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かにかに14~奇跡は古びたゲーセンで

作者: 佐々木悠弥

 事実は小説より奇なりという言葉がありますが、本当ですね。

 その奇妙な事実の断片を繋いで足りない部分を想像で補ってみたら、こんな話ができました。

 読後は、それぞれのその後を想像してみてください。

 二人で温泉旅館には行くのか、また初恋の相手とは誰だったのか。私の中では設定がありますが、描写はしていません。

 続けようと思えば続けられるんですが、想像してもらう余地を考えたら、こんな形になりました。

 お楽しみいただければ幸いです。

 かにかに14~奇跡は古びたゲーセンで


 「あのゲームはね、娘のたっての希望で仕入れたんですよ。」

 まさか、そういった経緯で導入されたものだったとは思わなかった。

 そして店員は続ける。

 「どうしても、ってね。まあ、サービスが終わっていたのもあって経済的な負担はほとんど無かったんですよ。あの子の我儘に付き合うのも、数えるほどしかないだろうって思っていたのもありますかね。」

 そう言う店員の目からは涙がこぼれ落ちる。

 俺はどう言葉をかけて良いものか分からず、とりあえずは深刻そうな面持ちのまま、その様子を横で見ていることしかできずにいた。


 話は数か月前に遡る。


 今どき珍しい引き戸のエントランスを通って入店する、時代がかった古い機械が点在している店内。

 店番が待機するために設けられたであろうカウンターはいつもだいたい無人で、平日の昼前などは店内に他の客の姿も見られず、店内全体がそもそも無人であることが珍しくなかった。

 ここは商店街の端の方にある古い古いゲームセンター。


 掃除はされているのだろうが、コンクリート打ち放しの床はその見た目からして清潔感とは縁がなさそうだ。

 入ってすぐに敷いてあるマット。タワシのような質感の本体が金属製の枠の内側にあしらわれているもので、多重に描かれたひし形の模様が特徴的だが、これを何と呼ぶのか知らないままに懐かしさを感じられるのが不思議だ。

 自動販売機のドリンクのラインナップこそ最近のものにアップデートされているものの、昭和という時代をそのまま切り取って保存した風な雰囲気は一朝一夕に醸成されるものでもない。

 背もたれのない椅子が乱れず整然と並べられているところを見るに、そもそも客の入りも大したことがないのだろう。


 当時の俺にとって、心に重荷となっていたものがある。

 金払いは良くない、いやはっきり言って金払いの悪い、それでいて要求ばかりしてくる、とあるクライアントの担当になってはや数ヶ月。

 それでも客は客だから、これも仕事だから。

 自分にはそう言い聞かせてはみるものの、当時まだ二十代半ばだった若造の俺に、それを「巧く」納得できるような心の器が備わっていようはずもない。

 幸か不幸か分からないが異業種からヘッドハンティングの話が内々で来ているのを天秤にかけて、そのクライアントから逃げ出す算段をあれやこれやとしていた頃の話だ。


 コンビニで買ったアイスを店から出てすぐに食べ始めたにもかかわらず、食べ終わるまでに溶けたアイスが親指の付け根辺りにひと滴落ちてくるような、そんな暑い日だった。

 商店街のアーケードの下に入ると日差しが遮られる分、いくらかましになったと感じられる。

 エントランスの引き戸をカラカラっと開けて、タワシマットを踏みしめて店内に入り、後ろ手にカラカラと引き戸を閉める。

 空調は多少効いているので生命の危機を覚える外気温よりは随分ましである様に感じる。

 私用の携帯電話宛に直接かかってくる例のオヤジからの電話にほとほと嫌気が差した俺が、一時避難する場所として時々利用していたのがこのゲームセンターである。

 最新ゲームマシンが立ち並ぶ、まるで異世界のような照明に彩られた最近のゲームセンターとは違って、この店にはどちらかというと静けさが漂う。

 単に人が少ないだけかも知れない。ゲーム機の音量設定が小さいだけかも知れない。

 しかしそこは深く考えずに、俺は店内を徘徊する。


 決して大きくはない店舗のはずだが、ゲーム機の配置のせいか広々としているように錯覚してしまう。

 今から考えれば店内には死角となる場所があり、そこにどんなゲーム機が設置されているかを見に行こうと思えば必然そこまで歩くわけで、つまりは移動する距離が長くなることが、大して広くない店舗を実態以上に大きいものであったかのように錯覚させていたのだろう。


 そんな店内には興味を惹かれるようなゲーム機は置いていなかった。

 「懐かしのゲーセン特集」とかいう類のネット動画で扱われていそうな雰囲気の、どこかで見聞きしたタイトルがほとんどだったが、それはぜひお金を入れて遊びたいと思うこととイコールではない。

 そう、ここは一時避難場所としての性格が強いだけで、別に俺はゲームをしたいとか、懐かしさに浸りたくて足を運んでいるわけではないのだ。

 とはいえ一応、不特定多数に向けて開放されている店舗であるので、コーヒーを一杯我慢する程度の感覚で毎回何となく選んだゲーム機に数百円程度を費やすようになっていた。


 変わり映えのしない店内の配置はほぼ把握していたので、俺は端から全てのゲーム機を順番にプレイしてみるという自己ルールを設けてみた。

 もちろん、最後までクリアしなくていい。そもそもクリアなど出来る腕前もない。

 基本的に一、二回。気に入ったらもう何回か遊ぶ。

 どれにしようか悩む時間も、それはそれで現実逃避という目的を達成するために片棒を担いでくれるが、順番に全部やってみるという基本ルールは実にシンプルであり、またある種の贅沢であるような気がしていた。


 その日はその、第何回目か分からない。

 しかしプレイを予定していた場所の隣には、見慣れない筐体のゲーム機が鎮座していた。

 前回までは無かったぞ、と思いながら、同時に俺に頭の中には全機種コンプリートが出来なくなったという考えが脳裏をよぎる。

 しかし、相手も商売だから機械を入れ替えることだってあるだろう。

 あるいは単純に故障して、代替の部品が無くなっただけかも知れない。

 このゲーム機も見たことがないタイトルで馴染みはないが、前回来店時までこの場所を占拠していたゲームのタイトルを、俺は思い出すことが出来ない。

 自分のルールに従って今日は予定していたゲームをやるのだが、隣の新参者にもコインを投入してみようという気になった。


 とりあえず予定していたゲームを始める。

 いわゆるアクションゲームであったが、不幸なことにボタンの一つが効かない。

 効かないボタンを使わなくても一応、何とかプレイは出来た。

 しかし途中で「ボタン連打」の操作を求められ、それが効かないボタンだったことでゲームオーバー。

 高校生の頃だったらクレームを言いに行って、返金のみならずあわよくばメダルゲームのメダルぐらいもらえないかと考えるようなシチュエーションには違いないが、今はそういう気も起きない。

 それぐらい、隣の新しいゲーム機に興味が向いていた。


 店員の姿が見えたら、ボタンが効かないことを教えてやろう。

 そんな事を考えながら、隣のゲーム機に百円玉を投入する。

 画面にはクレジット追加の効果音とともに「1 PLAY 200 YEN」の文字が躍る。

 しまった、と思いつつも既に投入した百円を払い戻すこともためらわれた。

 この百円をケチってしまうと、あの守銭奴オヤジと同類になってしまうような気がした。

 現実逃避で訪れる場所のはずが、こんなきっかけで現実に引き戻されてしまうとは。

 店内には、その画面の上で食事が出来るんじゃないかと思うぐらい低くて平たいゲーム機もある。そういった物と見比べるとこの新参者は新しい機械であるように、いや、何なら最新機種のようにさえ見えた。

 だから価格設定も高いのだろうか。

 ともあれ金額をチェックしていない俺のミスだ。誰に対するミスなのか分からないが、実に形容し難いネガティブ寄りの感情のまま、もう百円を追加する。


 ゲームスタート。


 まずはチュートリアル。

 テレビアニメのようなキャラクターが音声でゲームの概要を説明してくれる。まるでレトロゲームの巣窟のようなこの場所には、はっきり言って似つかわしくない。

 どうもこのゲームはオンラインで遠方のユーザーとやりとりする機能を備えているらしい。

 そして話を聞けば聞くほど、ゲームというよりはコミュニケーションを楽しむ機械であるように思われてきた。

 当時、スマートフォンが普及してSNSの存在が当たり前になっていたし、そこで新しいスタイルの目立ち方、売れ方が多数存在していたが、その一翼を担うべく開発されたゲーム筐体、といえば言いすぎだろうか。

 コミュニケーションを通じてユーザー同志が互いを評価し、そこに芸能プロダクションやら何やらがスカウトに来る。

 目立ちたい若者心理を上手に利用した、さしずめ人気者への登竜門になるように目指した設計とでも形容できそうだ。

 なるほど面白い着眼点だと内心では関心しつつも、しかしこれはゲームではないし、俺は有名人の卵たちと交流を持ちたいわけでもない。

 この機械に投入した二百円は無駄だったな、と思っていると、不意に画面上に新着メッセージがありますの文字がポップアップされた。


 操作もよく分からないままに手元のレバーを動かしてみる。

 画面のリアクションが無い。チュートリアルは手元のボタンで送れたのに。

 しばらくの後、音声によるガイダンスが流れる。

 画面をタッチしてね。

 タッチパネルだったのか。


 新着メッセージ:1

 かにかに14さんからのメッセージです。

 『はじめまして!かにかに14です!』


 初めて触るゲームで見ず知らずの相手に対してどのようなメッセージを送ったら良いものか、俺は皆目見当がつかない。

 だから、このメッセージの内容がどのようなものなのか皆目見当がつかないし、とはいえ興味があり、しかし言い知れない不気味さと、俺はいま何をやっているんだ?というどこか冷めた目で俺を見るもう一人の俺が居るような錯覚とが入り混じって、最終的に「無感動」という辺りに落ち着いたテンションで、そのメッセージを開いてみた。


 『はじめまして。ペンネームはかにかに14です。いま恋をしています。素敵な感じの人です。でも片思いです。』


 エクスクラメーションマークが二箇所に入った、メッセージのタイトルのテンションの高さに対して本文の堅苦しさというか、タイトルで燃え尽きたような落差に不思議な可笑しさを感じて、思わずふふっと笑ってしまった。誰かに見られていたら赤面ものだ。

 すると音声ガイダンスとともに操作パネルがポップアップ。

 リアクションを選んでね。

 喜怒哀楽をストレートに表すアイコンと、何やらグラフのようなものがある。

 グラフ部分は四分割されているが明らかに明度が低く、操作を受け付けないことを示している。

 根拠はともかく一瞬でも楽しい気分にさせてくれたメッセージでもあるので、楽しい表情の顔アイコンをタップすると、グラフ部分がアクティブになる。

 どうやら楽しいなら楽しい、悲しいなら悲しいで第一印象を選ぶと、その程度をグラフで伝えられるシステムらしい。

 いきなり満点をあげるのもどうかと思い、とりあえず七十点ぐらいのところで決定して送信した。

 今から思えば、この点数はスカウトマンたちの参考データになっていたのかも知れない。

 と、ここで例のオヤジからの着信。

 あれも電話、これも電話。何もかも電話で済ませようとする性根が気に入らない。

 こちらにも事情があるとか、そういうのは一切無頓着だから困る。こっちはメールで連絡してるのに。


 「忙しさのアピール」という体裁を取って、まずは電話をスルー。後でかけなおすことにした。

 この時ばかりはゲームの途中、いや、そもそもこれはゲームか?という疑問は横に置いて、ゲーム終了の処理が先決だろう。

 さっさと席を立ってしまっても差し支えないところだが、どうやらカードが発行されるらしい。

 次回からはそのIDカードを入れたらプレイ料金は半額の百円になるとか。

 いまいちシステムが分からないままに、筐体から出てきた半額チケットという性格のIDカードをつまみ取り、財布の中に放り込んで、ゲームセンターを出た。


 電話のコールバックと、帰社してからの雑務に、定時を少し過ぎてからいつものコンビニに寄って帰宅。

 仕事上のストレス、もっと言えば例のオヤジからのストレス以外にはこれといって何の刺激もない、もはやルーティーンと化した生活。

 スーツ姿からの脱却、いつものジャージ。

 年季の入った薬缶に水道水を適当に注ぎ、アパート備え付けのコンロに乗せて着火。

 それからテレビをつけてみる。つけるだけ、見ない。

 見ないが聞く。内容はどうでもいい、聞こえてくるものがあるということが重要である。

 それだけの理由でテレビをつける。

 薬缶のお湯が沸いたところでコンロの火をとめて、買ってきたインスタントのカップうどんにお湯を注ぐ。

 ちょっと長めに待ってやわらかいのを食べたいのは、猫舌だからという理由もある。

 スマートフォンを何気なく触って、SNSをチェック、芸能ニュースなどをぼんやり見ている。

 やがて適当なタイミングでカップうどんが食べごろになったと解釈して割り箸を探すも、見当たらないのでやむを得ず実家から持ってきた塗り箸を取り出してくる。洗い物が増えるが仕方ない。

 うどんを混ぜようと蓋を外すと、スープの袋が浮いていた。

 大きなため息が漏れる。

 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。

 例のゲームセンターがある商店街の方で止まった救急車は、しばらくしてまたサイレンを鳴らして何処かへ走り去っていった。まあ俺には関係ないな。


 翌日、仕事の合間にまたゲームセンターを訪れた。

 IDカードのゲーム機の隣で作業をしている男性の姿が見えた。

 マイルールに基づいて今日プレイ予定だった筐体は、メンテナンス作業の真っ最中のようだ。

 「しばらくかかります?」

 どのゲームでも良かったはずが、予定が狂うという局面に至って珍しくそういう事を尋ねてみた。

 「すいませんね、古い機械なもんで。」

 質問には答えていないが、つまり時間がかかるだろうという回答だ。

 仕方ない、他のゲームにしようかと思っていると、メンテナンスの男性が追加で言葉を発した。

 「建物が古くてねえ。漏電したのかな、古いのは軒並み全部だめんなっちゃって。」

 見れば他のゲーム機も全て画面が消えている。

 「大丈夫だったのはコレぐらいなんですよ、すいませんね。」

 目をやった方向には、例のIDカードのゲーム機がある。

 なんてことだ、選択肢が無いとは。


 仕方なく、というのが本当に正しい。

 帰るという選択肢はあったはずだが、妙な使命感に動かされて唯一稼働中のゲーム機の前に腰をおろす。

 「ああ、こっちの機械、効かないボタンがありましたよ。右側の。」

 昨日のクレームが今日になって顔を出す。

 当該筐体を指さしながら、怒り成分を含まない口調で指摘できたのは、なりたくもない大人になった査証かも知れない。

 財布からIDカードを取り出すために、せっかく座った腰を上げる。

 IDカードを先に入れると、しばらく読み込み中と通信中を行ったり来たりした後、お金を入れていないのに「新着メッセージあり」の通知がきた。

 そのメッセージを見たければお金を入れろという催促なのか、はたまたお金を入れたのに何も無かったとしたら揉め事に発展するかも知れないから、それを未然に防止しようという配慮なのか。

 いずれにしても新着メッセージがあるのなら読んでやろうという気になった。

 財布から取り出した百円玉を入れてメッセージを表示する。


 タイトルは『かにかに14です』と出た。

 昨日のメッセージ主と同じらしい。

 本文を表示してみる。

 『今日はありがとうございました。リアクションうれしかったです。』

 昨日、あの後すぐに入力されたのだろうか。

 二回目のプレイではメッセージ入力フォームがアクティブになっている。そのことをわざわざ知らせる表示が画面に踊る。

 メッセージを返す必要性も義理も見当たらない。

 しかし放置するのも気の毒に思えた。

 何よりお金を払ってゲームに参加している以上、返信しないのはもったいないという気にもなった。

 とはいえ何を送って良いか分からない。

 オヤジの説教みたいな文章になっても面白くないし、さてどうしたものか。

 『どうも。平凡なサラリーマンです。よろしく。』


 しばらく平穏な日が続いた。その原因が例のオヤジの海外旅行だと知ったのは後になってからだ。

 ある日、後輩と昼食に出たときに例のゲームのIDカードを目ざとく見つけたやつがいた。

 最後にゲームセンターに寄った日から三日経った日だ。

 先輩、まだそんなの持ってるんですか、と。

 聞けば数年前に鳴り物入りで展開されたものの、運営会社が倒産したとか何とかで今は稼働していないゲームらしい。

 「いちおうローカルで伝言板のような使い方は出来るらしいですけど、今どきそんな使い方する人なんか居ないですよね。お金払ってまで。」

 いやここに一人居るんだが、という台詞を飲み込むのには、俺が抱いた疑念は充分だった。

 果たしてメッセージの主はいったい誰で、何のために。

 珍しく二連休を取り、その後クライアント対応で隣県まで出かけていた都合もあって、四日ぶりにゲームセンターを訪れた。


 何台かの機械は復旧しているようだが、依然として画面が暗いままのゲーム機の姿が目立つ。

 稼働していない機械のコイン投入口にはガムテープが貼られ、コインの誤投入を物理的に防いでいる。

 自分だったら張り紙をするか、または養生テープを用いて復旧時に美観を損ねないようにするところなのだが、そんな余分な思考を以て自身の頭の中を落ち着かせようとしていたような自覚すらあった。

 そして例のゲームは引き続き問題なく稼働している様子だ。

 さっそくIDカードを入れると、やはり新着メッセージありと表示される。

 百円を投入。

 新着メッセージ:2。

 『かにかに14です。サラリーマンさんなんですね。私は4月に中学生になったばかりです。メニューからニックネームを付けられますよ。』

 『かにかに14です。今日は来られませんでしたね。なんだか寂しい気がします。忙しいのでしょうか。』

 最初のメッセージは、俺が返信した日の午後。

 二件目のメッセージはその翌日。


 俺はゾッとした。

 真偽のほどは不明ながら、自称中学生がこのゲーム機を利用して俺と何らかのコミュニケーションを取ろうとしているという事実。

 メッセージの返信が無いことだけを根拠に『今日は来なかった』と言っているのか、はたまたどこかで監視でもされているのだろうか。

 考えがまとまらないでいると、そこへ先日の男性が現れた。機械のメンテナンスをしていた男性だ。

 カウンター内で作業をしているので、どうも店員だったらしい。

 目が合うと会釈をしてくれた。

 俺は店員の男性に軽く目配せをするような会釈をしてからゲーム機の方に向き直り、このメッセージにどう対応して良いものか分からず、しばし考えた。

 色々な可能性を探った。

 詐欺行為。美人局。ドッキリ番組の企画。ただのイタズラ。

 出てくるのは良くない想像ばかり。

 それでも考えることを停めなかったのは、いったい誰が何のために、という疑問点が、俺の中で引っかかっていたからに他ならない。

 ふと、先日の後輩の台詞が脳裏をよぎる。

 「お金払ってまで。」

 そうだ、このやり取りは無料ではない。

 かにかに14と名乗る何者かが、たとえ少額であっても金銭を費やして何事かを成そうとしているような気がした。


 いちおう両親は健在だが、いわゆる彼女もおらずもちろん未婚で、仕事上のステータスもさほど無い、貯金だって食うに困らない程度しかない。

 そんな俺にとって失うものといえば何があるだろう?

