2 小春日和の中で老人と孫は
11月になり、晩秋の風も冷たく冬も近いと感じさせられる頃。
博が空と出会って、1年が過ぎていた。A国の空港で顔を合わせてからの1年が、どれだけ波乱万丈だったかをしみじみと思う博は、空と一緒に信州に来ていた。
彼のA国での知り合いが、仕事で信州のリゾートホテルに滞在していたので、挨拶かたがた出向いてきたのだ。
空と2人で、と言うところが彼にとって重要だった。
その話を彼が切り出した時、空は少し躊躇した。数日とは言え、支局の指揮権順位の1と2が揃って支局を留守にするのはどうかと思ったのだ。けれど、他の捜査官たちは快く了承する。例の大事件の後も、2人は休暇も取らず勤務を続けていたのだから、と。
実際、博と空が同時に抜けても日常業務は滞ることは無い。捜査官たちは互いの仕事内容をそれぞれがよく理解しており、協力すれば抜けた分の穴をカバーすることが出来る。それは開局当初から局長である博が、目指していた職場の姿だった。
空が戻って来てから暫く、ヨウムのビートはメインルームでも止まり木ではなく、ずっと彼女の肩にいたのだが、もうすっかり落ち着いていつも通りになっていた。そんなビートも聞き分けの良い子供のように、イッテラッシャイと送り出してくれた。
そんな訳で、自然豊かなリゾートホテルまで、空が運転する車でやってきた2人である。
ホテルとは言っても、和風の離れもあり庭園の造りも見事だ。小規模な畑や果樹園もあって、その辺りも集客にひと役かっているのだろう。
博はホテルに入ると、早速アポを取っておいた知り合いに会う。視力を失う前、捜査官だった頃の知人だと言う相手は、50代くらいの男性だった。捜査官時代、博は色々と世話になったのだが、彼はやがて退職して事業を始め、今や立派な実業家になっている。名は、ダニエル・モリスと言った。
「ご無沙汰しております」
「いやぁ、本当に久しぶりだ」
そんな挨拶で始まった二人の会話は、懐かしそうで楽しそうだ。
しかし彼は申し訳なさそうに、話を止めた。
「急に別のアポが入ってね、話の続きは夜にしないか?部屋を取っておくから」
博としては、もう既に別の宿を予約してあったので遠慮したいところだったが、彼はいささか強引に部屋を取ってしまう。シングルを2つ。
傍に控えていた空を、秘書だと思ったのだ。適切な措置だとは思うが、博としては当てが外れたというところだろう。けれど、1泊くらいなら良いかと思い直してありがたく好意を受け取った。
夕食までの間、博と空はホテルの庭園などを散策して時間を過ごす。
日本庭園は空にとって珍しいものなのか、配置してある建造物などについての質問をして楽しそうだ。石組の間には、ツワブキの黄色や鶏頭の赤。四阿の近くには、咲き初めた山茶花の薄桃色。池の向こうには、今が盛りの紅葉の紅。植物についての空の詳しい説明を聞きながら、頭の中でその風景を想像して自分も楽しんでいた博だったが、ふと思いついて問いかけてみる。
「空は、生物系にも詳しいですよね。植物とか動物とか」
「FOIの医局に入った時、担当が天然麻薬の方でしたので、時間がある時はネットで情報収集していました。その関連で植物・動物・虫などは、画像や動画を見て覚えました」
成程、と博は思ったがその記憶力は流石だと思う。
「例えば、1度見ただけでも詳しく覚えられるんですか?」
「はぁ・・・」
そこで、空は少し口ごもる。
「もしかしたら、君はカメラアイのスキルを持っているんですか?」
カメラアイとは、文字通りカメラのように一瞬のできごとや情報を鮮明に記憶する能力をいう。
特に彼女の場合は、眼に映る光景を映像として記憶できるので、その時注目していなかった部分も後から思い出して確認できた。
空は目を伏せて少し考えたが、やがて微笑みを浮かべて彼の顔を見る。
「はい・・・アンジーと初めてあった頃、彼女にもそう言われました。そして、その技能は隠しておくように、とも」
