたんですが・・・」
自室のベッドに寝ている博がぼやく。あの亀石のご利益は、受けられなかったようだ。
空が彼の看病を引き受けているが、寝る時は隣の部屋のソファーを使っていた。
「何をしてても、罹る時は罹るとふみ先生は仰ってました」
高熱と言うほどではないが、熱はあるし喉と関節は痛い。博は彼女が持ってきた冷たい水を飲みながら、ため息をついて言葉を続けた。
「工事して病室のベッド数を増やした方がいいかも知れません。ところで、君は大丈夫ですか?」
伝染してはいけないと気遣う彼の言葉に、空は微笑んで答える。
「私は、普通の風邪も引きませんので。そう言えば真が小夜子に、鬼の霍乱だと言ったそうです。小夜子は『馬鹿は風邪を引かない』と言いたかったけど、年末に真は風邪を引いていたので、言えないのを悔しがったとか」
珍しく口数が多い彼女だが、少しでも病人の気が紛れるようにと気遣っているのかもしれない。
「そうすると、私は馬鹿と言うことになりますが、以前ヴィクターも『変わり者は風邪を引かない』と言っていましたので、そう言うことなのかもしれません」
細やかな彼女の看病で、博のインフルエンザも3日後には症状も治まり、ベッドから出ることが出来た。丸2日は寝ていたことになるが、それでも軽く済んだ方なのだろう。けれど、真と春も入れ替わるように患者になる。今回のインフルエンザは、感染力も凄いようだ。おそらく初詣の時に貰ってきたのだろうが、こんな時は依頼が来ない事が何よりもありがたい。
そしてやはり、空も博と入れ替わって熱を出した。
「う~~ん、39度2分ですか・・・高いですね」
念のため体温計でも計ってみたが、彼女の症状は自分の時より重い気がする。
「予防接種は・・・」
「受けていません。その時期、私はT国にいたので・・・」
空は申し訳なさそうに、掠れた声で答える。
(そうだった!空は日本を離れて過酷な任務に就いていたんでした)
彼女がここに復帰した後、予防接種の事まで気が回らなかった。それは、ふみ先生も同じだったのだろう。失態でした、と博は反省する。
「そうでしたね。後で、ふみ先生と相談してきましょう。何か欲しいものはありませんか?」
今度は自分が看病する番だ、と優しく尋ねる博に、けれど空はかぶりを振って答えた。
「・・・いえ・・・何も」
喉が痛すぎて飲み込むのが辛い。
熱と関節痛で食欲などこれっぽっちも無かった。
「でも、水分は摂らないと。何か冷たい飲み物と、ゼリーでも持って来ましょう」
博は止まり木に居るビートに声を掛け、そそくさと食堂に向かった。
流石に辛いようで、空は何度も寝返りをうってはウトウトと眠る。そんな彼女に付きっきりで、博は看病を続けた。彼女が目を覚ますと、冷たい水やジュースを飲ませ、粘膜保護に効果があると言うゼリーを少しずつ食べさせる。
ふみ先生に言われた「冷たいタオルを額と瞼に乗せた方が、貼るタイプのものより気持ちよく感じるかも」という言葉に従って、昔ながらのやり方で、氷水で冷やしたタオルを何度も替えて額に乗せた。彼女が寝返りを打ってタオルが落ちそうになると、手で押さえて様子を見守る。
そんな風に時間を過ごしていた時、博のスマホにアンジーから連絡が入った。
「やっと次の報告ができるようになったわ。空は元気?」
いつものように妹のような存在を気に掛けるアンジーだが、博としては嘘で誤魔化すことは出来そうにない。色々な意味で、アンジーは鋭いのだ。
「それが・・・今、インフルエンザで寝込んでいます。僕のが伝染ったようで・・・」
「は?・・・どうやって伝染したのよ!」
「どう、と言われても・・・看病して貰ったんですが・・・」
いくらなんでも、自分がインフル患者だった時に濃厚接触はしていません、と弁解する博だ。
「・・・ホントかしらね。で、彼女は大丈夫なの?ちゃんと看病しなさいよ」
信用が全く無い、と思いつつ後半部分は言われなくてもやっているので、力強く肯定の返事をした。
「じゃ、例の報告ね。2つあるんだけど・・・」
アンジーは、BBに関する新たな情報を話し始めた。
クラップスはT国の地下組織「ヌエボムンド」を支援していたわけだが、クーデターが成功し新たな政権が樹立したことで大きな力を得た。その成果もあって、支援を統括していたBBはクラップスの№3から№2にその地位を押し上げたらしい。現在のクラップスのボスは高齢の持病持ちだという噂なので、実質トップの実権を手に入れたことになる。現在はT国とA国を頻繁に行き来して、その地位を安定させるのに忙しいらしい。
アンジーはそこまで話すと、もう1つの情報も伝える。
「BBの子供時代の事が解ったわ。小学校と中学校は、貴方と同じよ。それ以降はまだ調査中だけど、それだけでも心当たりがあったら連絡して。必要な資料とかがあったら送るから」
博は心からの感謝を込めてお礼を言い、スマホを切る。
同学年、或いは1年上か下の学年で、直ぐに顔が浮かぶのは僅かしかいない。しかも映像で見たBBの顔は、特徴が無さすぎて子供の頃の顔を想像するのが難しい。
(それでも、この手掛かりは重要です・・・)
博は、空が回復して時間に余裕が出来たら、手を付けてみようと思う。
今は、彼女の看病の方が大事な博だった。
やがて苦し気だった呼吸が落ち着くようになると、喉や体の痛みも軽減されたようで、彼女は本当に申し訳なさそうにお礼を言った。
「すみません。ありがとうございます・・・こんな風になるのは、もしかしたら子供の時以来かもしれません」
聴覚を失った時の高熱。何の病気だったのかは解らないが、あの時はビートが頑張って水を運んできてくれた。誰にも気づかれないように、ただ身体を丸くして耐えていたあの時。
「でも、その時よりずっと楽でした。安心していられるというのは、恵まれたことなのだと思います」
空はまだ熱で潤んでいる瞳で、真っすぐに彼を見つめた。
そして、ふわりと笑みを浮かべると、心からの言葉を紡ぐ。
「博・・・傍にいてくれて、ありがとうございます」
相手が傍にいるということは、相手にとっても自分が傍にいることだ。
博はそんな事を思いながら答える。
「僕も同じです。傍にいてくれてありがとう、空」
早く完治して抱かせてくださいね、と不埒な言葉は胸の内に収めて、彼はその頬にとびきり優しいキスを落とした。