 職を失うとすれば転職への第一歩として受け止めるだろうし、このままかにかに14なる何者かとやりとりを続けても、命を失うような事態になるのは想像がつかない。

 しばし考えた末に、返事を書いてみることにした。

 「久しぶりの2連休と、仕事で他県に行ってたので。」

 シンプルな回答だけ入力して、そしてニックネームを「リーマン1号」に指定した。

 相手が誰でどんな意図を持っていようとも、捨てきれない好奇心が俺をそうさせたとしか言いようがない。

 そして俺は、店員がこちらに向けていた眼差しにも気づくことはなかった。


 翌日、かにかに14がどんな返事をしてくるか楽しみにしていた俺がいた。

 しかしながら運悪くと言うべきか、出社するや否や他県への出張が言い渡される。

 上得意様がぜひ会いたいという、訳の分からない理由で俺は特急に乗せられた。

 ぎりぎり日帰り出来ると思ったが、先方の「粋な」計らいで露天風呂付きの料理旅館に泊まらせてくれるそうだ。

 来いといわれれば行かないわけにはゆかぬ立場。

 招待する以上はおもてなしをする。分からないでもない。

 だが、なぜ。どうして。俺が何をした?

 自問したって答えなんか出ようはずもないが、上司たちの顔のほころび方から察するに悪い話ではないらしい。

 何か問題を起こして謝罪行脚に向かうなら温泉旅館なんか手配されるわけもない。

 どうせ辞めることを考えている会社だ。

 呼ばれたから参上しましたと素直に言ってやろう。

 気を取り直して特急の窓から見える景色に目をやる。

 開き直った人間は強いのだ。ここはひとつ、リーマン1号一人旅としゃれこもう。

 ときに、かにかに14は返事を書いてくれただろうか。

 いつしか瞼は重たくなり、心地よい振動が俺を眠りに誘う。


 「お客様、終点です!お客様!」

 危うく乗り過ごすところだった。終点でなければ。

 車掌の呼びかけで目を覚ました俺が降り立った駅。

 改札を抜けると、驚くべきことに迎えの男性が俺を待ち構えていた。

 「お待ちしておりました。どうぞ。」

 向けられた手の先には高級そうな車が一台。

 車種は分からないが、ずいぶん車高が低く、こう言っては悪いかも知れないが乗り込みやすい車とは到底思われない。運転手が左側にいたので外車なのだろう。

 迎えに来てくれた男性が車のドアを閉めると、不意に静寂が訪れた。

 地方都市の駅前で決してうるさいこともなかったはずだが、車内は不気味なほどに静かで、その静けさを保ったまま、かすかな駆動音とともに車は走り出した。

 ことここに至って、俺は名刺すら出していないことを思い出す。

 「急にお呼び立てしてしまい申し訳ございません。代表がぜひお会いしたいと。」

 「はあ。あ、いえ。」

 気のない返事をしてしまったことを後悔していると、運転手が口を挟む。

 「どうぞお気楽に。ビジネスの話には違いありませんが、あまり緊張していただく必要はないかと。」

 ますます何のことだか分からないが、そのまま会話もなく車はしばらく走ってからどこかの会社に着いた。


 到着したのは製薬会社の研究所だった。

 高嶺の花と形容するほかない秘書官に案内されたのが会議室のような部屋で、会社ではなく研究所なので応接室が無いのかも知れないなどと想像はしてみるものの、収容人数が五十人ではきかない広さの部屋にポツンと一人。

 いつなんどき誰が入ってくるかも分からないので、とりあえず頭髪を整えて襟を正し、ネクタイを軽く締め直す。

 すると扉が開き、二人の男性が入室してきた。俺は反射的に立ち上がる。

 ゆっくり閉められた扉の、その向こうには先ほどの高嶺の花がお辞儀をしている姿があった。


 話はこうだ。

 以前、テレビ番組で癌細胞に関する話題を取り上げていたことがあった。

 社内の休憩室でぼんやり見ていたので、たぶん昼のワイドショーか何かだろう。

 その時のコメンテーターの発言が俺は誤りだと思い、訂正をしたらしい。

 さらに思いつきで発言したに違いないが、こうしたら癌細胞だけを消せるんじゃないかという主旨のことを言ったらしい。

 そのくだりを俺自身、ぜんぜん覚えていないのだが、そのことが妙に印象に残っていたのが、例のIDカードを見つけた後輩だった。

 そしてたまたま仕事中に癌細胞の話が出たときに、俺の発言を思い出し、そういえば先輩がそんな事を言ってましたよ、という四方山話が上司の耳に入った。

 そして今回の製薬会社との取引の中で、その上司が製薬会社の担当者と、我が社には癌細胞について云々という社員がいて、という話をしたそうだ。

 もちろん、そんな素人考えの治療法について大手製薬会社がわざわざ取り上げるとは思えないが、実はそんな素人考えだったからこそ、本職には思ってもみない着眼点につながり、物凄い成果が得られる一歩手前までこぎ着けたというのだ。

 そういう話をされたのだが、俺自身まったく覚えていない。

 率直な感想としては「風が吹けば桶屋が儲かる」というのが実在することに驚いている。

 だが、話を聞いているうちに、おぼろげながらにそういう発言をしたことが思い出されてきた。

 そして彼ら、この研究所の所長と主任研究員らしいが、その二人の口から思いがけない台詞が飛び出してきた。

 「当社で研究開発をしませんか。」


 夢のような話。

 もしかしたら次に目が覚めたら特急の座席に座っているんじゃないかとさえ思ったが、夢ではなかった。

 転職の話はもちろん辞退した。

 医学や薬学の勉強などしたこともないし、ちょっとした思い付きであっても役に立ったのなら結構なことだとは思うものの、継続的に研究開発に携わるというのはあまりにも荷が重い。

 その代わりというわけではないが、今後も俺がいま務めている会社との取引を続けていただきたいという希望を伝えた上で、また俺のような素人でも意見を求められればお答えしますという形で落ち着いた。

 先方からすれば、何らかの形で感謝をしたかったということのようだ。

 たかがそれだけの事でわざわざ呼び出して、と思わないでもないが、事実として俺の思い付き発言はそれだけの大きな成果に至る鍵でもあり、そして本気で俺を獲得しようとしていたのは間違いないようだ。

 結果として今の会社に対して恩を返すことも出来たし、我ながら大人な対応が出来たように思うと少しだけ誇らしい。


 その日は研究所内を少し見学し、先ほどの高級車で旅館まで送ってもらった。

 残念ながら独り身の若造には高級すぎて落ち着かない雰囲気の旅館で、有難迷惑とはこのことかと考えた。

 これで彼女でもいれば喜んでくれたか、いや、俺の彼女になる女だったら、きっと同じように居心地の悪さについて共感してくれるに違いない。

 絶品料理を目の前にして些かも上がらないテンション。

 美味には違いないが楽しくはない。

 温泉だって気持ち良いが、やはり楽しくはない。

 これが自宅アパートだったらコンビニまで行って、目新しいアイスでも買ってくるのに、田舎だからコンビニもない。

 独りってこんなに寂しかったのか。

 そういえばかにかに14は何か返信くれてるかな。

 慣れない日本酒が眠気に追い打ちをかける。

 熱燗ってこんなに美味しかったのか、という印象の中で、俺はいつの間にか深い眠りに落ちていた。

 もうすぐ9月だというのに、遠くでセミの声が夢うつつに聞こえた気がした。


 会社に戻った俺を待っていたのは、二つの出来事だった。

 一つは例の製薬会社から、取引の強化をしたい旨の連絡があり、俺の手柄だとして昇進が決定的になったこと。

 なんでも今まで複数社に依頼していた業務をうちの会社で一本化するという方向の話らしく、会社始まって以来の高い業績が見込めるそうだ。

 もう一つは、その製薬会社から俺宛てに、意見を求める長文のメールが届いていたこと。

 メールは複数に分かれており、添付ファイルも膨大だったことから総務部に目を付けられて、メール内容に関する申し開きを要した。

 そして上長にも相談して、しばらくメール対応に専念できることになった。

 例のオヤジには別の担当者が充てられ、一部ですっきりしたものの、まるで専門外の分野である製薬会社の業務に口出しするといのは、正確性云々はともかく、非常なプレッシャーであった。

 会社の業績を向上させた立役者たる俺には次なる活躍が期待されているわけで、こうなるのが分かっていたら、転職の道を選んだ方が良かったかと思える程度には居心地は悪くなったと言えなくもない。


 製薬会社からは無数に意見を求められているのだが、いずれも癌細胞に関するものだった。

 平たく言えば癌の治療薬として、正常な細胞には影響を及ぼすことなく癌化した細胞のみを死滅させる手法を探しているのだ。

 究極的には「がんと診断されたら飲む単一の薬」のようなものを作りたいという熱い想い、執念が伝わってくる。

 その薬さえ飲んでしまえば、癌細胞のみが死滅してがんが治る魔法の薬。

 実は俺の思い付き発言を参考に研究を進めていったところ、本当にあと一歩のところまで来ているという。

 もっとも、薬として完成させるためには各種の検査、試験、国の審査など、パスしなければならない関門は無数にある。

 俺が何か言ったからって、それが免除されわけもない。

 ただ、信じられないことに今までクリアできなかった部分のいくつかを解決することは出来たのだというから、何でも言ってみるもんだ。

 それを説明する資料が大量に添付されていたメール、だから総務部に目をつけられたわけだが。


 結局、その日の終業時刻になってもメールの全文を理解することは叶わなかった。

 そもそも内容が長いことに加えて、当然ながら専門用語も頻出してくる。

 耳にしたことのある用語もあるにはあるが、ほとんど調べながら解読していくような作業。

 とりあえずメールを受信して、返信したいが内容の理解に時間がかかっていることだけを簡潔に返信したうえで、俺は参考書を買いに行くことにした。

 何でもネットで調べられるが、これだけ特定の分野に偏った専門用語が頻出するからには昔ながらの方法、つまり参考書に付箋を貼って都度確認するのが良いと思ったからだ。

 終業時刻を過ぎると開いている書店は多くない。

 場合によっては明日の朝、書店に寄ってから出勤することも上長に許可してもらった。

 上長もボーナス査定が上がるらしく、ウキウキとしたその態度の軽やかで優しいところが実に気色悪い。

 そして相手も相手だ。よくもまあこんな一介のシロウトに、これだけ濃密な研究成果を開示してくれる気になったものだ。


 都合よく遅くまで開いている書店はあった。

 数年ぶりに入店する書店、何だか嬉しい気持ちにさせてくれる。

 それだけネットワークに飼い慣らされてきたという証拠だろうか、しかしそれでも紙で構成された書物、眼前に実体を伴った物体として重さを感じられる形で書籍が売られているという事実に価値を見出すことは難しくない。

 俺も小学生の頃は漫画本を集めていたりしたが、社会人になってからは漫画と言わず活字と言わず、書籍の類を全く買わなくなった。

 実家には今も置いてあるはずだ。表紙が折れたり、二巻だけ友人のもとに行ったままの漫画本たちが。

 こんど帰省したら持ってこようか、しかし置き場所に困りそうだ。

 そんなことを考えながら学術書の書棚に向かう。

 どの本が良いかという判断材料は持ち合わせていない。

 ただ実践的なものというよりは辞典の性格を持ったものが欲しい。

 良し悪しについては実際に使ってみたければ分からない。

 小辞典と銘打たれた一冊を手に取ってぱらぱらとめくってみる。

 分からない言葉の解説部分に分からない言葉がちりばめられている。

 何もないよりは良いだろうと思い、購入するためにレジに行く。

 さすがにカバーの有無は聞かれなかったが、小さな書物なのに四千円も取られたのには驚いた。

 需要と供給について考えればこんなものか。

 付箋は会社のデスクの引き出しに入っているし、これで明日からは本格的に研究に没頭できる。

 まるで研究者の端くれにでもなったかのような気分だ。

 どうあれ最先端の研究、それも癌細胞をやっつけるヒーロー、の手伝いをしているわけだ。

 会社宛ての手書きの領収証をもらって、普段よりはやや浮ついた足取りで帰路につく。

 いつもは立ち寄らないエリアにある書店を後にして、ぼんやりと行き着く先が想像できるような初めて歩く道を歩いていると、やがてあの商店街に行き当たることが想起される。

 土地勘のある者にとって何ら不思議ではない。

 そうだ、温泉に一泊した日を最後に、かにかに14のことを思い出すタイミングが無かった。


 腕時計に目をやると、既に夜九時を過ぎている。

 だいたいゲームセンターといえば昔は不良の溜まり場で、今はどうだか知らないが、少なくとも夜何時以降かになると未成年者が行ってはいけない場所だったように記憶している。

 ということは逆説的に、夜の遅い時間帯にも店は開いているということを意味しているのではないか。

 俺は例のゲームセンターに行ってみることにした。

 既にほとんどの商店はシャッターを下ろし、一部の飲食店にちらほらと明かりが灯っている商店街。

 人影もまばらで、時おり自転車が走っていく。

 眩しいばかりで明るくは感じられないLED照明が照らす商店街は昼間の貌とは大きく印象を異なったものになっている。

 そして遠目から分かった。ゲームセンターは既に今日の営業を終了していた。

 店の前まで行ってみるとシャッターには営業時間が二十時迄と書いてある。

 やはり繁華街にない寂れた商店街だったらそんなものなのかも知れないな、などと思いながら、俺は帰宅した。


 翌朝、小辞典を手に出勤した俺は引き続きメールの内容の解読に取り掛かった。

 まったく本業とは異なる作業だが、上長をはじめ会社のお偉いさんたちがゴーサインを出した一大プロジェクトのような雰囲気の中で、高校入試以来の勉強を始めることになった。

 本業に関してはいつの間にか、俺が担当していたクライアントは全て別の担当者に割り当てられており、このメールの件が終わった暁には仕事が無くて退職しなければならないのではないかと思うほどの状況である。

 これは迂闊な真似は出来ないと思いつつも、やはり門外漢にとって容易に読み進められるものでもない。

 ふと気が付くと既に十三時をまわっていた。

 小辞典のおかげで効率が上がり、その小辞典はいつの間にか付箋だらけになっていて、そして後輩曰く驚異の集中力で作業を進めていたそうだ。

 さすがに上長が昼休憩を取るように言ってきたので、俺は適当なところで外出することにした。

 ちょっとぐらい休憩時間が伸びても問題なし、と上長がわざわざ言ってきたところを見ると、どうやら今回の件は本当に会社にとっての一大プロジェクトであると認識されているように感じる。

 机にかじりついて勉強するのも久しぶりで、わずか半日ほどにもかかわらず体がすっかり鈍ってしまったような気がする。

 「ちょっと行ってきます。」

 おう!とにこやかに手をあげて返事をしてくれた上長。今日もほくほくだ。


 さて、何を食べようか。

 体はあまり動かしていないが頭を使った。

 こういう時はブドウ糖が良いとか聞いたことがあるが、それを主体にした食事を摂ることを意識しなければならないほど消耗しているというわけでもない。

 結局食べたいものを食べれば良いのだ。

 ファーストフード店に入り、どのバーガーにするか考えていると、遠くに見たことのある顔を見つけた。

 名前が分からないが、どこかで会ったことのある顔だ。

 いったい誰だったか思い出そうとしているうちにレジの順番がまわってきた。

 あれこれ試してみるが、結局これに落ち着くという定番メニュー。

 面白味に欠けるが安定感抜群のチョイスでトレイを受け取って席を探す。

 途中、さっきの見覚えのある顔とすれ違う。

 「あ、どうも。」

 お互いにそう言いあってすれ違う。俺は今から座って飯を食う。向こうさんはもう食べ終わって帰るところだ。

 さていったい誰だったか。

 どこかで見た顔。そういえばその傍らに娘ぐらいのが一緒だったからクライアントの一人、親子でランチタイムだったのだろうか。

 残念ながら名前すら思い出せないということは、俺が担当しているクライアントの中に該当者はいない。

 まあ、分からなくても非礼にはあたるまい。この程度の邂逅で後ろ髪を引かれる思いにひたっていたらサラリーマンは務まらない。

 ちょうど空席を見つけた俺はそこに座り、いつものハンバーガーを食べる。

 食べている間にもさっきのが誰だったか思い返す。

 わりと最近見た顔だ。そうだ、ゲームセンターの店員だ。

 今日は久しぶりに、と言っても4日ぶりぐらいだが、行ってみるか。


 二十時までの営業時間ということは、定時で帰らなければならない。

 案の定、定時で帰ることに何の異議もなかった上長。

 今までだったら嫌味の一つもこぼしそうなシチュエーションだが、状況一つでこうも変わるものかと半ばうんざりしつつ、俺はおそらく入社してから初めて、定時で会社を後にした。

 向かう先はもちろん例のゲームセンターだ。

 自宅アパートと会社を結ぶ最短ルートからはやや外れた商店街にあるゲームセンターだが、わざわざ立ち寄るという意識はなかった。

 商店街のアーケードに入った頃には、かにかに14からの返事が楽しみになって思わず速足になっていた。

 待てよ、ひょっとしたら少しくらいの早退も認められたんじゃないか?