アンジーは空に向かって、そのスキルは誰にも言っちゃダメだと言った。特にFOI内では隠しておくように、と。周囲がそれを知れば、便利屋になってしまう。どこにでも連れて行き、情報として記憶させておけば色々と便利だからだ。いちいちスマホやカメラを構えなくていいし、見落としが無かったかどうかを確認するにも都合が良い。
「アンジーは、伝えても大丈夫だと本当に思える相手なら良いと言いましたが、自分はその事を忘れるから、とも言いました」
アンジーは、仕事の事よりも空のこれからの人生を優先してくれたのだろう。便利屋になってしまえば、現場に出る回数だけは増えるが給与は基本給のみになる。当時の彼女の状況を、慮ってくれたのだ。
空の言葉を聞き、博はじんわりと暖かくなるような嬉しさを覚える。彼女は彼を、伝えても大丈夫だと本当に思える相手、それを知っても自分を便利な道具として使うことはないと信じられる相手だと思ってくれたのだ。
「・・・僕に伝えてくれて、ありがとう」
博はそう言ってそっと彼女を抱きしめながら、心の中でアンジーにもお礼を言っていた。
散策を終えてホテル内に戻る途中、仕事を終えた庭師らしい老人が、ずっとこちらを見ていたことに気づく。2人がそれに気づくと、庭師は慌ててペコリと頭を下げて帰って行った。
夕食は戻ってきた彼の知り合い、モリス氏と一緒に3人でとった。博は彼に、空の事を紹介する。
「なんだ、そうだったのか。いや、失礼した。部屋をダブルに変更するよ」
心に決めた相手だ、と空を紹介した言葉に、モリス氏は屈託なく笑って言う。
「実は心配してたんだ。未だに独身だと聞いていたからね。誰か良い人でも紹介しようかと思っていたところだ。しなくて良かった」
食事が終わると、空は先に部屋に引き取った。部屋が変わったので博の分も荷物を移動させ、支局に連絡を入れる。特に変わりはないようだったのでPCを閉じ、先に寝ているように言われていたので、支度をしてベッドに入った。
3時間程経った頃、博が部屋に戻ってくる。ベッドの中の彼女の様子に安心し、自分も寝る支度をして潜り込んだ。
「おや、やっぱり眠っていなかったんですね」
隣に入ってきた彼が言う。
「はい・・・何かあった時のために」
空は真面目な顔で、答えた。
支局の外に出た時、不測の事態に備えるのは、捜査官の本能のようなものだ。まして自分は、彼を守りたいのだから。
穏やかに微笑む彼女は、そんな時の常で、寝間着は着用していない。荷物は最小限を常としているので、そもそも持ってきても居なかった。脱いだ服はベッドサイドに置いてある。皺にならないようにするためだが、つまり下着姿で寝るということだ。
この後に続く時間を考えれば、おそらく下着さえも不要で、真っ最中に何かあったらとんでもない状況が展開しそうだが、そこまで考えていては何もできない。
博は、手間が省けたとばかりに彼女の唇を塞ぐ。
甘いキスから始まる長い夜が、ゆっくりと更けて行った。
翌朝、ルームサービスで朝食を済ませ、帰り支度をしてロビーに降りる。博は、チェックアウトをしに行った空を待ってソファーに座った。
そこに、昨日庭園で見かけた庭師の老人が近寄って来て話しかける。
「あのう、失礼ですが、お連れさんは菊知さんトコのお孫さんじゃねぇですか?」
「え?」
「あ、いきなりスマンです。菊知の婆さんの若い頃に似てたもんだから・・・」
カウンターはチェックアウトの人々で混んでいて、空が戻って来るにはかなり時間が掛かりそうだ。博はこの庭師の話を聞いてみようと思った。
「菊知の婆さんとは、幼馴染でね。婆さん、身内はみんな死んじまって今は1人で林檎の世話しながら暮らしてるんでさぁ。随分と昔に聞いたけど、息子夫婦と孫が海外にいるとかで、もしかしてあのお連れさんがそうかもって、つい思っちまって。婆さん、若い頃は評判の美人だったんだよ」
もしかしたら、この老人もその人に憧れていたのかもしれない。
庭師はその後も話を続けていたが、博が彼女は違いますよと告げると、謝りながら帰って行く。
けれど博は、空が戻って来るまでずっと考え込んでいた。