 そんな事も考えながら、相変わらずの引き戸をカラカラと開けて入店する。

 たった数日で何が変わるということもないだろうが、何せこの数日、目まぐるしい変化が色々とあった。

 まさか癌治療薬の研究に携わるとは思わなかったし、独りで食べる高級な料理があんなに寂しいものだとも知らなかった。

 そこへきて、この安定感だ。まるで実家に帰ってきたような。

 店内には誰もいない。

 本当にこの店の経営は大丈夫なのだろうかと心配になるが、土日など賑わっている日もあるのだろうか。あるいは一部のマニアのようなのが居て、しかも金払いが俺よりずいぶん良い太客を抱えていたりするのかも知れない。

 とにかく俺は例のゲーム機の前に向かう。

 IDカードを入れる。続いて百円玉を入れると、メッセージが表示された。

 新規メッセージ:4

 『かにかに14です。あらためてよろしくお願いしますね。リーマン1号さん。』

 『かにかに14です。今日もお忙しいのでしょうか。聞いてほしいことがあるのですが、またメッセージ送りますね。』

 『かにかに14です。大丈夫ですか?体調崩したりしていませんか?』

 『かにかに14です。またメッセージくださいね。』

 なんだこれは、まるで噂に聞くメンヘラ女に付きまとわれたらこんな感じだろうか。どう説明したものだろうか、この居心地の悪さを。

 やばい話に片足を突っ込んでしまったのかと思ったその時、不意に背後から声をかけられた。

 「こんばんは。仕事終わりですか?おつかれさまです。」

 驚いて振り返ると、そこにはゲームセンターの店員の姿があった。

 「あ、ああ、どうも。驚いた。」

 「昼間、お見掛けしたので声をかけようと思ったんですけどね。」

 けど、何だ?と思ったが、向こうの出方を見てみるように押し黙っていると、店員はそれを察したように言葉を続けた。

 「いつもご来店ありがとうございます。実はいろいろとお話したい事があるんですが、お時間、よろしいですか?」


 店員の話はこうだ。

 俺がIDカードを持っているゲーム機。

 その本来のサービスは終わっていて、ローカルでメッセージのやり取りが出来るにとどまっている。後輩から聞いた通りだ。

 店員には娘がいて、その娘がかにかに14を名乗ってコミュニケーションを取ろうとしてきているという。

 親の立場として複雑な心境ではあるが、事情があって普通の暮らしが出来ない。

 今日の昼間にファーストフード店で一緒にいたのが娘だというが、確かに一般的には中学生は学校にいる時間だ。

 その事情については本人が直接会って話をしたいらしく、親に対して口止めされているとも語ってくれた。

 俺は信じられないと伝えた。

 今どき、そんなに回りくどい方法でコミュニケーションを取ろうとするなんて、何か良からぬ事情があるのではないかと疑っているともはっきりと言った。

 店員は俺の疑いについてもっともだと理解を示してくれた。

 その上で、実に悲しそうな目でこう言ってきた。

 「いちど、会うだけ会ってやってくれませんか。」

 俺はとりあえず了承したが、場所と時間については指定させてもらうことにした。

 衆人環視の環境でなければどんな目に遭うか分からないから、と理由も伝えた。

 指定場所は近くのショッピングモールのフードコートにした。平日ならあまり込み合わないし、比較的静かに食事が出来て、そして出店テナントのバリエーションが多い。

 先方もその点について了承してくれた。

 未だその目的は分からないものの、俺はかにかに14と名乗る女子中学生と会う約束をしてしまった。

 様々な不安が脳裏をよぎる。

 だが、最後に店員はゲーム機の画面表示を見ながら教えてくれた。

 「メッセージの入力時間が、ぜんぶ閉店後になっているんですよ。」

 確かに、二十時半頃に入力されたメッセージばかりだった。この店員と少なくとも無関係でない者が、閉店後の店内でメッセージを入力していたことは確からしい。

 この事実をもって何かが証明できるということもないだろうが、悲しい表情を浮かべた店員は、その事実をもって今回の申し出についてやましい部分が無いことを説明しようと必死であったようにも感じられる。

 俺はメッセージの返信として、ショッピングモール内のフードコートと日時を入力した。

 「じゃあ、これで伝えておいてください。」

 これ以上の詳しい事を聞く気にもなれなかったし、うっすらと涙を浮かべる店員は詰まった声でお礼を言うばかりで、俺はゲームを終えると早々に店を後にした。


 かにかに14と会う指定の日時まで数日の猶予があった。

 その間にも俺は製薬会社とのやりとりを中心に仕事を進めていった。

 ある日の昼休憩に、後輩と何となく話をした。

 「なあ、このゲーム経由で『会いましょう』って言われたら、どうする?」

 IDカードを見せながらそう尋ねると、後輩はすかさずこう返してきた。

 「サービス終わってるのに?怪しいですね。犯罪の匂いがします。」

 「だよなあ。」

 後輩はうかつに会ったりしたら怖いお兄さんが待ち構えていてやられますよとか、きっと美人局に違いないとか、そういう想像力だけは逞しい。その有り余る想像力を仕事方面で発揮して欲しいものだが、それはまた別の問題だ。

 そしてふと思い立ったことがある。

 お互いの名前すら知らない。

 ハンドルネームで呼び合うなんて、映画の秘密結社のやり口だ。もちろん悪の秘密結社の。


 昼休憩が終わり、ようやく製薬会社のメールの内容について一応の理解が出来た。

 抗癌剤の副作用など数多の問題についてはともかく、最重要視しているのが小児癌への対応ということだった。

 成長過程にある生体において、癌細胞もまた活発に成長してしまう。だから小児癌は厄介なのだ。

 それを抑える、あるいは小児癌に特化した薬剤を作りたいというのが製薬会社の目標であった。

 よく癌の家系、脳卒中の家系などと言われるが、有難いことに俺の場合は両親ともに健康そのものである。祖父母も年齢相応の衰えはあるものの大した病気もせずに元気に日々を楽しんでいる。たぶん俺よりも毎日をエンジョイしているに違いない。

 ただ、それゆえだろうか。俺ははたと気が付いた。重大な病気に対して俺自身がどのように向き合うべきかについて、答えを持っていないことに。

 それはそれで幸福な事かも知れない。

 だが、いざ大切な人が病気で苦しんでいるというシチュエーションに遭遇したら、果たして俺には何か出来る事はあるだろうか。ただ右往左往するばかりでろくに共感も出来ず、そしてそのまま寂しい結末を待つだけという事にもなりかねない。

 大病を患った方が良いという話ではもちろんない。ただ、そういう経験も無駄にはならないような気がしただけだ。


 その日の定時近くなって、俺が荷物をまとめにかかると後輩が俺に声をかけた。

 「あれ、帰ろうとしてます?今日はうちの部の飲み会ですよ。」

 すっかり忘れていた。そんな予定が脳内から消し飛んでしまうほどに充実した毎日を送っていたということだろうか、しかし、道理で周りの連中も帰り支度を始めたわけだ。

 珍しく定時で全員がタイムカードを押して、会社を出る。

 行先は近くの居酒屋で、うちの会社を脱サラして始めた店主の店だそうだ。

 人間関係のしがらみもあるし、俺だったらそういう決断は出来そうにない。

 「あい、おつかれー。」

 その店主がおしぼりの山を持って席をまわる。

 俺のところにもおしぼりを持ってやって来て、流れるような手付きで対応を進めている様子を見ると、きっとこの人の天職なのだろうという雰囲気が伝わってくる。

 定例の飲み会のようなものは今まで無かった。

 だが俺の「活躍」が本社の耳にも入り、それじゃあということで祝賀会というか、とにかくこの場はそういう理由にかこつけた飲み会であることには疑いの余地がない。

 今までなら割り勘とか会社の経費とか、その辺りの事情が有耶無耶になっていたのだろうが、今回に限っては支払いは完全に会社持ちで、さらに本社の偉いさんから上限なしという言質も得ているという。

 それならばもっと良い所に行っても良さそうなものだが、そうはならない辺りがうちの会社らしいというか何というか。

 どちらかといえば会社の飲み会は嫌いだった。

 とはいえ俺が主役とあらば無視して帰るわけにもいかない。

 俺が主役だったら周囲が味方してくれるだろうから、多少の上長からの追求にも援護射撃が期待できそうだ。

 何が嫌だって、飲み会の席で仕事上の叱責をされるのが嫌なのだ。

 そして今回に限ってはその心配が無さそうだ。


 いたって平和的なムードで終始つつがなく飲み会は終わった。

 誤算だったのは、やたら周囲が俺を褒めまくるところだ。悪い気はしないが、結果に対して取り組んだ事といえばコメンテーターの発言にケチをつけた程度だから、俺の実力とか努力とか、そういうものに起因しているわけでも決してなく、つまりラッキーを褒められるという、実に居心地の悪い褒められ方をしていたわけだ。

 俺は酒は好きだがそう強いわけでもないので、飲む量をセーブしていたこともあって、しっかりとした足取りで店の外に出る。

 まだ残暑が厳しい。

 まだ終電の心配をしなければならない時間でもないが、少し動いたら汗ばむような外気にさらされて、俺たちは不快感と再会した。


 俺は歩いて帰る気でいたところへ、後輩が酔い潰れているという情報がもたらされた。

 「先輩、次はどこれす?カアオケ?」

 既にラ行の発音が怪しい。

 もともとさほど酒に強くはない後輩だったが、今日は妙に酒の進みが早かった。

 後で聞いたら俺の活躍が嬉しくて飲みすぎてしまったらしいが、それならそうとその時に言ってくれれば悪い気はしなかったのに。

 幸か不幸か、俺のアパートと後輩の家はそう遠くない。

 だから辛うじて自律歩行の機能を維持している後輩を伴って、彼女を家まで送り届ける役目は俺が引き受けることとなった。


 帰り道、後輩は今までにないレベルの上機嫌さを発揮した。

 よほど俺の活躍が嬉しかったらしい。

 彼女が偶然にも同じ大学を卒業していたことは最近知った。在学中は面識すらなかったが。

 そのことを知るより前から、彼女は俺に対して好意を持っているのではないかと考えられる節があったが、気のせいだったら面倒なのと、何より勘違いだったら恥ずかしいこともあって、他の同僚よりも際立って仲良くするようなこともなかった。

 そもそも現在のこの関係性が変質していくことを恐れたのもあるが、やはり彼氏彼女の関係というよりは、古いゲーム機で美人局のような馬鹿話をしている間柄の方が心地好い。


 そんな後輩が、居酒屋を出てからずっと何やら言いたげであることには少し前から気付いている。

 そして後輩は酒の影響も手伝って、普段なら言えないことも言えそうだと発言している。

 不意に俺の左腕に絡みついてくる後輩。思わず立ち止まる俺。

 お互いに何も言わないまま、しばらく立ち尽くす。

 腹の底に押し留められ続けてきたナニモノかを必死に絞り出そうとしているかのような後輩の様子に、俺は次に何を言うべきか定まらない。気の利いた言葉でもかけてやれば良いはずだが、最適解って物はきっと人の数だけ存在する。

 「えっと、ですね。」

 ようやく出てきた言葉には、今のところ特筆するべき意味合いは含まれない。

 ただ、その雰囲気はランキング第一位を発表する時のドラムロールよりも、この後に続く言葉が重大であるということを雄弁に語っていた。

 「えっと、んー。」

 おそらく彼女の中で結論は決まっているのだろう。そして、結論が導く今後についてあれこれと考えてしまっているに相違ない。だからこそ踏ん切りがつかないのは想像に難くない。

 なかなか言葉にできないでいる後輩に対して、俺はついこう言ってしまった。

 「酒の勢いに任せて、それでいいの?」

 後輩は黙ってしまった。

 俺は内心でしまったと思ったが、迂闊な発言で自己嫌悪に陥る後輩の姿が目に浮かぶようでもあった。

 しばらくの沈黙の後、それまで沈んでいた後輩の表情が何かに気づいた様子でぱっと明るくなって、そして俺に元気よく言った。

 「そうですね!お酒の勢いで告白なんてアウトです!さすが先輩!またこんど好きってちゃんと言いましゅので、その時はお願いします!では、失礼します!」

 そう言い終わると、後輩はさっさと走って帰ってしまった。一部の発言を噛んでしまっているのでわりと酔いが回っていたはずが、そうは思えない足取りであっという間に視界から消えていく。

 後ろ姿を見送り、あとに残された俺はつい独り言として発声してしまっていた。

 「ぜんぶ言ったね。」


 やはりそういう事かという思いと、明日からどういう顔をして接してやれば良いものか思案しながらも、俺はとりあえず自宅アパートに向かって歩きはじめる。

 悪い気は、しない。しかし手放しで喜べないような複雑な心境。

 もしお互いに気が付いていないだけの相思相愛状態であったならば、これは舞い上がるほどに嬉しい出来事に相違ない。

 だが、そうではない。

 とはいえ、だからといって嫌いというわけでもない。

 異性として意識したことがなかっただけで、気は合うし食の好みも似ている。

 実は相性が良いのではないか。

 そんな止め処もない思考が渦巻く頭の中と、その思考を特に反映させることなく半ば自動的に動く体。

 とはいえ集中力散漫の状態でぼんやりと歩いていると、不意に背後から声をかけられた。

 「リーマン1号さん、ですよね。」


 実生活では一度たりとも呼ばれたことがない呼称。

 それでも、その名称は俺が付けた仮の名前だから自覚はある。

 とりとめのない思考が瞬間的に中断され、歩みは止まり、現実に戻る。声は後ろからした。

 なぜだか振り向くのが怖かったような気がしたが、目を見開いたまま前を向いた状態を少しキープしてから、ゆっくりと振り返ると、そこには例のゲームセンターの店員と、その店員、つまり父親に連れられた女の子の姿があった。

 「かにかにじゅうよん、さん?」

 数日前にファーストフード店で見かけているはずだが、そうと意識していなかったこともあり、実質的な初対面だった。


 「はじめまして、かな。リーマン1号です。」

 咄嗟に口をついて出たものとはいえ、我ながら珍妙な自己紹介であった。

 「ひじめまして。かにかに14(フォーティーン)です。」

 あれは「じゅうよん」じゃなくて「フォーティーン」と発音するべきものだったか、などと思うが早いか、その外見に目を奪われてしまった。

 背格好の話ではない。

 この暑いのに深々とグレーのニット帽をかぶり、頬は痩せこけて、紺色のワンピースから延びる手足はまるで棒のような細さ。目鼻立ちは悪くないように思われるものの、たとえば映画のキャスティングで呼ばれることがあるとすれば、間違いなく死を目前にした重病人の役だろうと確信が持てる程度には、彼女の姿は異様であった。

 続く言葉を出せないでいる俺の様子を見て、彼女が言う。

 「たまたま見かけたので。」

 偶然に会ったということを言いたいらしい。

 「たまに夜、散歩に出るんですよ。」

 父親が言葉を続ける。

 やはりその外見のせいもあってか、日中の外出には積極的ではないということらしい。

 日ごろの営業トークであれば、立ち話もなんだからそこの喫茶店にでも、というタイミングだ。

 しかし予想外の出来事に対して人間は脆いもので、果たしてどうしていいものか考えあぐねていると、父親の方が提案をしてきた。

 「お時間ありましたら、お店の方にいかがですか。」


 商店街の一本北側の通り、つまりゲームセンターの建物の裏手側から、俺はゲームセンターの建物内に通された。

 勝手口の扉を解錠して建物の中に入る。

 慣れた手つきで照明のスイッチを入れると、視界には室内の様子が浮かび上がってくる。

 古いとは思っていたが、木造二階建の店舗で、ふだん見ることのできないバックヤードは、古き良き時代と称するに充分な雰囲気の乱雑さを誇っている。

 商品だか保守用の部品だか分からない物が散在している通路を抜けて、おそらく店員が待機しているために設けられていたであろう四畳半ほどの和室に通された。すぐ横の扉の先はゲームセンターの店内にあるカウンターに通じているらしい。

 和室にはもう何年も通電されていないと思われるブラウン管のテレビが据えてあり、おそらく布団を外した状態の電気コタツのテーブルに座布団が四枚、観光地のお土産として一時期は不動の地位を誇っていたペナントなどが飾られている。

 「グアム、フィジー、ハワイ、いい所ばっかりじゃないですか。」

 俺がそう言うと、店員は少し笑みを浮かべて答える。

 「妻と行った所の記念で。」

 そういえば奥様の姿は、今までの店内や先日のファーストフード店の時も含めて、これまでのところ見かけていない。

 単にこの場にはいないだけか、はたまた離別ないし死別していたら気の毒な話をさせなければならなくなると思い、俺はそれ以上は聞かないことにした。

 そこへ、娘がコーヒーをもってやってきた。

 「どうぞ。」

 おそらく慣れない事をしているのだろう、コーヒーカップを載せた皿の上でスプーンがカチカチいっている。

 三人分の飲料が揃ったところで、店員と娘も座布団に座る。


 俺の対面に座ったのは店員で、俺から見て右側に娘が座っている。

 口火を切ったのは店員、つまり娘の親だ。

 「今日はお時間をいただき、ありがとうございます。」

 俺は何と返して良いものかと思いつつ、会釈するにとどめた。

 「お約束の日より少し早いですが。」

 そう、フードコートで会う約束をしてた日からは二日ほど早い。

 いずれ顔を合わせるなら別に少しくらい早くなったって大した問題にはならない。

 特に何か準備が必要だということもないし、俺だって急いで何かをやらなければならない事情があるわけでもない。

 だから予定と違うからといって怒ったり、その事について叱責したりするつもりも毛頭ない。

 ただし、心の準備というか、いざ唐突に三者面談がスタートするにあたり、実際戸惑っていた。

 とはいえこの戸惑いは予定通りの邂逅であったとしても大差なかったはずだ。

 「ええと、どういう。」

 ここまで言いかけて、娘が自己紹介を始めた。

 この春から中学生になったこと。

 かにかに14という名前でやりとりをしていたこと。

 かに座であることと、癌であること、そして医師からは十四歳までは生きられないだろうと言われていること。

 癌は英語でキャンサー、キャンサーといえばかに座。

 だからかにかに14には「かに座の癌患者が14歳」といった意味が込められているという。

 なれないと言われている十四歳という数字を敢えて含めている。

 これだけの境遇にありながら、そして病気のためだろうか、か細い声しか出せないにもかかわらず、彼女からは病魔に屈することを絶対に認めないと宣誓しているかのような強い意志があるように感じられ、その事実が俺の中から発するべき言葉を奪い去ってしまった。

 そして、なるほどと合点がいった。

 ニット帽はおそらく抗がん剤治療の影響で頭髪が抜けてしまったために着用しているのだろう。

 やせ細った体も病魔によるものに相違ない。

 それでもなお、やや窪んでしまってはいるが眼窩の奥にある瞳からは光が消えていない。

 生きてやるんだ、希望を失うまいとするその生き様を知るにつけ、俺の中学時代がどれほどのものだったか反芻してしまう。

 毎週月曜日は学校で、日曜日の朝に放送しているアニメの話題。

 火曜日には週刊の漫画雑誌を買いに行き、それから週末まで何となく学校に行き、時には宿題に追われ、ちょっと友人とケンカしたりしたことはあったものの、残念ながら色恋沙汰やらスポーツで大活躍するなど脚光を浴びるようなことにも無縁な、取り立ててイベントらしいイベントなどの無い中学生活だった。

 それを平凡と呼んで尊ぶ気持ちが、その他大勢に含まれることの有難みが、今なら少しは理解できそうだ。


 一通り、思う通りの言葉を発し終わったのか、娘はついに本名を名乗ることもないまま急激に、明らかに疲労困憊した様子に様変わりして、大人しくなってしまった。

 きっと病身には負担が重い、ものすごいエネルギーを使ったのだろう。

 まだ少し何か言い足りない事が残っていそうな様子でもあったのだが、父親に促されて二階に上がっていった。

 ここは生業の場であり、生活の場でもあったのだ。

 しばし四畳半で独り。思索にふける時間。

 果たしてこの状況は、いったい何だろうか。

 病床にある中学生が俺に会いたいといってきて、偶然とはいえそれが叶い、そして恐らくは不十分なままに退席を余儀なくされた。

 ふと、例のゲーム機での最初の頃のメッセージが思い出される。

 片思い。

 まさか俺に、いや、考えすぎだ。接点が無さすぎる。

 あるいはしばしば現実逃避をしに訪れる俺をバックヤードから偶然に見かけて、それこそ同級生も含めて外界との接点が極端に少ないなか、誰とはなしに恋心でも芽生えてしまったのかも知れない。

 きっと幼馴染の男の子でもいて、それが中学に上がって急に格好良く見えて、とか、そういう話もあるじゃないか。芸能人を好きになったとか、可能性はいくらでもある。コミュニケーションに飢えていただけなのかも知れない。

 我ながら、ここまで支離滅裂な思考に陥ったのは初めてかも知れない。

 コーヒーを口に含むと不思議と懐かしい味がした。

 特別な味ではない。量産されているドリップコーヒーで、職場でもよく飲む安物と同じ味がした。インスタントコーヒーよりは幾分ましな、あれだ。

 いつもの同じ味のコーヒー。

 カップだけ違う。

 いつもブラックで飲むので問題ないが、そういえば砂糖もミルクも添えられていない。

 忘れただけか、そもそもそういう発想がないのかも知れない。ではこのスプーンは何のために。

 まとまらない思考のままで手を後ろについて天井を見上げると同時に大きなため息が出る。

 これはいったい、何だってんだ。


 ややあって、店員が二階から降りてきた。

 娘は眠ったそうだ。

 俺はまとまらない考えの中、ひとつはっきりしている事は、自分なりに情報を整理することが出来ていないこの状況で、何かを話すのは得策ではないという思いのみだった。

 だからこれ以上店員と話すこともしないで、帰ろうと鞄に手をやったとき、店員が言った。

 「また、お店の方にお越しください。」

 商売の目的で発せられた言葉ではない。

 暗に娘を気遣ってやって欲しいという親心がストレートに出てくることを拒んでいて、その結果として絞り出した言葉であったように感じられる。

 「お聞きしたい事もありますが。」

 しばらく考えてから続ける。

 「また伺います。」

 務めて沈痛な表現にならないよう、平静を装って少し不自然さがにじみ出る程度に、明るい営業スマイルで店を後にした。

 もともと泥酔していたわけでもなかったが、酔いは、すっかりさめてしまった。

 商店街のアーケードを抜けて家路につく頃に、ふと考えることを拒絶している自分がいることに気づいた。

 後輩の告白に続いてかにかに14の真実を知り、つまり日常生活から逸脱した出来事がこの一時間ほどの間に二件続いたのだ。

 具体的に何がということもないが、気分は晴れなかった。

 帰宅してからいつもならシャワーで済ませるところを熱めの風呂に入り、寝た。


 翌朝、目覚まし時計より早く目が覚めた。

 寝つきもあまり良くなかったから、きっと昨晩の出来事が影響しているのだろう。

 とはいえ仕事には行かなければならないし、そのために身支度も整えなくてはならない。

 のっそり起きだしてトイレに入った途端、目覚まし時計のアラームが鳴った。

 勝ったと思ったら背後からグサリとやられたような気分だ。

 一昨日買ったコンビニのおにぎりを冷蔵庫から取り出して齧る。

 昨夜遅くが賞味期限だったが、この際気にしない。冷蔵しておいた結果として食感がだいぶ劣るのは仕方がない。

 身支度を整えてから、家に居たって何をする気も起きないのでいつもよりずいぶん早く、といっても十五分ほどだが、会社に向かって出発することにした。

 同僚のほとんどが電車通勤だが、俺は徒歩通勤という少数派だ。

 そしてその少数派に後輩が含まれている事を俺は失念しており、十五分ほど早く出た出勤途中の道で、いつも俺より早く出勤している後輩と出くわすという事態に発展した。

 どう接して良いものか決めかねていた俺だったが、後輩はごく普通に挨拶をして、早いですね、今日は雨が降るかも知れませんね、などと茶化してくる。

 向こうに何か変わった様子は見られない。酒のせいで記憶が飛んだか。

 少し安堵して、会社までの道を共に歩く。

 そこで例の研究に関する話題になる。

 そうだ、俺は癌の薬を作る手伝いをしている。それも小児癌の。これが上手くいけば、かにかに14を助けられるかも知れない。

 安直だがそう思った。

 全てのピースが繋がったような高揚感。

 もちろん、研究が結実するかどうか、そして結果としてかにかに14を助けることが出来るかどうかなど分かりはしない。

 だが希望はある。

 希望さえあれば、とりあえずはそれでいい。


 出社すると、また研究所からのメールが来ている。

 昨日送ったメールに関する追加の説明・確認を求める内容だった。

 素人の思いつきレベルの発想だと思っていたことが、次々と脚光を浴び、そして採用されて実験が繰り返されている現実。

 もしかしたら来年あたりに俺は死ぬんじゃないかと想起してしまう程度には上手くいっている印象だ。

 そのメールの最後に、興味深い一文があった。

 間もなく試薬が完成、臨床試験の申請。

 存外に早く完成するように感じられるが、そもそも癌細胞を攻撃する仕組みは出来ていて、それをコントロールする方法について俺は口出ししているわけで、その方法さえ確立すれば、理論上は薬が完成したと言える、らしい。

 しかし、そうなると俺の役目も終わりだろう。

 そうあっさり上手く行くとは思えないが、しかしそうなるとまたいち営業マンの生活に戻り、そしてあの守銭奴オヤジのような輩の相手をしなければならないわけか。

 いや、場合によっては巨万の富を生む可能性がある薬品だから、たんまりボーナスをもらって遊んで暮らすことも、いや、捕らぬ狸の皮算用はやめておこう。

 大金を手にしたらきっと人生がおかしくなる。

 そうこうしているうちに昼休憩に入り、午後には資料漁りという名の気分転換を申請して外に出る。

 相変わらず上長の機嫌が上々なのが気持ち悪い。


 行先はとりあえずゲームセンターだ。

 昨日の今日で何かがどうにかなるというものでもないだろうが、俺なりに話題を一つ持っていくつもりで商店街に向かう。もちろん、癌の治療薬の研究に携わっているという話をしてやるつもりだ。

 商店街の近くまで来ると、何やら様子がおかしい。

 シャッター街から華麗に復活した商店街はいつもそれなりに賑わっているのだが、今日はどちらかといえば騒々しい印象を受ける。

 すぐに救急車がサイレンを鳴らして遠ざかっていく。誰かが運ばれていったようだ。

 もしや、と思って足取りが早くなる。

 案の定、ゲームセンターのシャッターは今まさに下ろされようとしていた。

 見覚えのない中年女性がシャッターを下ろすための棒を握って、半分ほどまでシャッターを下ろしている。

 俺は思わずその女性に声をかけた。

 女性は驚いたような表情を浮かべ、まずは面識のない俺に少なからぬ警戒心を露わにしたが、俺が事情を話すと、少し詳しいことを教えてくれた。

 まずその女性は隣の店の従業員で、ゲームセンターの店主とは長年の付き合いがあり、お互いに何かあれば助け合うような関係性だと教えてくれた。

 今しがたかにかに14の容態が急に悪化したので救急車を呼び、親子そろって救急車に乗って病院に行ったところだから、代わりにシャッターを閉めたりしているそうだ。

 「大変よねえ、娘さん。可哀そうに。」

 ありきたりな社交辞令ではなく本心からそう思っているのだろうと伝わる口調でそう言ってから、女性はゲームセンターのシャッターに「臨時休業」の張り紙をした。


 気分転換で武勇伝でも語ろうかと思っていたのに、思わぬ事態に直面した俺は、その女性に礼を言ってから商店街を後にした。

 健康体には見えなかった。それは間違いない。

 ただ、昨晩のやり取りを見るに、そこまで末期的な状態でもないように思われた。

 だがいつだったか、カップうどんを食べている時に遠くで聞こえた救急車のサイレン。あれもかにかに14を乗せていたのかも知れないと、直感的にそう思った。

 いずれにせよ一時的なものかどうかも含めて、俺には判断する材料がない。

 しかし医者は1年ももたないと言っているらしい。

 すっかり暗澹とした気持ちになったしまった俺がうなだれながら歩いているのを目ざとく見つけたのが後輩だ。

 営業先から帰社する途中だったらしい。

 「まずいランチにでもあたりました?」

 相変わらずの着眼点だ。俺も少しは見習うべき部分かも知れない。

 せっかくだしお茶でも、という発想も俺には無かった。

 美味いかどうかは別にして、会社に戻ればコーヒーは飲める。

 ただし後輩の認識によれば、元気が無い時は甘いものに限るらしいので、俺は後輩と一緒に近くの喫茶店に入ることとなった。

 盛夏を少し過ぎたとはいえ、まだまだエアコンが休むのには早い。

 店内は涼やかで俺には心地の良い温度だと思えたが、後輩は開口一番に寒さを訴えた。こういう部分でも違いは現れるものだと少々興味深く思えた。


 「疲れた時には甘いもの理論」に反して、俺はいつもの通りのコーヒーを注文した。もちろん、後輩があんみつを注文した後でだ。

 多少不満げではあったが、そこで真っ向から異論を唱えてくるような問題でもない。すぐにいつもの後輩の様子に戻り、そしてしばし何でもない会話をした後に注文したあんみつが手元に届くと、まるで砂漠でオアシスでも見つけたかのような満面の笑みとともに、さっそくスプーンを手に取って食べ始める。

 一口目を口内で味わって、得も言われぬ幸福感に溢れた表情を浮かべる。その様子を見ていると、俺まで嬉しいような気持ちになる。

 今までは後輩のことを異性として意識すまいと考えていた俺だった。

 が、酔った勢いで当人としてはノーカウントなのかも知れないものの好意を寄せているという本心を聞いてしまって、そのうえこんなに幸せそうな表情を見せられたら、意識しない方がどうかしている。

 外見が飛びぬけて良いということはない。といって決して悪くもない。

 友人たちの中には、やれ胸の大きさだの足の綺麗さだの積極的に自身の嗜好について熱く語る連中もいたが、俺はそういう部分には重きを置いていない。

 もちろん、外見が良いに越したことはないだろう。だが肉体は衰える。どれだけ努力してみたところで、自ずと限界がある。

 何が言いたいかといえば、俺は性格、内面を重視したいと常々考えていた。

 気難しい絶世の美女よりは、見た目は平凡だとしても気の合う相手の方が良いに決まっている。

 そのことを改めて顧みてみると、俺が提示し得る唯一の条件である「気が合う」という要素を満たしてくれる異性は、今のところこの後輩だけではないだろうかという考えにたどり着いた。

 肩肘張らない関係で、良い意味でお互いに遠慮がない。相手も同様かと聞かれれば想像の域を出ないが、会話する度にいちいち緊張を強いられる相手を好きになるだろうか。

 まだ言われたことはないが、俺の両親だっていつ「孫の顔が」などと言い出さないとも限らない。

 そうか、これは好機かも知れない。

 「なあ。」

 「はい?」

 俺は昨晩の事を覚えているか聞いてみた。

 いきなり「俺のこと好きなの?」なんて聞けるやつがいたら連れてきてみろってんだ。

 「ええと、だいぶお酒を飲んでいたので。」

 やはり。居酒屋を出る少し前あたりから記憶が無いらしい。

 「あ、でも最後の柚子シャーベットは美味しかったです!」

 美味いものは記憶に残っているらしい。

 もしかしたら照れ隠しでそう言っているだけ、という可能性もまったく否定はできない。

 それでも、迂闊な発言によって関係が壊れてしまう事態は避けなければならない。

 昨日の今日だが俺の心情に大きな変化が生じていることは自覚している。

 さて、相手の本心を知った上でこちらからアクションを起こすべきか。いや、あの時の後輩はこう言っていた。

 「またこんどちゃんと好きって言いましゅので」と。

 俺はその機会を奪ってしまうほど意地悪でもないし、だからといって何が何でも相手から言わせようとするほど計算高くもないと思っている。

 いずれにせよ今は時期ではないような気がした。

 そこへ後輩の携帯電話に会社からの着信があり、ややあって青ざめた表情の後輩が平謝りしている。

 横で聞いている限りでは、アポを一つすっ飛ばしているらしい。

 「では私、行きますので!ごちそうさまでした!」

 残りのあんみつをかき込んでカフェオレを一気に飲み干すと、後輩はとっとと店を出て行ってしまった。

 俺のおごりだという話は出ていなかったはずだが。

 まあいいさ。

 俺は独り、ゆっくりと残りのコーヒーを飲み終えてから会計を済ませ、近くの書店経由で会社に戻った。


 定刻を少し過ぎた頃、俺が研究所からのメールに返信を入力している所に、後輩が肩で息をしながら慌てて帰ってきた。

 すっぽかした件は息を切らせて走ってきた様子に免じて不問となり、そればかりか新しい契約が取れたという。

 上長の報告の中から聞こえてきたのだが、後輩としては契約件数の新記録らしい。

 いったい何をそんなに慌てて帰ってきたのか、とやや怪訝に思っていたが、新記録を報告するためか。

 などと思っていたのも束の間、後輩はデスクに戻って鞄を置くなり、俺のところにやってきてこう言った。

 「やりました、新記録!」

 お互いにブイサインを送る。

 「何かおごってください!」

 おいおい昼間の喫茶店は、と言いかけたが思いとどまることができた。あの喫茶店のくだりがなければ、そもそもアポを忘れるという失態は無かったはずなのだから、ここで小さな失態を暴くのはいかにも意地が悪い。

 「メールの返信中。けっこうかかるけど、いいか?」

 「はい!」

 やはり食うことに関して人一倍の熱心さを誇っているように思える。

 いや、あるいは昨晩のリベンジかをしたいのだろうか、などと勘ぐってしまったが、いずれにせよ今は目の前にある仕事、研究所へのメール送信が最優先だ。

 準備していて添付予定のファイル数が膨大であり、それを補足説明するための本文も自ずと長文になることは明白だった。かにかに14の事もあり、つい力が入りすぎてしまったような恰好だ。

 同僚はやがて一人、また一人と俺達を置いて家路につく。

 すっかりオフィス内の活気が無くなった頃に、ようやくメールの送信が終わった。

 ふとパソコンの画面から視線を移すと、ふんぞり返りながらスポーツ新聞を読む上長の姿があった。

 とっくに仕事は終わっていたが、さすがに帰るわけにもいかず、俺の作業が終わるのを待ちわびていたところ、ゴシップ欄が楽しくて読みふけっていたらしい。


 会社を出るとき、後輩の様子が少しおかしいように感じた。

 思い詰めたような、どこか上の空のような。

 どこに行くか特に決めていなかったのだが、行き先は後輩の希望で小籠包の店に決まった。

 商店街の中ほどにあって、以前から大人気で行列が出来る店だ。

 猫舌の俺としては、よりによって小籠包という選択肢にやや辟易したが、本日の主役の要望とあらば仕方がない。美味しいことは理解できるが、熱湯の如きスープをそのまま一気に食べるなど正気の沙汰とも思われない。さりとて分解などしようものなら邪道な食べ方だと非難される。他にも適当なメニューがあるだろうと考え、店に向かう。

 午後七時過ぎの夕食時だったが入店待ちの行列はなく、すぐに席につくことができた。

 メニューに目をやると、果たして小籠包専門店としての矜持だろうか、大きく小籠包と書かれており、その写真とともに個数と金額が書いてあるだけである。

 中国語らしい文字列は正確に読むことができないが、漢字の意味を拾っていくと、たぶん中国の伝統的な製法で蒸しあげた美味しい小籠包をどうぞ、というようなことが書いてあるのだろう。