ホテルを出た2人は、昨晩は泊まれなかった宿に向かった。予約は、あと1日残っている。
上品な和風旅館につくと、玄関前に人だかりができていた。何かあったのか、と聞いてみると直ぐ近くで老女の遺体が発見されたのだと言う。しかも、どうやらイノシシにやられたらしいと言うのだ。しばらくは旅館の中から出ない方が良いと注意される。
妙に気になった博は、チェックインを済ませると空を伴ってその遺体発見現場に向かった。
現場は旅館から歩いて15分ほどの場所にあった。収穫が終わった後の小さな芋畑と菜っ葉などが植わっている畝が幾つかあったが、家庭菜園程度の広さで周囲は藪に囲まれている。
遺体は既に運び出されており、猟友会のメンバーらしい地元の男たちが数名いるだけだ。
博はその男たちに愛想良く近寄り、話を聞いてみる。
被害者の老女は、直ぐ傍の一軒家に住んでいてここの畑の世話をしていた。近頃この辺りでは、イノシシが頻繁に目撃されていて、老女は運悪く遭遇したのだろうと言う。被害者の女性と親しかったらしい気さくな男性は、更に詳しい事まで教えてくれた。
「月見里ツルさんって言うんだがね、夏ごろ孫と暮らすようになったつって、喜んでたんだ。太腿あたりを牙でザックリやられてたけど、心臓が悪いっていってたからショックで亡くなっちまったのかもな。気の毒な事だなぁ」
「月見里・・・ですか」
博はその苗字に聞き覚えがあった。珍しい苗字である。
「お孫さん、名前は何と言うんですか?」
「何つったかなぁ・・・タカユキ?タカアキ?・・・」
「貴弘だよ。うちの孫と同級生だわ」
猟友会の最長老らしい老ハンターが、近寄って来て口を挟む。
「昔はうちの孫とつるんで悪さばっかりしとったよ。貴弘は両親を早くに亡くしてツルさんが育てたようなもんさ。けど、いつの間にか東京に行っちまって、あんまりいい噂は聞かんかった」
「あ~そうそう。うちの女房も、ツルさんトコにヤクザみたいな男が来てたつってたしなぁ」
そんな話を聞いているところに、他の場所に行っていた猟友会のメンバーから連絡が入ったらしい。男たちは車に乗って去って行った。
「空、月見里貴弘という名前に聞き覚えはありませんか?」
猟友会の男たちが立ち去ると、博は傍らに立つ空に問いかける。
「7月にあった暴力団事務所の家宅捜索で、逮捕後仮釈放されている人物です」
何となく気になりますねと答えた博は、辺りの空気に注意を払う。
「掘り返された後の土の臭いがします。ちょっと調べてみてください」
はい、と答えた空は辺りを見回し藪の方へ近づく。博ほどではないが、彼女も嗅覚には優れている。直ぐに、それらしい場所を見つけた。
「ありました、こっちです」
空の声に導かれた先には、深さ30cmほどの穴があった。
「直径は50センチ程度、中にはさつま芋の皮が残っています。周囲には掘った時の土があります」
成程、と呟いた博は、彼女に声を掛けた。
「ちょっと、月見里さんの家を見に行ってみましょうか」
畑の傍の一軒家は、平屋で粗末なものだった。博は家ではなく、畑の収穫物を置いているらしい小屋の中を覗き、中にある物を空に確認して貰った。
「葉物野菜が少しと人参が2本、カラの段ボールが2つと・・・さつま芋が入っている箱が2つ」
収穫された筈のさつま芋は、半分近くが無くなっていると考えて良いだろう。
それを見届けると、博はそれじゃ帰りましょうかと言って歩き出した。
田舎道をゆっくりと歩きながら、博は彼女に問いかける。
「イノシシは夜行性ですか?」
「いいえ、そのイメージですが昼間も普通に行動します。臆病な動物ですが、場合によっては攻撃性が高くなります」
「亡くなった月見里ツルさんの事ですが・・・」
博は静かに話し始めた。
例えばあのさつま芋畑にも秋の初め頃からイノシシが来ていた考えたらどうだろう。祖母からその被害の様子を聞いていた孫が、収穫後、近くの藪に芋を置いておいたとしたら。
イノシシは畑のさつま芋が収穫されていたら、その置かれた芋を見つけるのではないか。
「イノシシについて、もう少し教えてください」
「嗅覚が鋭いです。地中の作物も牙や鼻で掘り起こして食べます」
空は、博が聞きたいと思っていることを察して端的に答える。
要するにイノシシの餌付けのようなものだろう。
芋は毎日決まった時間、祖母が畑に出る前くらいに埋めておけばいい。遭遇する確率は高くないかもしれないが、それでも出会ってしまえば祖母は驚くだろう。走って逃げ出すかもしれない。心臓が悪い祖母は、それで命を落とすかもしれない。
そんな風に、ヤクザな孫が考えたとしたら。
博は考えたことを空に話した。
「今のところは、ただの推測ですがね」
そんな彼の言葉に、空も考え深げに返事をする。
「そうですね。でも、仮にそうだったとして、何故イノシシなのでしょうか?」
そんな孫なら、もっと短絡的に祖母を殺すことも出来たのではないだろうか。殺人の理由などは解らないが、偶然に頼りすぎているような気がするのだ。
博は少し考えてから、徐に話し出す。
「あんな孫でも、祖母が自分を愛して育ててくれたのは、解っていたのかもしれません。そんな自分に殺されるより、他の誰か・・・例えばイノシシなら、祖母も仕方がないと思ってくれるんじゃないか、と。偶然に頼ったのも、心のどこかで殺したくないと思っていたからかもしれませんし」
殺伐とした仕事をしていても、本質的に彼は優しいのだろう。犯罪者の心理をそんな風にも考えられるのだから。そんな博の言葉に、彼女は黙ったまま考え込んでいた。
やがて、宿の玄関が見えてくる。
「・・・私だったら、イノシシより愛する人に殺される方が良いです。最後に眼に映るのが愛する人の姿なら、その方が・・・」
空が、独り言のように呟いた。
博はそれを聞いて一瞬驚くが、すぐに彼女の肩を抱いて耳元で囁く。
「抱き殺さないように、充分注意しますね」
「え?」
聞き返す言葉を無視して、彼は空の身体を強引に連れ込むような体勢で宿の玄関をくぐった。
露天風呂付きの和室の布団の中で、2人が長い夜をどのように過ごしたかは想像に難くない。
翌朝、朝食は部屋に運んでもらった。布団から起き上がれない空に食事を食べさせ、昼まで寝ていなさいと優しく告げた博は部屋を出てゆく。
彼には、調べたいことがあった。
昼前には動けるようになった空と共に宿を出た博は、近くの店で郷土料理の昼食を一緒に楽しんだ。そして再び、空がハンドルを握る車に乗って帰路につく。
しかし出発してすぐに、博は運転する彼女に提案をした。
「この先を右に曲がって少し行ったところに、林檎の無人販売所があるそうです。宿の人に聞いたのですが、この辺りで一番美味しくて種類も多いから、そこでお土産を買うのも良いのでは、とね。行ってみませんか?」
「はい」
支局の皆も喜ぶだろうし、多めに買えれば花さんに渡してもいい。空に異論がある筈もなく、車はスムーズに右折して無人販売所を目指した。
車を路肩に止めると、その無人販売所はあぜ道のような細い道路の先にあった。
珍しく車で待っているという博を残し、空は細い道を歩いて100mほど先の無人販売所に向かう。
そこには、野良着を着た老婦人が丁度品出しをしているところだった。
「購入させていただいてもよろしいですか?」
空が声を掛けると、老婦人は振り返って穏やかな笑みを浮かべた。
「はい、どうぞ。今ちょうど補充したところなんですよ。どれも午前中に収穫したものだから、お好きな物をお好きなだけ」
見れば棚の上には、籠に乗った赤・黄・緑の林檎が艶々と輝いている。どれも皆美味しそうで迷っていると、声を掛けられた。
「観光にいらしたのかしら。お土産?良さそうなのをお選びしましょうか?」
畑仕事用の野良着姿だが、上品な物腰だ。
この辺りの旧家の出なのかもしれない。
「はい、お願いします。出来れば沢山」
空が返事をすると、段ボール箱を出してきた老婦人はリンゴの品種を説明しながら、次々とそこに林檎を入れてゆく。
「お車ですよね。あれかしら?」