 ドリンクメニューも決して多くなく、他につまみになるような料理といえばザーサイがある程度。

 本当に小籠包が好きな人以外には響かない店だ。

 とは言っても不味い店に行列など出来はしないはずだ。

 俺はいかに無難に小籠包の冷却を行うかを考えることにした。いちどに多数の小籠包を注文すれば、蒸籠の蓋を開けておく時間が長くなり、出来立てアツアツを食べるより幾分ましになると思った。

 しかし十個注文しようとしたら、店員のお姉さんが「二人だったらすぐに冷めるね。六個がおすすめ」などと余計な事を言いやがった。個数によって金額が割安になるようなこともないので、明確に断る理由もない。


 結局、まずは六個の小籠包を注文した。

 「じゃあ、新記録にかんぱーい!」

 二人とも生ビールをジョッキで頼んで、昨夜に続いての酒宴の幕開けである。

 昨晩と異なる点といえば場所と人数、そして俺の認識、つまり後輩が俺のことを好きらしいという情報が追加されていることだ。

 またしても泥酔するほどに飲むようであれば諫める必要があると思ったが、意外と言うべきか、後輩は乾杯後にジョッキの四分の一程度を飲むと、いったんジョッキをテーブルの上に置いた。

 たしか昨晩は最初の一杯をほとんど一気飲みという勢いだったはずだが、さすがに二日連続ではしんどいのだろうかと思った矢先、後輩が真剣な眼差しを俺に向けた。

 「先輩、まだ素面のうちに、聞いてください。」

 厳密にはもう既に素面ではないはずだが、俺は黙って頷く。

 俺はこの時ふと思い出した。明日は産業医の巡視が予定されていたはずだ。

 だが健康診断と違って夜九時以降の飲食は控えて、酒は飲まないようにといった注意をされているわけでもないから、この場の飲酒を咎められる言われもないし、今はそんな事を言葉にできる空気ではないことぐらい俺にも分かる。

 しばし見つめ合う二人。だんだん後輩の挙動がおかしく思える。あらぬ方向に視線をずらしたり、ジョッキを手に取っては、飲まずにまたテーブルに置いたりを何往復かした。

 そんなに長い時間ではないはずだが、しばらくそうしていると小籠包の蒸籠が届く。

 持ってきた店員のお姉さんに軽く礼を言って受け取ってテーブルの上に置く。

 どちらが蓋を取るでもなく、蒸籠はそのまま捨て置かれる格好になってしまった。

 俺としてはある程度の時間が経過すれば猫舌対策になるので好都合ではあったが、この時はそんな事を考えている余裕が無かった。

 会社を出る時の様子といい、やはり昨晩果たせなかった告白を今日ここで実行するつもりなのだと俺の直感が言っている。

 「えっと、あの。」

 酔いの程度を問わず、えっとで始まるのは後輩の口癖のようなものだ。

 少し無言の時間が流れて、決心がついたような表情とともに、言葉が続けられた。

 「好き、です。」

 昨晩酔っている時はそうでもなかったが、今は耳たぶまで赤くしている。アルコールの影響を上回る感情の高揚。

 そこから急に我に返ったように慌てはじめて、何やらブツブツと言っている。正確に聞き取れないが、言っちゃったどうしよう、という風な事をつぶやいていた。

 「そう、だ。小籠包。開けますね。」

 俺も同じタイミングで蒸籠の蓋に手を伸ばしていたので、手と手が触れる。

 初恋の甘酸っぱい想い出かよと突っ込みたくなるようなタイミング。

 俺はそのまま後輩の手を握る。蒸籠の熱気が蓋の上にも伝わる。きっと蒸気だけの熱さではないだろう。

 えっ、という表情のまま俺の目を見る後輩。

 軽く頷く俺。

 「俺、猫舌だけどいいの?」

 「熱いのは私の担当にします!」

 「じゃあ俺、食べるものないじゃん。」

 「あっ、そうか。」

 一気に緊張が解けた後輩は、今まで見た中で最も美味しそうに小籠包を食べ、ビールを飲み、果たして酔いつぶれてしまった。


 ちょうど二十四時間ほど前と似たようなシチュエーション。

 店を出ると、家路は位置的にゲームセンターの前を通る。

 営業時間は過ぎているので立ち寄ることは出来ないが、そういえばシャッターに貼られていたはずの臨時休業の張り紙が無くなっている。

 上の方に目をやると、二階の窓に明かりが灯っている。

 帰宅したのだろうと思う一方で、やはりそれからどうなったか気にならないといえば嘘になる。

 俺は後輩を家まで送り届けてから、ゲームセンターに向かうことにした。

 酒癖が悪いとまでは言わないが、限界を超えて飲んでしまうのは何とかしないといけない。


 ゲームセンターの裏口にあたる玄関のチャイムを押す。

 しばらくしてかにかに14の父親が出迎えてくれた。

 通されたのはまたしても例の四畳半だ。

 俺はまたしてもアルコールが入った状態で訪れてしまったことに対するお詫びをしてから、正直に様子を聞くことにした。

 緊急で入院したらしいが、命に別状はないらしい。

 もっとも、余命宣告されているのに命に別状はないというのも妙な話だ。

 すると店員は、ゲーム機について語りはじめた。

 「あのゲームはね、娘のたっての希望で仕入れたんですよ。」

 まさか、そういった経緯で導入されたものだったとは思わなかった。

 そして店員は続ける。

 「どうしても、ってね。まあ、サービスが終わっていたのもあって経済的な負担はほとんど無かったんですよ。あの子の我儘に付き合うのも、数えるほどしかないだろうって思っていたのもありますかね。」

 そう言う店員の目からは涙がこぼれ落ちる。

 俺はどう言葉をかけて良いものか分からず、とりあえずは深刻そうな面持ちのまま、その様子を横で見ていることしかできずにいた。

 去年、まだ娘が小学校六年生のときに、小児癌が発覚したそうだ。

 病状は日に日に悪化していき、既に幾度かの手術も受けたが根本的に完治させることは叶わず、現在は放射線治療と抗癌剤治療を併用しているそうだ。

 その娘はある日、ちょくちょく来店する俺の姿を見かけ、興味を抱いたらしい。

 大人のサラリーマンは日中は真面目に働いていて、ゲームセンターに来るようなことは無いと思い込んでいた。ところへ俺のような者が頻繁に来るものだから、果たしてどういう境遇にあるのか詮索をしてみたくなり、コミュニケーションの手段としてあのゲーム機の導入をねだったのだという。

 片思いをしているというのもどこまで本気なのか推し量れないが、そういう表現をすることで興味を持ってもらおうとしたのかも知れない。

 俺は思い切って、今の俺が置かれた立場、つまり小児癌の治療薬の研究に携わっていることを打ち明けてみた。本業とは違うが、縁があって製薬会社の薬品研究の手伝いをしていることを。

 そして、今日送信したメールの内容次第では、革命的な癌治療薬が出来るかも知れないということを。

 希望を持たせるだけ持たせて、結果的に絶望の淵へと落とすことはしたくなかった。それでも、今このタイミングで伝えておかなければならないという使命感にも似た思いがどういうわけか、そしてどこからか湧いてきてしまって、俺はありのままを伝えた。

 専門用語やおそらく特許に関わるような部分も包み隠さず伝えたせいで、相手には内容が理解できたとは到底思われない。

 ただ一つ、俺が嘘を言っていないことについては分かってもらえたように思う。

 やがて一通りの説明が終わり、話題が無くなったところで俺は帰ることにした。

 次に来る時にはお酒でも飲みながら、という話をしたが、病院から緊急で夜間に呼び出される可能性もあるからと断られてしまった。

 この父親は、全てを娘のために生きている。

 「ありがとうございました。」

 背中でぼそりとつぶやく店員の言葉を尻目に俺はゲームセンターを後にした。


 ジェットコースターのような一日の始まり。

 後になって顧みてみると、こう表現するより他に思い当たらない。

 目覚まし時計のアラームより早く、社用の携帯電話が鳴動した。決まって良くない事が知らされる前触れである。

 電話の内容は、機密事項流出の疑いありというものであった。

 毎朝欠かさない髭剃りもすっ飛ばして、大急ぎで出社する。

 果たしてそこには青い顔でそわそわしている上長と重役たちの姿があった。

 話はこうである。

 昨晩遅くに、製薬会社各社に問い合わせのメッセージが送信されたのだという。

 娘が末期癌で余命いくばくもありません。新しい治療薬を開発中という噂を聞きました。ぜひ娘を助けて下さい、という内容だそうだ。

 俺は直感的にあの店員ではないかと想起した。

 だが、さすがにどの製薬会社とまでは伝えていないから、思いつく限りの製薬会社に手あたり次第にメッセージを送ったのだろう。製薬会社同士の横のつながりのようなもので、複数社に同様のメッセージが送られていたことが判明したそうだ。

 その中に、俺が関わっている製薬会社も含まれていた。

 メッセージの送り主が誰であるかは伏せられていたものの、例のゲームセンター辺りの住所が記されていたらしく、商店街の店舗から送信されたものだ、とだけ伝えられた。

 商店街に近いということは、俺のアパートからも近い。場所的にもタイミング的にも疑いの目が向けられているのが俺であることは明白であった。

 俺は重役たちの前で申し開きをすることとなった。

 当初は何とか取り繕うことも考えたが、いち社会人としてそれはできないと判断した。

 どうせあの守銭奴オヤジが嫌になって辞めることすら考えた会社だ。真実を話して、それで判断してもらおう。俺は人助けの意図で話をしたのだ。それが駄目だと言われたらそれまでのことだ。

 懲戒解雇だったら転職が不利になるかも知れないが、それよりも良い事をしたのだからと、俺は胸を張ってやろうじゃないか。

 こういうのを一般的には開き直りと呼称する。

 そして開き直ることが出来た人間は強い。

 俺は淡々と事実を話した。

 たまたま知り合った少女のこと。

 その少女が小児癌で苦しんでいること。

 昨日は緊急入院して、医者からは余命宣告されていること。

 その父親に対して、勇気づける目的で様々な話をしたこと。

 おそらくその父親が製薬会社に対してメッセージを送ったであろうこと。

 良かれと思って話をしたが、今から考えると軽率な行為で配慮が足りなかったこと。

 どのような処分も受け容れるつもりであること。

 一通り話し終わると、重役たちはしばらく沈黙していた。

 誰一人として口を開かない。

 かすかな秒針の音と、出社してくる他の社員たちによるノイズが支配する会議室。

 何か言われるまでは俺は口を開くまいと思っていた。

 そこへ入室してくる知った顔。

 「お互いの利害が一致しそうですから、どうでしょう。今回は不問で良いと思いますが。内政干渉になりますか。」

 研究所の所長だった。

 隣室で様子を聞いていたらしい。

 「成果や結果にばかり目が行きがちでね。倫理も大切だが、やはり、根本にあるのは思いやりでありたいと、私は思います。」

 製薬会社だって利益を追求している。

 そのため売れる薬を作ることが至上命題の一つである。

 だがそれゆえにか、人に優しくという視点が欠落しがちなのが商業主義のよくない点だという話だ。

 下手な弁明をせず、素直に事の経緯を話したことはもとより、俺の「思いやり」に関していたく気に入ってもらったという状況である。

 重役たちも、研究所の所長がそう言うなら大ごとにはせず穏便に、という論調に推移していく。

 その研究所が大口顧客であるという事実もまた、俺に対して有利に働いた。

 結局、俺は簡単な始末書と誓約書で解放されることとなった。

 今回の件を反省していますという始末書と、機密文書の扱いには気を付けますという誓約書。

 それを書き終えるや、所長が俺の所にやってくる。

 「ところで昨晩のメールについて、ちょっといいかね!」


 昼夜を分かたず研究に没頭している研究者がいる、というのは都市伝説のようなものらしく、実際には就業規則に従って淡々と働いている場合がほとんどらしい。

 特許は先願主義のため、同じ内容で出願された場合、いちばん先に名乗り出た者に権利が与えられる。

 その点から言えばライバル社が似たような研究を行っているという情報が入ると、先に手柄を取られてしまうのではないかという心配をする場合はあるようだが、今回は俺という部外者、もっと言えば異物が関わっている影響もあってか、ライバル社のことは眼中にないらしい。

 それでも、遠方からわざわざ足を運んでくるということは、昨晩俺が送ったメールの内容をその日のうちに読んで、理解して、社用車か何かで飛んで来るほどに重要な何かを携えてきたということだろう。

 俺が機密事項流出の件で詫びようとすると、そんなことはどうでもいいとばかりに仕事モードに移行する所長の姿が印象的だ。

 さっそくノートパソコンを開き、おそらく研究所に居るであろう主任研究員とウェブ会議を設定する。

 待ってましたとばかりに、これまた知った顔が表示される。

 俺の方は会議室で端末もないため、所長のノートパソコンでウェブ会議の間借り人になる。


 主題は例のごとく小児癌の特効薬の件だ。

 専門的な用語が飛び交うなか、付け焼刃とはいえ俺も専門家の中で孤軍奮闘した。

 昨日のメールで、俺はレトロウィルスを利用する手段の提案をしていた。

 癌やエイズの原因とされるウィルスで、基本的には悪者である。

 こいつの性質を逆手にとって癌細胞に対して特異的に作用する仕組みというアイディアで、平たく言えば毒を以て毒を制する作戦である。

 下手をすれば生命の危機に直結しかねない薬を作ろうとしているわけだが、しかし対象者が末期癌であればどうだろうか。

 薬を使うかどうかにかかわらず、そのままでは早晩死に至る。ならば薬害によって落命するリスクは、もはやリスクのうちに入らないのではないか、という生命倫理への挑戦のような発想である。

 このアイディアを実現するための壁になる要素が一つあったのだが、奇跡的な偶然で、その要素を排除し得る物質が研究所にあるそうだ。

 つまり、今はまだ机上の空論だが、完全に突飛な俺のアイディアが、研究所の資産と組み合わさった場合に、文字通り奇跡の癌治療薬が生まれる可能性があるということが分かり、それで所長自らが駆けつけてきていたという寸法だ。

 終始興奮したような高いテンションのままウェブ会議は進行していき、ついに「では、その方向性で試薬を作ります」という、とりあえずのゴールが見えるところまでたどり着くことができた。

 ウェブ会議の終了後、俺は所長と握手をした。

 そして所長の口から出た言葉。

 「早ければ来月にも試薬は出来るでしょう。例の娘さん、紹介してもらえますか。」

 俺はドキリとした。

 そうだ、俺はかにかに14を勇気づけるために、この小児癌治療薬に関わっているという話をしたはずだ。

 なのに、いざそれが実現しそうになった段階で、急に怖くなってきた。

 飲んでも大丈夫なように加工したからといって、体に良いものだと分かっていたって、猛毒から出来た何かを好んで飲むような真似は誰もしない。

 ましてやそれを他人に勧めるなど。

 基礎になる素材の有害さについて中途半端な知識があるほどに、それを活用した薬という存在が恐ろしく思えてくる。

 どうせ死ぬなら飲んでみたら、という発想の薬である。それは間違いない。

 だが、名もなきいち患者がそれを飲むというのではなく、少なからず自身と関わりのある人間にそれを飲ませようというのである。

 怖い。

 震えがくる。

 無名の大勢に対しては無頓着なのに、たった一人の知人に対してと考えるだけで、吐きそうになるほど気持ちが悪くなってきた。眩暈が視界を歪ませる。

 俺はその場にうずくまり、二、三嘔吐した。

 目の前が暗くなる。力が入らない。だめだ。


 応接室の天井が見える。

 先代の社長が見栄をはって高級な和の意匠を取り入れて作ったのが応接室の特徴である。他の部屋はジプトーンの天井なのに応接室だけは網代天井になっているから、事情を知っている者にとっては場所を特定し易い。

 前後不覚の頭で応接室の天井をぼんやりと眺めていると、横から能天気な声が飛んできた。

 「飲みすぎですかー。先輩。」

 俺は声の方に視線をやる。後輩が傍らに座っていた。

 応接室には畳コーナーがあり、俺はそこに寝かされていた。

 会議室で倒れ込んだ俺は同僚何人かに抱えられて応接室まで運んでこられたらしい。

 産業医が様子を見に来て、事情を聞き、安静にしていれば大丈夫と判断してくれたそうだ。

 「先輩聞いて下さいよー。なんと私、有給使っちゃいましたー!」

 俺が倒れた事と有給休暇がどう結びつくのか、すぐには分からなかった。

 時計に目をやると、午後四時をまわっている。

 にもかかわず後輩は俺と一緒に応接室にいる。

 つまり後輩は俺を介抱するために有給休暇を取ったという事を言っているのだと、理解するためにしばらくの時間を要した。

 後から聞いた話では、後輩が俺の看病をすると言って聞かなかったところへ、有給を使って時間を確保するというのは俺の同期による入れ知恵らしい。病院へ連れて行くほどではないと医者が言っている、そうは言っても放置も出来ない。だから、と。

 「もったいないことしたな、有給。」

 後輩は少し俺の方に寄ってきて、横になっている俺の頬に手を当てながら言う。

 「もったいないことなんて、なんにもないです。」

 二人の唇が重なる。

 突然の行動に驚いたが、そういえばそういう間柄になったのだった。まだ実感は少なかった。

 「誰かのために本気になって、倒れちゃうまで悩むなんて、すごいです。」

 優しい声色。大方の事情は知らされているらしい。

 俺は上体を起こすと、あぐらをかいてとりあえずスマートフォンの画面をチェックした。

 幸いにも着信はなく、メールも広告メールが2通来ているだけで、俺が気を失っている間に取り立てて大きな事件は他に起きていないようだ。

 とりあえず目は覚めたものの、状況には特に変化がない。

 さっきのウェブ会議での話だと特効薬が出来そうな話だった。

 そして、それをかにかに14に飲ませるかどうかという所で俺が倒れてしまった。

 研究所の所長は、産業医が大丈夫だと判断したことを確認してから研究所に戻っていったそうだ。

 宿題は残されたままだ。

 俺は思わず「どうしたもんかな」と口に出してしまった。

 「話を伝えてみましょう。そこからですよ。」

 後輩の意見にハッとした。

 そうだ、決定権はそもそも俺にはなかったのだ。なのに俺が全責任を背負って、少女一人の生涯を左右するような重大なる決断をしようとしていた、それ自体が非常に不自然なことなのだ。

 そう気付かされて、不意に肩の荷が下りたような感じがした。

 そうだ、薬の完成にも目途が立ったし、それを使うかどうかは当事者が決めれば良いことだ。

 俺は再び畳に仰向けに倒れ込んで、大きくため息をついた。

 そして得も言われぬ幸福感が沸き上がってきた。

 薬の開発が一段落し、恋人が出来て、その恋人が俺の心配事を理解して解決の糸口をくれた。

 これが幸せってやつか。

 同時に、所長の発言が思い出された。利害が一致しそうだというくだり、最初からかにかに14に薬を飲ませる前提の話をしていたのだ。やはり面識のない第三者であるか否かは大きな事実なのだろうと勝手に納得することに決めた。


 外されていたネクタイと上着を整え、俺はオフィスに戻った。

 上長は不安そうな面持ちだったものの、俺の様子を見て安心した様子だった。

 有給休暇を取った後輩は、一足先に帰宅した。

 俺も仕事をしようと思ったが、とりあえず今日はもう帰るように促されて家路につくことになった。

 そんな事なら後輩と一緒に帰ったら良かったとも思ったが、しかし宿題を終わらせることを考えなければならない。

 俺はゲームセンターに寄った。

 営業中で珍しく先客が居た。

 スマートフォンで動画を撮影しているのが一人と、実際にゲームをしているのが一人。二人組で動画撮影をしている様子だったので、邪魔をしないように気を付けながらカウンターにいる店員に声をかける。

 いつも立ち寄っていた時間とは違うので少し驚いた様子だったが、俺は単刀直入に聞くことにした。

 製薬会社にメッセージを送ったことで俺が大変な目に遭ったことも含めて、薬が完成したら飲んでみるかという所まで全てを話した。

 俺が大変な目に遭った件については実は話す必要はなかったが、ちょっとした意趣返しであると同時に、ある種自分への戒めでもある。

 最初のうちは店員は平謝りであったが、薬のくだりになると目の色を変えた。

 俺は薬の元になるのが危険なウィルスであることなども含めて事実をなるべく公平に伝えた。リスクもベネフィットも、一通りの事をありのままに伝えたつもりだ。

 最終的にはぜひお願いしますという事になった。それはそうだ、そのつもりで製薬会社にメッセージを送ったのだから。

 ただ、俺としては責務を果たしたような気分である。

 最後に、あまり口外しないように釘を刺しておいた。

 そして久しぶりに例のゲーム機を触ってやろうという気になった。

 俺からのメッセージを入力しておいてやれば、かにかに14が戻ってきた時の楽しみが増えるだろうと思った。

 カードと百円玉を入れると、新着メッセージ1と表示される。

 日時は、ショッピングモールで会うという約束を取り付けた日の夜だ。

 「お会いできるの楽しみです。ちょっと外見には自信がないけど、がっかりしないで下さいね。」

 返信として俺は「おかえり」とだけ入力して、ゲームを終えた。

 俺がゲームを終えると、物珍しそうに動画撮影の二人が例のゲーム機を取り囲んでいる。一人は金髪、もう一人は紫色に頭髪を染めた二人組で、いかにも軽そうなのりでわいわいやっている。

 サービスが終了したゲーム機がいまさら動画のネタになるとも思えないが、店員によれば月に一度程度来店しては、こうやって動画撮影をしている顔見知りらしい。ああ見えて実際は礼儀正しい連中だそうで、動画を見て来店する客もいるらしいから助かっているそうだ。チャンネル登録者数が何万人もいるそうで、その界隈では影響が大きいらしく、またこの店の動画は人気コンテンツになっているらしいが、店員にはその辺りの実感はないという。

 人を外見で判断してはいけない好例を見せられているようだ。

 店員と俺とは彼らの撮影の合間に話していたので、彼らの耳にも癌治療薬というワードは聞こえてきているはずだが、当然と言えば当然だが特に何のリアクションもないまま、俺はゲームセンターを出た。


 ゲームセンターの前には、買い物帰りの後輩がいた。タイミング的には待ち伏せされていたように思えなくもないが、多分偶然だろう。

 私服に着替えておりいつもとは雰囲気がまた異なる。

 体のことを気遣ってくれたかと思えば、全快祝いに飲みに行くという発想が出る辺り、本当に自由奔放で時々羨ましくもなる。買い物袋の中には夕飯の材料が入っているらしい。実家暮らしなので急な外食は出来ないと、聞いてもいない質問に答えてくる。

 生ものでも入っていたらいけないと思いつつ、少し一緒に歩くことにした。

 後輩曰く、あのゲームセンターの娘については小さい頃から知っていて、面識もあるという。

 商店街のイベントでは子どもながらに親の手伝いをしていたりして、元気のいい活発な女の子で近所からの評判も良かったそうな。

 俺は仕事の関係でこの土地に来たから、そういう事情については疎い。地元民ならではの情報に興味深く耳を傾けていると、最近姿を見ないのは思春期だからだと思っていたが、病気だったとは知らなかったという話になる。

 ただの世間話でも、今までとは深度が異なる気がした。

 「今度の休みは、どこか行こうか。」

 後輩は嬉しそうに、候補地をいくつも挙げる。

 やがて名残惜しそうに分かれてから、俺は自宅アパートに帰る。

 これまで抱えていた諸々が全て上手く行っているようで、晴れ晴れとした気分だ。


 数日が経過して、娘が退院して家に戻ってきた事を知った。

 俺は連絡先を店員に渡していたので、改めて娘に会ってくれないかと連絡が来た。

 あいにく、次の休みは後輩とのデートの予定だったが、どうにか調整できないだろうかと後輩に相談したら一緒に来ることで落ち着いた。

 会うのは当初予定をしていたショッピングモールのフードコートだ。

 デートの行先を決められないと嘆いていた後輩が、いつも利用するショッピングモールが行先だと分かったら不機嫌にでもなるかと少し心配したが、独りでフードコートは利用しないし、両親と一緒だとフードコートは利用しないから、むしろ楽しみだと言ってきた。

 俺だったら地元のショッピングモールのフードコートだと、どんな知り合いに出くわすか分かったものではないから遠慮したいと考えるだろうが、なるほど、そういうこともあるのかと妙に納得してしまった。

 当日、俺はラフな格好で家を出た。

 俺のアパートと後輩の家、そして目的地のショッピングモールで構成される細長い三角形の、重心より少し後輩の家に寄った辺りにある公園で待ち合わせをして、一緒に歩いて行くことにしていた。

 公園といっても区画整理で整備された小さな公園で、今では遊んでいる子どもを見ることがあまりなく、地面には海苔のようなものが繁茂していて、正直あまり清潔感は感じられない公園である。

 大通りから少し入ったところにあるので静かで良いのは間違いないし、子どもの遊び場として考えたら交通量が多くないのは安全性の面で良さそうではある。

 その公園が視界に入った頃、既に公園には先客があるのが見えた。

 待ち合わせの時間にはまだ十五分ほどある。

 信号のタイミングに恵まれて、思ったよりずいぶん早く着いてしまったと思ったが、そこにあったのは後輩の姿だった。

 いかにもな余所行きの出で立ちに、普段より数段階きつめの化粧。真っ赤な口紅は映画でしか見たことがないレベルで、かなり気合を入れて準備してきたことが伺える。

 対して俺は普段着。

 タンクトップにハーフパンツ、のようなラフさではないものの、後輩の気合の入れ様に比べると恥ずかしくなるぐらいの普段着だ。

 自身の恰好があまりにラフである点に一言詫びを入れつつ、それは特に問題ではないという回答をもらって、俺たちはショッピングモールの方に歩いていく。

 徒歩にしておよそ十五分ほどの距離。

 他愛のない話をしながら歩いているとあっという間に着いてしまう距離。

 今度は二人でどこに行こうか、先日招待された温泉旅館が良かったけど、値段が分からないなどと話をしているうちに、フードコートに着いてしまった。

 そうだ、あの高級な料理もこいつと一緒だったら楽しめただろう。


 ランチタイムには早いが、日曜日のフードコートに空席は少ない。

 フードコートのどの辺りで、という相談はしていないから、ざっと見渡して店員と娘の姿が無いことを確認しつつ、四人がけテーブルを一ヶ所見つけたので占拠する。

 二人はソファ席、もう二人は椅子。俺たちは椅子の方に横並びで席に着いた。

 後輩は早速、どの店で何を食べるかの算段を始める。

 両親と一緒だと食材を買って帰って自宅で食事をすることになるので、フードコートはかえって新鮮なのだということは以前にも聞いていたが、それに加えて新しい情報も聞くことができた。後輩の母親が食育に力を入れており、それ自体は問題ないと思うのだが、やれ人工甘味料がどうの、保存料がどうのと気にし始めるようになり、最近では外食がほぼ無くなってしまったそうだ。

 今ではオーガニック栽培の野菜を中心に、健康食品の見本市のような食生活らしい。

 一週間のうちにカップラーメンを食べない日が何日あるか分からない俺とは真逆と言える食生活だ。

 だが、それが理由なのだと思う。後輩が何か食べる時に実に美味しそうに食べるのは。

 体に良くないものはだいたい美味いとか聞くが皮肉な話だ。

 健康という価値と、美食という価値。どちらに重きを置きすぎても良くないのかも知れない。要はバランスだ。

 それを踏まえて見れば、フードコートは後輩にとっての憧れの場所であると言える。

 いわゆるB級グルメと称されるような飲食店が軒を連ねている。健康至上主義者から見れば絶対に関わってはならぬエリアであろう。

 「あっ、お姉ちゃん。」

 声の方を見ると、かにかに14の姿があった。

 「おー。久しぶりだねえ。」

 面識があるというのは本当らしい。背が伸びたことには言及するが、俺にとっての相変わらず出で立ち、つまりグレーのニット帽や痩せ細った四肢についての話題には上手に触れない辺り、ただの能天気なやつではないことが分かる。

 付き添いの店員とも面識はあるそうで、軽く挨拶をしてから四人でテーブルを囲む。

 店員はてっきり俺一人で来るものだとばかり思っていたらしく、最初は意外そうな表情を浮かべたが、後輩が娘の知った顔である点も含めて特に問題はない様子に戻った。


 再会を喜び、双方の近況などの話を終えると、とりあえず何か食べるものを調達してこようという話になる。

 娘は久しぶりに会った後輩と一緒に食事をすることが嬉しそうだった。

 想像の域を出ないが、入院中は独り淋しく病室で食事を摂り、退院してきても家からあまり出ずに父親と二人での食事が基本なのだろうから、こうして普段顔を見ない相手と食事をするのはきっと楽しい事なのだろう。

 俺は独りでテーブルを守っておくことにして、先に三人を買いに行かせる。

 食事制限などは無いのだろうか、あまり量を食べられないのかもな、などと色々考えていると、店員が先に戻ってきた。

 手にはアラームの機械を持っている。料理の準備が出たら鳴動して取りに来いと知らせるアレだ。

 俺はこのタイミングで店員に聞いてみた。食事制限などについて。

 答えはシンプルだった。

 特に嫌いな食べ物はないし、アレルギーもない。体に良いものを食べるのが望ましいのは当然としても、しかし余命宣告をされた体にとって、健康に良いものを食べるよりはむしろ自分が食べたいものを制限なく食べることの方が精神衛生上よろしいらしい。

 幸いにも五感には影響が出ていないので、食の楽しみは奪われていないそうだ。

 俺はそれを聞いて少し安堵した。

 自分以外の他の三人が美味しそうなものを食べている中、健康食品のような味気ない何かしか食べることが許されていないとしたら、それはあまりにも気の毒すぎると思っていたからだ。

 そんな話をしているとアラームが鳴り、店員は注文した料理を取りに行った。

 入れ替わりのようなタイミングでお嬢二人が席に戻ってくる。

 手にはアイスクリームとクレープ、それに炭酸飲料のグラスが載せられたトレイがあった。

 「俺の知っている順序とは少々異なりますが?」

 「先に別腹!」

 名言だ。娘も笑顔で同意している。

 実際のところは胃袋の容量の都合でなかなかデザートまで辿り着かないという娘の言葉に気を利かせた後輩が選んだものだったそうだ。

 そこへ店員も戻ってくる。

 ラーメンというチョイスは俺も考えていたところだ。

 実家にいる間、日曜日の昼食といえば麺類が多かったから、何となく休日の昼はラーメンにしようと未だに思うのは刷り込みだろうか。

 店員もまた、娘たちがいきなりデザートから食べ始めるのに驚いた様子で、俺はそんな様子を横目で見つつ席を立った。

 ラーメンにしようと思っていたが、何となく誰かと被るのは面白くない。さりとて昼間からステーキなどという気分でもない。

 オムライスやスパゲティはお嬢二人が選びそうだという先入観もあり、結局俺が選んだのがフライドチキンだ。

 あまり待たずに購入できるのも魅力だ。

 俺がトレイを持って席に戻ってくると、娘が頭を抱えて苦しんでいる。

 もしや病状が悪化でもしたのかと思ったが、冷たいものを急に食べたことに起因する頭痛だと聞いて安心した。

 アイスクリームとクレープを平らげると、お嬢二人はまた席を立ってメインディッシュの調達に向かった。

 「娘さん、楽しそうですね。」

 店員は一瞬、ラーメンを食べる手をとめて、俺に同意してくれた。

 そして続けて俺は聞いた。

 「薬の件、娘さんには?」

 どうやら店員も、俺が関わっている治療薬に関しては充分に娘に伝えられずにいるらしい。

 特効薬として絶対に治るという保証でもあれば無遠慮に伝えるのだろうが、今回の件は言うなれば実験台だ。

 癌細胞に作用する仕組みなどは従来のものと大差ない。今回の件が特徴的なのはその効力の高いことと、その高威力をピンポイントで癌細胞のみに集中させるという点に尽きる。癌細胞までの誘導に失敗すれば治療薬は正常な細胞にも牙を剥き、それが直接的な死因にさえなりかねないという厄介な特徴も併せ持っている。

 一種の賭けみたいなものであり、店員が娘に伝えられずにいるのは、下手に薬のベネフィットが強く伝わってしまった場合の落差を恐れた結果でもある。


 俺はどのように伝えたものか考えあぐねていたところへ、研究所の所長から電話連絡があった。

 試薬が完成して、明日から治験の申請を行うという内容だった。

 前々から治験に移行することは役所の担当者とも話をしていたらしく、スムーズに行けば一ヶ月程度で治験を始められるように段取りを組んでいくということだった。

 ここまで来れば何にも遠慮はいらない。

 先日のウェブ会議で、各種の実験や検証を終えて最終的に人間で安全性を確認するために行うのが治験だと聞いていたので、ここまで来たということは薬の安全性について一定レベルが担保されていると考えることが出来そうだ。

 それにしても研究所の所長は、日曜日も働いているのか。

 それぞれにオムライスを携えて戻ってきたお嬢二人が食べ終えるのを待って、俺は娘に薬のことを伝えることにした。

 縁あって、いちサラリーマンのはずの俺が薬の研究に関わっていること。

 その会社では小児癌に対する治療薬を開発していて、その試作品が出来たこと。

 まだ完全に薬の有用性・安全性が確認されていないので、先行して誰かが試す必要があること。

 これまでのデータからするとリスクは高いが、同時に効果も高いと思われること。

 早ければ一ヶ月ほどで治験が始まる見込みであること。

 そして、この話を他でしないこと。

 一通りの話を、娘は俺の目から視線を外すことなく真剣そのものの眼差しで聞いていた。

 娘は少し考えてから、こう言った。

 「つまり、新しい薬の実験台ってことですね。どうせ死ぬんだから試してみろって。」

 ちゃんと伝わっているらしい。なかなかの理解力だ。だが、俺がどう回避するか悩んだ言葉を遠慮なく用いる辺り、娘の開き直りとも考えられる。とはいえ、さすがにそういう言い方をされて「はいそうです」と返すわけにもいかず、俺は回答に窮してしまった。

 「そういう言い方はダメ。先輩困ってるじゃない。」

 助け舟は後輩から出された。

 「あなたのために本気で考えてくれているの。倒れるまで、ね?」

 俺の方を見て後輩が目配せをする。

 「倒れたは余計だ。」

 娘はしばし黙り込んで、言葉を探していた。

 「うまく言えない、です。けど、ありがとうございます。受けてみます。」

 後から聞いたら、この時はちょっと意地の悪い言い方をしてみたかっただけのようだ。

 それから少し世間話をして、しかしあまり長い時間を費やすのは娘の体力的に難しいらしく、それでも二回目のデザートを平らげてからお開きとなった。たしかにあんなに痩せた体では長時間の外出は大変だろう。

 あとに取り残された俺たちは、とりあえず四人分の食器類を店舗に返却してから、せっかくだからショッピングモールの中を歩くことにした。

 俺は何か具体的な目的が無ければ、こんなに人の多いところを訪れることはしない。特定の何かを買うとか、そういう事情が無ければ。そして目的を達成することを第一に考えて、完了後は速やかに人混みから退避するのが基本だった。