老婦人は遠くに停めてある車を指した。いつの間にか博が車外に出て、こちらを向いている。
つられて車の方を見る空の横顔を、老婦人はじっと見つめていた。
「良かったら、こっちの林檎も持って行ってくださいな」
やがて老婦人はそう言って、販売所の傍らにある3本の林檎の木を指さした。頷く空を見ると、彼女は腰から鋏を出し手近な実を取ってゆく。
「この木はね、私が産まれた時に植えたものなんですよ。隣は息子が産まれた時の物。その向こうは、孫が生まれた時に植えたの。息子も孫も今は遠くに居るけど、会えなくても元気ならいいわ」
大事に世話をされているらしい林檎の木は、どれも健やかに育っているように見えた。
林檎でいっぱいになった段ボール箱を空に渡すと、老婦人はふと顔を上げ天を仰ぐように眺めながら言った。
「いいお天気ね。綺麗な青空・・・空が好きなのよ、私は」
「え?」
突然名前を呼ばれた様な気がして、空は老婦人を見つめた。
「晴れでも曇りでも雨でも、嵐の時だって、空は必ずそこにあるでしょう?」
そして彼女は、お引止めしてごめんなさいねと言いながら、遠くの車の傍に佇む博の方を見る。
「あそこで待っていらっしゃる方は、どなた?」
空は、綺麗な笑みを浮かべて答えた。
「私の、大切な人です」
空が林檎の入った段ボール箱を抱えて車に戻り、運転席に座ると、博は遠くに向かって丁寧に頭を下げてから助手席に座った。無人販売所の傍には、同じように頭を下げた後、ずっとこちらを見ている老婦人の姿があった。
博は車中で、林檎を買ってるときの二人の会話の内容を空に尋ねた。
彼女は淡々と、会話の全てを報告する。
その後は、黙って前だけを見ながら空はハンドルを握っていた。
30分ほど車を走らせると、遠くに沢山の果樹園を見渡せる場所に出た。博は少し休みましょうと言って車を停めさせ、車外に出る。
そこは道からかなり外れた広い草地で、まばらに生えた木々の間から見える景色が美しい。
傾き始めた日の光が、長い影を落としている。
「頑固な父親がいて、彼は息子の結婚を認めなかった。息子は自分の妻と産まれたばかりの赤ん坊を連れて、外国へ行こうとする。それを知った母親は、夫の目を盗んで息子に会いに来た。都合できるだけのお金を持って3人に会い、彼女は自分が好きな『空』を赤ん坊の名前として与えた」
物語のように話す彼の言葉を、空は黙って聞いている。
「そんな風に想像しても、誰にも迷惑はかかりません」
博は、優しく彼女の顔を覗き込む。
「あの老婦人の苗字は、菊知というそうです」
博は午前中に、様々な情報を入手していた。菊知の家は旧家だが、現在菊知家は当主も亡くなり老婦人が1人で暮らしているということも解っていた。
「でも今は、BBとのこともありますし、詳しく調べるのはそれが終わってからの方がいいでしょう」
博の言葉に、空は彼の方に向き直って言った。
「BBのことが無くても、私は調べないことを望みます。博の話を信じていても、誰にも迷惑は掛からないのでしょう?」
そして空は、彼の胸に顔を埋めた。
「・・・博・・・ありがとうございます」
博は細いその身体を優しく抱きしめる。
君が産まれた時からずっと、愛してくれている人がいました。
遠くから、ずっと想ってくれている肉親がいました。
僕も、そう信じます。
そんな事を思いながら、やがて博は彼女の顎に手を掛けて上向かせると、愛しさを籠めたキスを贈る。何時までも続く長いキスに、想いが膨れ上がった彼は、最後に唇を離すと彼女の耳元に囁いた。
「・・・君が、欲しくて堪らなくなりました」
「えっ?」
今?・・・ここで?
そんな顔になる最愛の人に、彼はニッコリと笑う。
「誰もいませんよ。草の褥か車内か、どっちにします?」
どっちにしても大差ないような気がする。いや、あるのか?
返事も待たず、首筋にキスを落とす彼に、空は体を震わせながらやっと答えた。
「・・・っ・・帰りが・・遅くな・・」
「構いません。明日の朝でも」
夕日が落ち始める。
赤く染まる大気の中で、傍らの紅葉が赤く燃えていた。