 今日だってそうだ。特に買うものを心に決めてきたわけではない。

 だから普段の俺なら目的を達成した今、これ以上この場に留まる選択肢はない。

 しかし今日は俺「たち」であり、今までとは趣が異なる。

 独りなら絶対に入らないテナントで雑貨を見たり、それこそショッピングモールの端から端まで全店を制覇するんじゃなかろうかと心配になるぐらいに歩き回った。

 そしてペアのマグカップを買って、それぞれが片割れを持ち帰ることになり、その日はお開きになった。

 相変わらず、独特な感性を持っているのがにじみ出てくるデザインのマグカップ。

 やはり俺独りでは絶対に選ばない類のデザインであり、そしてこういう変化は嬉しいものだ。


 それから一週間ほどは平穏な日が続いた。

 俺は元の業務に戻りつつ、時折やってくる研究所からのメールに対応するという生活で、それに付け加えて昇進の話が具体的になってきている。

 業績を上げたのは確かだが、そんなラッキーに頼った昇進は、正直なところいかがなものかと思っているのだが。

 そんな俺をよそに、上長たちは管理職予備軍の俺に対して、今までは出てこなかった話をし始めている。やれ部下の教育がどうのとか、営業成績を上げるための云々。

 例の守銭奴オヤジは別の生贄を気に入ったらしく、またそいつはそいつであしらう術を身に着けつつあるようで、俺が担当に復帰することは無さそうで何よりだ。

 実家住まいの後輩とは相変わらずで、終業後の自由時間はあまりないのでランチを一緒に食べるようになった。俺たちが付き合っているという事について同僚たちには特に何も言っていないが、うすうす感づいているのではないかという雰囲気は感じている。秘密にしなければならない事情はないが、かといって公言するような事でもないと思う。

 俺は俺で終業後はゲームセンターに寄って店員と話をしたりしている。娘は相変わらず体調がすぐれないということで、毎日二階で横になっているという。ショッピングモールの時以来顔を見ていないが、店員によれば容体は安定しており、相応に元気だそうだ。俺が来た日の夜にはどんな話をしたかを伝えているという。見ようによっては階下に降りてくる力もなくなってしまったようにも受け取れるが、その辺りの事情は分からない。

 研究所からは一週間もあれば試薬が出来るという話だったが、土曜日の夜には試薬完成の一報が入った。週明けにも治験の申請を行うそうだ。

 正式な申請は週明けだが、実際には研究所と役所それぞれの担当者レベルで既にある程度の話は伝わっており、開始の合図を待つばかりになっているらしい。

 週末は後輩と一緒に出掛けて、何もかもが順調に進んでいるように思われた。

 翌週、さっそく治験の開始を申請し、問題がなければ一ヶ月程度で治験を開始できる見込みだと連絡があった。審査会のようなものがすぐに開催されるそうで、早ければ週末までにおおよその方向性が決まるそうだ。もっとも役所のやることだから、一ヶ月かかると言われているのだからきっと一ヶ月はかかるのだろう。研究所の側でも入院から実際の治験に向けての準備に入ったようだ。


 木曜日の昼前頃の一報で、事態に変化が起こった。

 審査会が新薬の治験を認めなかったという。

 平たく言えば前例のない手法、つまり俺が提案した部分について、安全性が担保できないというのが重大かつ唯一の理由だった。

 もちろん研究所のスタッフも十分に実験をしたし、確かにリスクが大きいことは間違いないが、それを言いだしたらそもそも劇薬など人体に用いることが出来ない。

 国の立場としては危険性を可能な限り排除したいという意向なのだろうし、そうでなければ審査の意味もない。

 だが、事態は一刻を争う。

 別の実験を繰り返して安全性を確認して、納得のいくようなデータを集めるには早くても一年はかかるそうだ。

 余命一年と知ってから、既に半年ほどが経過している。

 いくら医学が進歩したからって、一年経過すれば即座に死ぬものでもない。一年未満だったり、二年も三年も存命しているケースだってある。

 それでも、残り半年というのが具体的なタイムリミットであり、本人はもちろん俺や店員にだって、明確に示されている文字通りのデッドラインなのだ。

 研究所も八方手を尽くしてくれた。治験を受ける具体的な対象、つまりゲームセンターの娘の意向や病状についても詳細に報告し、時間的な余裕が無いことも説明した。それでもなお、治験は認められなかった。

 暗雲が立ち込めるというような生易しいものではない。

 俺は茫然自失のまま、形容し難い喪失感、どこに向けて良いものか定かではない漠然とした怒り、そしてやるせなさ、それらが入り混じったどす黒い何かに心を支配されてしまった。

 電話を切ってから、俺はしばらく何も手につかなかった。

 電話の相手が研究所であることを同僚も理解していたから、俺の様子から上手くいかなかったらしいという様子は手に取るように分かったことだろう。

 誰も俺に話しかけることなどできない雰囲気であったが、その時の俺にとっては好都合と言おうか、たぶんどう声を掛けられたところでまともに受け答えが出来なかったに違いない。

 なんてこった。ここにきて、ここまできて。ここまで、来たのに。


 しばし茫然としてから、俺は上長に外の空気を吸ってくるとだけ伝えて会社を出た。

 ほんに一時間ほど前まであれだけ輝いて見えた世界が、もはやどうでもいい陳腐で醜悪な物体の集合体のように見える。

 もしかにかに14の関係が無かったら、俺は「残念ですが仕方ないですね。またデータ検証して、再度申請したら良いじゃないですか。」と言ってのけただろう。

 会社の裏手にある路地を抜けた先に、ほとんど人が来ない公園がある。

 自動販売機で缶コーヒーを買って一口飲んだところで、無性に腹立たしく思えて、まだ八割がた残っている缶コーヒーを思い切り地面に叩きつけた。

 鈍い音がして、中身のコーヒーを撒き散らしながら転がっていったコーヒーの缶。

 「いつもの私なら、よっぽどコーヒーがまずかったんですね、って言いますけど!」

 背後から鋭い声がした。

 「そんな、物にあたるなんて格好悪いこと、しないでください。」

 振り返った先には後輩の姿があった。

 後輩はゆっくりと俺に近づきながら鞄からハンカチを出して、飛び散ったコーヒーで汚れたスーツを拭ってくれた。

 「申請が、だめだったんですか?」

 「ああ。」

 俺はその場で膝から崩れ落ちた。

 「まだゴーサインは出せないって。あの子が、間に合わない。」

 人目もはばからず涙を流す俺に、後輩はしばらくの間何も言わず寄り添ってくれていた。

 少し気分が落ち着いてから、公園のベンチに座りなおすと、後輩が提案してくれた。

 「どんな結果であっても、まずは報告に行くべきじゃないですか。ホウレンソウですよ。」

 そうだ、基本中の基本、報告・連絡・相談の第一歩を踏み出さなければ。いかにつらい報告だとしても。

 ゲームセンターに向かう前に、俺はいったん会社に戻って研究所に連絡した。

 とりあえずダメだったという一報は聞いた。

 だが、この件を店員に伝えれば、きっとその後の展開について尋ねてくるはずだ。

 その点を確認しておかなければ子どもの使いと変わらない。

 俺は研究所に電話をして、今後の展望について事細かに質問した。

 それらをメモして、クライアントに見せるならパソコンで清書してプリントアウトするのだが、そういう相手でもないし、今はその時間が惜しい。

 「急いで報告に行ってきます。」

 ちなみにこの段階で会社はかにかに14の存在を知らず、俺が誰に報告に行くものかを理解していなかったが、それを会社に説明してくれたのが後輩であったことは後から聞いた。


 ゲームセンターに着くと、例の動画撮影二人組が何やらやっている。

 いつもなら静かに邪魔しないようにと心がけるのだが、あいにくカウンターは無人だったので、遠慮なく「すみません!」と店員を呼び立てる。二人組は撮影の邪魔というか、余分なノイズが入ったので怪訝そうな表情でこちらに視線を送ってきたが、今は相手をしている暇がない。

 二階から階段を下りる音が聞こえて、店員が姿を見せた。

 「お知らせしなければ、ならない事が、あります。」

 走ってきたので息が整う前の途切れ途切れの言葉とその雰囲気から、店員は表情を険しくした。

 何から伝えるべきかを考えて、要点・論点を明確にして相手に伝えるといった気配りは出来なかった。

 まずは治験の開始が遅れるということ、期間は早くて一年以上先になりそうだということを伝えると、店員の表情が曇る。

 幾度かの質問と回答の応酬の後、俺は会社に戻ることにした。

 これ以上、この空間にいることがいたたまれないと思ったのもあるが、何とか治験の開始を認めてもらうために何が出来るか、それを考えたいから居ても立ってもいられなくなったのもある。

 会社に戻り、緊急会議が行われた。

 もちろんその場に居て時間のあるメンバーが集まって意見を出し合う場なのだが、当然と言おうか、まともな意見などが出ようはずもない。ましてや治験の申請の内側など皆目見当がつかない。

 外国に情報を提供して、現地の法律でという話も出たが、特許が絡んでくるとそう簡単には行かないだろう。

 唯一、俺たちで実現が可能であろう手段の一つにたどり着くことができた。

 署名運動だ。

 従業員とその家族、親戚、同業者に出入り業者も合わせれば数百人ぐらいは集まりそうだ。

 もっと多くの、それこそ何万人、何十万人の署名が集まればいいのだが、さすがにそれは実現させる道筋が見えないし時間的な余裕もない。

 だが今の俺に出来る精一杯をやりたい。後悔をしたくない。

 俺は社長に直談判に行った。

 普段は来客やら何やらでなかなかつかまらない社長が、この日はあっさりとつかまった。

 就職時の面談、それから入社式。それぐらいしか接点が無かった社長だから雲の上の人のようなもので、普段だったらそもそもが会いに行く気さえ起きない相手。

 人物像も分からず、そしていきなり本来の業務とは異なる作業の提案をしてくる部下の部下の部下を、果たしてどう思うだろうか、という心配は不思議と生まれなかった。


 社長室に入ると、ちょうど社長は電話をしており、うん、うん、と電話の相手に返答をしつつ俺に「そこに座って待っていなさい」というようなジェスチャーをしてくる。

 やがて電話が終わり、こちらへ来る社長に対して俺は立ち上がり、深々と首を垂れる。

 「お忙しいところすみません!」

 俺が説明しようとしたところを、社長が遮った。

 「今しがた常務から連絡がありました。署名運動、結構なことです。」

 俺は目を丸くした。たぶん会議の出席者から上長へ、そのまた上役へと、話が伝わったのだろう。

 「人の命に関わる重大な業務だから、しっかりやりなさい。」

 かくしてかにかに14のための署名運動が開始されることとなった。

 まずは会社の方針として、署名に協力するよう通達が出された。

 こういうのは早い方が良いからと、提出の期限は一週間内とされた。

 イントラネットに署名用紙のダウンロードフォームが作られ、関係者であれば誰でも署名に参加できるように配慮された。

 俺はとにかく社内の同僚、上司に直接説明をして、社内・社外を問わず広く協力してもらえるようお願いをしてまわった。

 一通りの同僚は知っているつもりだったが、初めて会話するような相手も多く、意外と規模の大きい会社なのだと改めて実感することができたのは望外の収穫やも知れない。

 各部署を一通りまわって自分のデスクに戻ってきたら、もう夜の七時だ。

 さすがに私用で残業とするわけにもいかないと思い上長にその旨を相談しに行くと、社長命令に従って業務に従事していたのだからサービス残業は認められないとか抜かしやがった。いつからホワイト企業気取りなんだと心の中では冷笑しつつ、有り難く残業代も頂戴することにした。

 総務課のお局さん曰く、集まる署名は多くて千人分ぐらいだろうという見立てだった。

 以前、会社近くでリトルリーグのチームが些細なトラブルから地区大会への出場権を剥奪される、という出来事があり、その時に会社で署名に協力したことがあったそうだ。さすがに社長は関わっていなかったものの、社員の大半が協力的であり、それでも集まったのが四百人程度の署名だったという。

 今回は人命に関わること、社長が理解して進めていることも考慮して、千人程度ということだった。

 ちなみにこのお局さんは一部では毛嫌いされているが、職務に対して実直に取り組みすぎる節があるだけで、根は真面目で器量の良い女性であると俺は見ている。もうウン十年若ければと思える程度には、俺は彼女を実際より低く見てはいないという自身がある。

 それはさておき、せいぜい集まっても千人程度だとして、どれぐらいの効果があるのだろうか。

 法的にも根拠のある審査会と、烏合の衆にも等しい署名。

 マンション建設反対運動などが話題に上ることがあるが、あれは法的に根拠があり、合法的に事を進めようとしているのに、周辺住民が個人的な感情を根拠にマンションを建てるなと言っているだけだと、俺は考えている。

 昨今では違法建築も出来ないよう法整備がなされているらしいし、合法的に物事を進めるのにそれでもなお周辺住民への説明会が開かれるのが、逆に理解ができない。「法律に基づいて合法的にマンションを建てます。周辺の安全には気を付けます。」というチラシでも配布すれば本来はそれ以上何の文句も言えないのではないか。

 当事者になったことはなかったが、常々そのように考えてきた俺だからこそ、署名運動に関しては大いに疑問符が付くという立場であった。

 今回の件だってそうだ。危ないからもっと実験をしてデータを積み重ねてくださいという判断の、どこに誤りがあろうか。それをかにかに14という存在、それにまつわる人々の感情だけで捻じ曲げようとしているだけなのではないか。

 もし俺がかにかに14と直接的な接点が無ければそう考えただろうし、社長からの勅命という背景でもなければ、署名そのものを断っただろう。

 今や俺は、少し前まで全くあてにしてこなかった署名という細い細い希望の糸にすがりつくより他に道はないとさえ思っている。そのことが気に食わないが、事実だから仕方ない。

 人の心というのは実にややこしい。

 俺は帰りにゲームセンターに立ち寄ったが、シャッターは閉まっていた。

 閉店時刻よりは少し早いはずだが、臨時休業ではなさそうだし二階には照明が灯っている。

 客がいないから早めに閉めたのかも知れない。

 署名運動を始めましたという事を伝えたかったので、俺は名刺の裏にメッセージを書いて郵便受けに入れておいた。

 一週間後に報告に来ます、と。


 一週間が経過し、俺は各部署から集められた署名をカウントする作業に追われていた。

 独りで作業するつもりだったが後輩と、何故だか総務のお局さんまでもが協力的だ。

 やはり悪い人ではないと確信した。いわゆる適齢期とされる年齢はずいぶん過ぎているのだろうが、今からでも良いお相手が見つかれば良いのにな、と思う。言わないけど。

 全部で千飛んで五人分の署名が集まった。

 ほら私の言った通り、とばかりにお局さんは納得の表情だ。

 四桁の大台に乗ったとはいえ、角2サイズの封筒に収まる程度の厚みは、いかにも心許ない。

 それでも、やらずに後悔するよりは良い。

 俺はその署名の結果を携えて後輩とともにゲームセンターに向かう。

 金曜日の夕刻ということもあってか、途中にある居酒屋はそこそこ繁盛している様子だった。

 そういえばあの夜、小籠包を食べた日以降酒を口にしていない。

 この件が落ち着いたら、ちょっと良いものでも食べに行こうという話をしているうちにゲームセンターに着く。

 店員は機械のメンテナンスをしていた。他に客は誰もいない。

 俺は店員に署名が集まったことを伝えた。

 店員は何度もお礼を言ってくれた。

 研究所には署名を集めていることを連絡していたので、週明けにも署名を持って直訴に向かう予定であることも伝えた。

 封筒を店員に手渡すと、目に涙を浮かべているので俺も何も言えなくなる。

 俺はちょっと話題を変えてみることにした。

 「あのゲーム、見たことない機械ですね。」

 さっきまで店員が作業をしていた機械を指さしてそう言うと、店員が続ける。

 「いつも動画を取りに来る二人、分かります?あの二人からのリクエストでね。今日の夕方に来るからぜひ用意しておいてくれって。いつもはそんな事は言わない子たちなんだけど。」

 見た感じ、最新のゲーム機ではなさそうだが、俺も詳しい方ではないので詳細はもちろん不明だ。

 しかし、動画を作るとかそういうのは抜きにしても、自分たちのリクエストに応えてゲーム機を準備してくれるようなゲームセンターがあるというのは、きっと楽しいことだろうな。

 そんな話をしているところへ、台車の音が近づいてくる。運送業で荷物を運ぶ時に使うあれだ。

 「すみませーん。あっ。」

 例の二人組だが、入口の段差に引っかかって台車が通れずにいる。

 台車は俺も仕事でよく使うので、台車の縁を踏んで段差を越えるようにする技ぐらいは身に着けているが、彼らはそういった経験がないらしく、手前の方を人力で持ち上げている。

 「お待たせしました。」

 二人組の片割れ、リーダー的な紫色の髪の男が段ボール箱を開けて、中身を取り出して店員に手渡す。

 台車からはみ出すぐらいに大きな段ボール箱が二つ。

 何かと思って傍観していると、彼の口から驚くべき言葉が飛び出した。

 「署名、二百万人分です。」

 「約、な。」

 金髪がすかさずツッコミを入れているが、正直それはどうでもよくなる話だった。

 そういえばこいつらは、俺が店員と癌の治療薬の話をしている時、そして治験が認められないと分かった時の二度、この場に居合わせていた。

 俺が署名運動を始めたことを名刺の裏に書いた日の翌日、たまたま来店した彼らは、店員に事情を聞いて、それならば俺たちもと動いてくれたらしい。

 実際にはもっと集められたようだが、今日俺たちが来るこのタイミングを見計らって、いったん持って来ることにしていたのだという。

 それにしても二百万人分の署名とは恐れ入った。これが登録者数何万人という動画投稿者の実力なのだろうか。

 ちなみにインターネットを介しているため電子的なデータばかりだが、やはり署名といえば書面ベースだろうということで、わざわざ印刷してきたという。どこまでも面白いやつらだ。


 この、約二百万飛んで千人分の署名は研究所から審査会に提出された。

 さらに動画のチャンネル登録者の中にマスコミの関係者もいたようで、ワイドショーなどでも大々的に取り上げられた。

 果たして審査会は、当初の決定を覆すことを表明した。


 およそ一ヶ月後。

 準備万端整って、ついに治験が開始されることになった。

 この一ヶ月ほどの間、娘の容体には大きな変化は見られず安定していたらしい。

 特に大きな問題もなく入院して投薬を始める段取りがついた。

 俺は後輩とともに、病院を訪れた。

 いざ治験が始まれば面会は叶わないだろうから、入院の時に会って何か言ってやろうと思ったが、いざとなったら何と声をかけて良いものか悩ましい。

 誤算だったのは、飲み薬だと思っていたのが実際には点滴で投与するということだ。

 俺は点滴の経験もないから、点滴といえばかなり重大な医療行為であると思っている。

 だから手術はもちろん、点滴ですらも必要のない手軽な飲み薬として研究に携わっていた。

 研究所もその認識だったが、審査会が許可を出すいくつかの条件の一つがこの点滴を用いた手法での投与だったそうだ。やはり経口摂取だと色々と影響が読めない部分があるらしい。

 店員が別室で手続きをしている間、俺と後輩、それに娘の三人で病室にいた。

 「いよいよだねえ。頑張って。」

 「私は寝てるだけだから大丈夫。」

 これから文字通り生死をかけた治験に臨むというのに、悲壮感はなかった。

 研究所の所長曰く、画期的な新薬が完成したという認識らしい。

 詳しい原理については俺も理解は出来ていないが、その完成に少しでも寄与できたのなら光栄なことだ。

 一つ気がかりなのは、治療にどれぐらいの期間を要するのか分からないという点だという。

 各種の実験でも、癌細胞はほぼ完全に死滅させることができたが、ただ、それに要する時間に大きなばらつきがあるのが心配の種らしい。

 実験では所要時間には最大で八倍程度の差が生まれ、それがどのような条件に基づくものなのかは分かっていない。この点も審査会が当初NGを出した根拠の一つではあるそうだ。

 裏を返せば時間さえかければいずれ癌細胞は死滅する。

 安全性については試してみなければ分からないが、雨が降ったら窪んだ場所に水たまりが出来るようなもので、つまりいちど全身に薬は行き届くが、すぐに癌細胞の所にだけ薬効が集中する仕組みになっているので、強力な薬に晒されても短時間くらいならば健康な細胞は問題ないだろうと考えている。それを確認するための治験でもある。

 そして何より、座して死を待つのではなく、リスクを承知のうえで可能性に賭けることは素晴らしいことだという思いが強い。

 やがて店員が病室に戻ってきて、手続きが終わったことを告げられた。

 俺たちはもう退室しなければならなかった。

 「私、またクレープとアイス食べたい。」

 「元気になったらまた行こうね。約束。」

 病気を克服するための行為のはずだが、病院からの帰り道で俺たちは、少し泣いた。


 治験が始まってすぐ、娘は昏睡状態になったと連絡があった。

 ただし研究所からは想定されるものだと聞いていたので、さほど驚かず、むしろ想定通りであることを知って安堵さえした。

 そのために病院で二十四時間体制で診てもらっているのだから。

 やがて一週間が過ぎ、俺はゲームセンターを訪れた。

 店員は相変わらずの様子で、俺は最近の様子について尋ねるも、未だ昏睡状態で目覚める兆候は見られないらしい。新しい薬だからその目安となるものが無いのだ。

 ただし血液検査の結果は、少しだけ改善に向かっているように見えるそうだ。

 また何かあれば教えてください、とだけ伝えて俺は帰宅する。

 特にこれといった出来事が起こらない毎日。

 後輩との仲も順調だし、仕事の面でも特に問題はなし。以前のような平穏無事な日々が戻ってきたように感じられなくもない。

 ただ、どうしたってかにかに14の容体が気になってしまう。

 そうこうしているうちに、俺に転勤の辞令がきた。

 新たに支社を作るので、その立ち上げメンバーとしての大抜擢だ。支社長というポストではないが、本格的に稼働するまでは実務レベルでのトップと言って差し支えない。

 特急で1時間ほどの距離とはいえ、後輩は離別を寂しがったが、これも仕事だと言い聞かせて俺は異動した。


 そして忙殺されるという表現がしっくりくる毎日が始まった。

 仕事以外の時間は寝ているような日が続いた。

 気が付けば週末が訪れ、その週末もほとんどが仕事に費やされ、休みの日はやはり一日中寝ているような、そんな生活がしばらく続いた。

 後輩からのメールも毎日来ていて、俺もなるべく返信するようにはしていたが、ある日などは朝起きたら返信メールの入力中だったりもした。

 このまま疎遠になってしまうかとも思われたが、そうはならなかった。

 支社の本格稼働を前に、俺は元の本社に栄転することとなった。

 ありがたいことに給料も上がり、忙殺されている間に貯金も増えた。

 かつて住み慣れたアパートの近くに手頃なマンションを見つけ、契約した。

 戻ったら後輩と一緒に暮らすことも視野に入れていたときに、ふとかにかに14の事を思い出した。彼女が入院してから十一か月が経過していた。この間、正直なところかにかに14について考える暇がなかったので、ふと思い出した時には今どんな容体なのだろうと気になった。

 明日は引っ越しなので荷物をまとめている途中だったが、ひとたび気になりだしたら居ても立っても居られない性質なので、すぐに店に電話をしてみると、現在使われておりませんと自動音声が流れてきた。

 移転先の電話番号の案内は無く、個人的な携帯電話の番号は把握していないため、現時点では音信不通である。

 一抹の不安、どころか最悪のシナリオが脳裏をよぎる。

 インターネットで例のゲームセンターを検索してみるとリニューアルオープンのニュースばかりで、店じまいするところを動画クリエイターの二人組が引き継いで運営しているらしいことは分かった。

 つまり、あの親子はもうあの商店街には居ない。

 昨日の今日でそうなったわけではない。ゲームセンターのリニューアルのニュースは二ヶ月ほど前だから、その頃にはもう現状と大差なかったはずだ。なのにその事実を知った瞬間に、何もかもが一気に変容してしまったような気分になってしまう。

 だが、何かあれば店員か研究所か、どこかからは連絡が来るはずだ。

 それが無いということは、少なくともまだ大丈夫ということか。

 過去のメールを見返してみると、研究所からの定期報告のようなメールで少なくとも先週までは大きな変化は無いことになっている。どういうことだ。

 ともあれあの子は、昏睡状態であるとはいえ、迎えられないと宣告されていた十四歳の誕生日を迎えることは叶ったわけだ。

 思い返してみれば夏の終わりに妙なゲーム機を通じて風変りな交流が始まり、秋には研究所とのやりとりが始まり、春先には治験が始まり、それから十一ヶ月。具体的に誕生日を聞いてはいないが、かに座らしいから六月頃だろう。だとすれば今は十四歳と半年ぐらいだろうか。

 明日、久しぶりに後輩とも会う。何か知っているかも知れないから聞いてみよう。

 俺はそんな事を考えながら荷造りを終えて、すぐに寝入ってしまった。


 翌朝、引越屋が来た。

 大した荷物もないので、存外小さなトラックが一台、俺の荷物を積んで出発していく。

 一緒に乗せてくれると言ってくれたが、知らないおじさんと一緒に高速道路を走るのはどうにも気が引けたので、俺は特急で移動することにした。

 駅弁を食べる機会がないので、実は密かに楽しみにしていたのだ。

 昼食時には少し早いが、移動中に食べてこその駅弁だと思うので弁当の蓋を開ける。

 少し離れた席では出張中だろうか、サラリーマン風の男が独りでビールを飲みながら、ピーナツか何かをポリポリやっている。飲みたいわけでもないが、昼間から飲めるその環境が羨ましい。

 弁当を食べ終わるとデッキにあるごみ箱に弁当の空き容器を捨てて、トイレに寄ってから座席に戻る。

 大きなあくびが出る。食べた直後は眠いが、ここで眠ってしまうと乗り過ごす恐れがある。

 睡魔と戦いつつ、無事に目的の駅で降りることに成功。

 およそ一年ぶりの懐かしい駅。基本的には何も変わっていないように見える。

 駅から少しのところにある、俺が新居として契約したマンションで待っていると、チャイムが鳴った。

 アパートと違い、オートロックでモニターが付いている。

 引越屋かと思えば、そこには満面の笑みを浮かべて、これでもかと手を振る後輩の姿があった。

 モニター越しの再会。

 すぐにオートロックを解除して部屋まで来てもらう。

 「や、久しぶり。」

 言い終わるが早いか、後輩は俺に抱き着いてくる。

 構ってくれないから寂しかったとか何とか、一通りの愚痴を聞いてから、後輩は言った。

 「私だけ先に来ちゃいました。」

 後から誰か来るのか?聞いていないぞ?と思いつつ、まだ荷物が無い部屋は新鮮な光景には違いなく、窓から見える景色などを眺めていると再びチャイムが鳴った。

 後輩は勝手にインターホンを操作してオートロックを解除した。

 改めて玄関扉のところでチャイムが鳴り、後輩がドアを開けて訪問者を招き入れる。

 「紹介します。父、母です。」

 外堀から埋めにかかっている。別にそんな事をしなくても、と思ったが、緊張の度合いは一気に上昇する。

 「初めまして。」

 俺は努めて丁寧に、しかし慇懃無礼にならないよう最大限の注意を払いながら自己紹介をした。

 こちらの改まった挨拶とは対照的に、意外なほどにフレンドリーな態度で後輩の両親は接してくれた。

 よくドラマなんかで「お前のようなやつにうちの娘はやらん!」というのがあるが、あれは本物のフィクションなのかも知れない。

 会社での事を後輩が盛大に尾ひれ背びれを付けて語っていた上に、ワイドショーで癌治療薬の署名運動が取り上げられた際、テレビで俺の名前こそ出なかったものの、家の中では俺が関わったことを喧伝していたそうだ。

 そういう予備知識からすっかり人格者で仕事が出来る男としてのイメージが付いてしまったようで、そういう相手ならいちど挨拶に、というのが事の次第だ。

 悪い気はしないが、いきなりハードルを上げすぎではないかとも思った。

 そこへ、引越屋が到着する。

 荷物が少ないので作業はすぐに終わる。

 後輩の母が「これならあなたの荷物も入るわね。」などと娘に言っている。

 本来はこちらからご挨拶に伺うべきところを、などという無難な挨拶をして、ほどなくして両親は帰っていった。

 荷ほどきもしなければならないが、かにかに14の事がずっと気になっていた俺は、その事を後輩に聞いてみた。

 まず、かにかに14は今も昏睡状態のまま入院中。

 店員は病院の近くで暮らしている。

 ゲームセンターは例の二人組に譲った。

 話を整理すると、こういう事らしい。

 収入が無くなったら大変だなという話をしたら、例の二人組が店を法外な値段で買い取ったらしい。

 もちろん金額は知らされていないだろうが、当面生活には困らない程度の額なのだろう。彼らなりの感謝の気持ちの表れなのかも知れない。

 どうしてその事を教えてくれなかったのかと聞いたら、メールで送ったという。そして後輩が俺に伝えておくからと言っていたから、当事者たちは俺が忙しいだろうからと連絡を控えていたようだ。

 俺が後輩からのメールをちゃんと読んでいなかっただけだったことが判明して、平謝りだ。

 午後からは二人で買い物に行き、新生活に必要なものを色々と買ってきた。

 二人掛けのダイニングテーブルには、いつぞや購入したペアのマグカップが久しぶりに並んでいる。


 昇進を果たした俺は、忙しいながらも充実した日々を過ごしていた。

 後輩とは入籍だけして、挙式はまだか、孫の顔はまだかと義理の両親から言われることもしばしばある。

 そういうプレッシャーも悪くない、などと思っていた頃に、研究所から連絡があった。

 かにかに14の意識が戻ったというのだ。

 検査の数値はまだ手放しで喜べるものではないが、このままいけば退院もあり得るという話だ。

 治験を開始してから一年と四か月。もう春だ。

 長かったような短かったような、不思議な感じだ。

 あれやこれやと随分いろいろ変化もあったが、果たしてかにかに14自身はどうだろうか。

 当然一年以上眠ったことなどないから見当もつかないが、まだ自分自身の感覚では十三歳のままなのかも知れない。

 研究所の分析では、薬に関してはおおよそ想定通りの働きをしていたらしい。

 ただしこんなに時間がかかったのには、細胞の置き換わりに時間がかかったことが影響しているという。

 人間の細胞は常に分裂し、古い細胞は老廃物として体外へ排出される。一般的に五年程度で、人体の全てが別の細胞に置き換わると言われているから、だから厳密には五年ぶりに会う人は物理的には赤の他人と変わらないわけだが、そこはテセウスのパラドックスと同じことだ。

 癌細胞が死滅した後、排除され空白になったその部分を正常な細胞が取って代わる。そのサイクルに時間がかかったわけで、今後の課題としてはその正常な細胞をいかに早く「補充」できるか、という点が問題になってくるというが、正直なところその問題の解決策については全く見当もつかない。

 ともあれ、運が悪ければ五年かかる細胞の置き換わりが一年と少しで終わったとするならば、成長過程にあったこと、もっと言えば小児癌だからこそのスピードだったと言えるのかも知れない。

 ただし薬が作用している間は一時的とはいえ多臓器不全に似た症状が表れたりしていたので、どちらにしても問題は山積みのようだ。

 だが結果だけ見れば、癌細胞は排除され、失われつつあった各種の機能も戻りつつある。手放しに成功とは言いづらい面もあるにはあるが、命が助かったという一点を以て成功と言って差し支えない。

 実は内臓その他よりも、長期間寝たきり状態のだったためADL(日常生活動作)が著しく低下しているので、まずは歩くところからのリハビリが必要になり、そちらの方が大変かも知れないという話もある。命あっての物種とはよく言ったものだ。


 ジューン・ブライドに対するこだわりは、俺は無くとも妻にはあったらしく、その時期に挙式することにした。

 別にいつだって構わないじゃないか、というような事を言わないのが夫婦生活を長く続けるコツらしい。思わず言ってしまいそうだから気を付けるに越したことはないな。

 身内だけを呼んでの小規模な結婚式。それでも多少はゲストを呼ぶ計画。

 挙式当日、梅雨の時期の貴重な晴れ間。

 純白のドレスに身を包んだ妻の姿を見て、改めて結婚したのだという実感が湧く。

 特にどの宗教を信じているということもないつもりだが、結婚式といえば教会で行うものというイメージがあり、牧師さんというのか神父さんというのか、とにかくそれっぽい人の前で結婚の誓いを行う。

 多少、事前に打ち合わせをしたが、基本的に言われるがまま。後から思い返してみると、この時の記憶はほとんど残っていない。緊張していたのもあるだろうが、ほぼ言いなりで主体性が無かったのが原因だろう。

 式を終えてチャペルから出ると、声をかけておいた友人たちが迎えてくれた。

 俺は両親と親戚一同、それに妻の両親、同期の数人以外は知らない顔ぶれだ。どうしても知った顔に対して話しかけてしまう。

 それは妻も同様で、双方の知り合いというのは数えるほどしかない。

 この後は簡単な食事会が予定されているので、とりあえず借り物の衣装から余所行きの私服に着替える。

 男はスーツ姿になればいいが、こういう時に女性は大変だろう。

 当然というべきか、俺の方が先に着替え終わって会場に入る。豪華な披露宴だったらお色直しと称してイベントになるようなものだが、この程度が俺たちには身の丈に合っているように感じる。

 大学時代の友人が駆けつけてくれたりして、思ったよりは大勢のゲストがいる。

 遅れて妻も会場入りする。

 それを受けてすぐに司会がマイクでアナウンスを始める。

 その司会はまさかの店員である。昔は大きなゲームセンターでイベントを仕切っていたりしたことがあるそうで、なかなかのマイクパフォーマンスである。

 それにしても娘が大変な時にわざわざ来てもらって申し訳ない気持ちにもなるが、実に嬉しそうに生き生きと司会をしてくれている。

 まずは乾杯で、特にイベントなど用意してこなかったのでさっそくご歓談を、となる。

 友人知人がビール瓶を持って俺たちのテーブルにやってくる。

 飲ませ過ぎたら大変だとは思っていても、次々とグラスのビールを飲みほしていく妻の姿は心配でありながら逞しくもある。

 しばらく楽しい時間があって、途中で即興のスピーチやアカペラの歌など、ずいぶんと混沌の度合いを深めてきたころ、司会が口を開いた。

 「ご歓談のところ、ここでお花のプレゼントです。」

 会場の入り口の方に手を向けて、視線を誘導する。

 誰が担当しているのか分からないが、ドラムロールが流れる。

 ドアが開いて、二人組の男性が入ってくる。動画撮影の二人だ。

 だがその手には花などはなく、ただ動画撮影用のジンバルがあるだけだ。

 司会がその二人に近づいていき、マイクを渡す。

 紫色の髪の男が祝福の言葉を言って、もう一つの出入口の扉を見るように促す。

 そこには一人の女性が立っていた。背格好から成人女性には思われない。

 手には大きな花束があって、顔はよく見えない。

 ゆっくりとした歩みで俺たちのテーブルのところに来て、大きな花束を妻に渡すと会場には大きな拍手が響く。

 それから満面の笑みとともに、その少女は俺たちだけに聞こえる程度の声量でこう言った。


 「おめでとうございます。そしてありがとうございました。かにかに15です。」


かにかに14 おわり

 最後までお読みいただき感謝です。

 果たしてこの物語は、ジャンルとしては何になるのでしょうか。

 日常といえばそうだろうし、しかし非日常というかSF的な側面も感じられるように思います。

 「俺」の視点で描いた物語ですが、「後輩」や「店員」視点での物語もあるでしょう。

 そうそう、「俺」も「かにかに14」も「店員」も「後輩」も、名前は敢えて設定していませんし、作中でも名前は名乗らせていません。

 そもそも日常生活で名前で呼ぶシーンって、意外と少ないと思いません?代名詞とか肩書ばかりで。

 だから名前のアイディアはありますが、名前の設定は無くても書けるんだってことが分かった気がします。

 お楽しみいただけましたでしょうか。

 最後の方の展開では涙しながら書きましたので、何か心に響くものが残れば嬉しい限りです。

 ありがとうございました。

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